白鯨のいる水族館.png
    第二章 ローズタウンの人々

 アイリーンの家は、ローズタウンの中心から少し外れた、静かな住宅地の中にあった。白いペンキ塗りで、茶色の屋根の、緑の芝生に囲まれた一階建ての家だった。芝生の隅には小さなバラの庭があって、一人の少女がバラの手入れをしていた。少女は、アイリーンとジムを載せた車がガレージに入るのを見ると、アイリーンに向かって手を振った。
 「やあ、ママ、お帰りなさい。」 
 アイリーンは少女に向かってウィンクすると、車のエンジンを止めた。それからアイリーンは少女の方に歩いて行ったので、ジムもアイリーンの後ろに隠れるようにして、ついて行った。
 「やあ、ジャッキー。バラの調子はどう?」
 「今年は雨が少なかったので、虫があんまりいなくて助かるわ。」
 それから、しばらくの間アイリーンとジャッキーはバラの話をした。ジムは、困ったようにアイリーンの後ろに立っていた。
 そのうち、やっと、アイリーンは思い出したように
 「ああ、そうそう。これが、今度私の息子になったジムよ。あなたにとっては、一歳年下の弟になるわけね。」
と言って、ジムを紹介した。
 ジャッキーは、こぼれるように笑うと、ジムに向かって手を差し出した。
 「よろしく。私、ジャックリーヌよ。皆、ジャッキーって呼ぶわ。私、今度の木曜日がくると、十二才になるの。誕生パーティーで、皆にあなたのこと紹介するわね。でも、あなたなかなかいかすわね。私、友達に自慢しちゃうわ。」
 ジムは、差し出された手を恥ずかしそうに握った。
 「よろしく。僕は、ジェームスっていうんだ。皆、ジムって呼ぶよ。八年間、ニューヨークの孤児院にいた。両親が誰だか、全然覚えていないよ。」
 ジャッキーは笑った。
 「私もパパがいないから、同じようなものね。それよりも、私ニューヨークに行ったことがないの。どんなところか、話を聞かせて。」
 気がつくと、いつの間にかアイリーンはいなくなっていた。

 ジムが里親のアイリーンの家にきてから三日がたった。ジムは、居間の横の、小さな部屋をもらった。部屋は芝生に面していて、机とベッドがあった。
 アイリーンとジャッキーがいる間はポケットに手を突っ込んで立っていたジムだったが、二人がいなくなると、さっそく部屋の隅々まで見て回った。ジムは、自然に、「聖者の行進」を口笛で吹いていた。
 何しろ、孤児院では四人部屋で、自分だけの部屋を持つのは生まれて始めてだったから、うれしくてたまらなかったのだ。それに、この部屋の壁紙は植物模様だったので、もっと男の子らしい、ジムが好きな壁紙に替えていいと、アイリーンは言ったのだ。ジムは、ベッドの上に横になって、どんな模様の壁紙にしようかと、いろいろ考えを巡らせてみた。
 ジャッキーの部屋はジムの部屋の隣だった。ジャッキーの部屋も芝生に面していて、ちょうどバラの庭が見えるようになっていた。部屋の壁紙はバラの模様で、机の上にはバラの栽培に関する本や、バラの模様のついた文房具が置いてあった。
 「きみはバラが好きなんだね。」
 ジムは自分は関心がない、というように言った。実際、ジムにとってバラはバラで、それ以上でもそれ以下でもなかったのだが、ジャッキーにとってはバラはバラ以上の何からしいのだった。
 ジャッキーの机の上には、女の子の赤ちゃんが、男の人のひざに抱かれて写っている写真があった。
 「それは、私と、ミスター・スミスよ。」
 ジムが黙っていると、ジャッキーは続けて説明した。
 「ミスター・スミスは、私のお父さんなの。ミスター・スミスとアイリーンは、私がまだ小さいときに離婚しちゃったの。ミスター・スミスは、今はサン・フランシスコで建設会社をやっているんだって。私は、お父さんがどんな人だったか覚えていないし、会ったこともないのよ。」
 ジムは、アイリーンが離婚しているということをその時初めて知った。もっとも、フランクの言うように、この国では離婚など珍しくもないのだけども。
 ジムとジャッキーがそうやって話していると、アイリーンが部屋に入ってきて、木曜日のジャッキーの誕生パーティーの準備に、お菓子や飾り付けの小道具を買いに行こうと誘った。
  その誕生パーティーもいよいよ明日だ。ジムは居間で飾り付けを手伝った。ジャッキーは友達を十人も呼んだのでわくわくうれしくて仕方がない。
 「明日は大いに楽しみましょうね。あなたも、たくさん友達ができるわよ。」
 ジムは、その言葉を聞いて、何故か急にどこかに逃げ出したい気持ちになった。うれしいような、不安なような、妙な気持ちだった。
ローズタウンの連中と言うのは、どんなやつらなのだろうか。

 ジャッキーの誕生パーティーの日は、朝から雲ひとつなく晴れて暑くなった。パーティーは午後三時からだったので、午前中はジムは芝を刈ったり、水をまいたりの手伝いをした。ジャッキーは台所でクッキーを焼いた。アイリーンは朝から水族館に出かけていて、いなかった。
 パーティーの時間が近づくにつれて、ジャッキーはそわそわし始めた。ジムも何故か落ち着かなくなって、あちらこちら歩き回った。二時半くらいになると、ジムは自分の部屋に閉じこもってしまった。ジムが何をしていたかというと、ジムは、ベッドの上に腰掛けて、「やあ」というべきか、「はじめまして」というべきか、「いい日だね」というべきか、いろいろと考えていたのだ!
 やがて、パーティーに呼ばれたジャッキーの友人達が、次々と家にやってきた。三時には、招待した友人はだいたいそろった。ところが、ジムが部屋から出てこないので、ジャッキーが呼びに行かなければならなかった。
 ジムが居間に入っていくと、居間には男の子と女の子が数人づついた。皆、何かを話していて、ジムが入っていっても、誰も気がつかなかった。そのうち、ジャッキーが入ってきたのを見て、女の子が一人やってきた。ジャッキーは、その女の子にジムを紹介した。デンナという名前だった。
 「やあ、ジム」
 「やあ、デンナ」
 それから、デンナは一人一人にジムを紹介した。皆、「はじめまして」や「いい日だね」などとは言わずに「やあ」だった。
 ジャッキーはジムのために、ジムと同じ学年の男の子を三人呼んであった。ジムは、パーティーの間、だいたいこの三人と話していた。
 クリスはコンピューターが好きで、ジムにプログラムやソフトウェアや、ネットワークとかちんぷんかんぷんなことを早口でまくしたてた。クリスは、ジムに今度おもしろいゲームをやらせてあげるとか、ただで電話をかける方法を教えてあげるとか約束した。
 デーヴィスはとても背の高い黒人の男の子だった。デーヴィスはジムに、お前はニューヨークから来たのか、ニューヨークには黒人がいっぱいいるだろう、ローズタウンには余りいない、僕のお父さんは弁護士で金持ちだなどと話した。デーヴィスとジムは、九月になって新しい学年が始まったら、一緒にバスケットボールチームに入ろうと約束した。
 三人目のラリーは、とても太っていて、ケーキもクッキーも誰よりも多く食べた。ラリーの趣味は釣りで、今度ジムを大物が釣れる秘密の場所に案内すると約束した。
 ジャッキーは、他の女の子達と一緒に楽しそうに話していた。クリスがジムに耳打ちして、あの中では誰が一番かわいいと思うかと尋ねた。ジムは答えなかったが、心の中ではジャッキーが一番かわいいと思った。
 パーティーは夜八時くらいまで続いた。ジムにとっては、子供が自分たちだけでパーティーをやることや、大人のようにグラス(もちろん中身はお酒ではないが)を持って談笑することなど、びっくりすることばかりだった。まるで、テレビドラマのようではないか!

 ジャッキーの誕生パーティー以来、ジムには何人かの友達ができた。その中でも、ジムと一番の仲良しになったのは、コンピュータ少年のクリスだった。クリスの家はアイリーンの家からあるいて五分くらいのところにあって、ジムは毎日のようにクリスの部屋に遊びに行くようになった。
 クリスは、コンピュータ以外のことも、いろいろ詳しく知っていた。それにおしゃべりだったので、ジムはクリスの話を聞いているだけでローズタウンのことや、アイリーンのこと、それにジャッキーのことなど、いろいろ知ることができた。
 「お前のお母さんになった、アイリーンと言うのは、大した科学者なんだぜ。海洋生物学っていう学問の、博士号も持っているんだ。前に、一年くらい南極に鯨の観察に行ったこともあるらしいよ。実際、こんな田舎町の水族館に置いておくには惜しい人物だって、皆言ってるぜ。もっとも、ローズタウン水族館はベルーガ鯨の研究にかけては、北米でも有名なところらしいけれどね。アイリーンは水族館に泊まり込むような変わりものだから、前の夫とも別れてしまったらしいんだ。僕も科学者になるつもりだけれど、自分の奥さんにはあんな変わりものはご免だね。」 
 ジムは、クリスの話を聞いて以来、急にアイリーンのしている仕事に興味が出てきた。南極に一年もいるなんて、なんてすばらしい冒険なんだろう。それに、ローズタウンに来た翌日の朝に見た、朝日の光の帯の中に漂うベルーガ鯨の姿も、急に生き生きとジムの脳裏によみがえってきた。ジムは、生まれてからベルーガ鯨のように白くて、優美な感じの生き物は見たことがないような気がした。ジムも、南極とやらに行ってみたくなった。
 アイリーンは毎日朝早く出かけて、夜も八時くらいにしか帰ってこなかった。それに時々は水族館に泊まるので、ジムがアイリーンと顔を合わせるのは朝ご飯の時ぐらいだった。アイリーンは相変わらずジムのことをふざけたように「私のジム坊や」と呼んだが、ジムの方はアイリーンのことをなんと呼んでいいのかわからなかった。そのせいもあって、本当はいろいろ話がしたくなったのだが、ジムはただ黙ってアイリーンの前に座っているだけになってしまうのだった。 
 復活祭の休暇が終わって、小学校の授業が始まった。ジムとジャッキーの行く小学校は、小さな湖のほとりにあって、フェアレイク小学校という名前だった。アイリーンの家からは歩いて十五分ほどのところだ。ジムは、新学期のために真新しい青の通学カバンと、リーボックのスニーカーを買ってもらった。
 登校日の初日は、クリスがジムのことを迎えに来た。ちょうどジャッキーも出かけるところだったので、三人は一緒に小学校への道を歩いて行った。学校に近づくに連れて、色とりどりの通学カバンを持った子どもたちの数が増えてきた。黄色いスクールバスも時々通る。ジムは、ローズタウンにこんなに子どもがいるなんて、思っても見なかった。久しぶりに、ブロンクスの人の多い通りに戻った感じだ。ただ、ローズタウンの空は、灰色にどんよりと曇っていなくて青く澄んでいるのが違うところだ。
 小学校に着くと、まずジムは校長室に行って、自分がどのクラスに入っているか確かめた。ブロンクスでジムが行っていた小学校は一学年が十クラスもあったのだが、フェアレイク小学校は三クラスしかなかった。好運なことに、ジムはクリスと同じ五年B組に入ることになった。しばらくすると担任のパウエル先生が校長室に入ってきて、これからのスケジュールについて説明した。それから、ジムに教科書を渡した。パウエル先生は、教科書は厚くて重いので、家には持って帰らず、自分のロッカーに入れておくようにと指示した。
 教室にはいると、皆それぞれ好きな席に座るようになっていた。ジムはクリスと一緒に、教室の一番後ろの席に座った。
 五年B組は三十人ほどだった。ジムは教室の中を見回してみたが、ジムの他には黒人の女の子が一人と、東洋人の男の子が二人いるだけで、後は白人の子どもたちだった。まあ、そんなことはどうでもいいことだけれども。
 学校生活の初日はあっという間に過ぎてしまった。ジムは、学校が終わるとクリスに誘われて、コンピュータの店に寄った。それから、家に帰った。

 ジムが家に帰ると、アイリーンが男の人と一緒に居間でお茶を飲んでいた。ジムが、気づかれないようにそっと自分の部屋に入ろうとすると、アイリーンが声をかけてきた。
 「あら、ジム、お帰りなさい。ここに来て、一緒にお茶を飲みなさいよ。」  
 ジムはアイリーンと男の人が座っているソファーの反対のソファーに座った。
 ジムは、アイリーンのいれてくれた紅茶に砂糖をスプーン三杯入れると、ゆっくりゆっくりとかき回した。アイリーンは男の人のカップにも紅茶を入れると、紅茶ポットを持って、台所の方に立ち上がって行った。
 ジムは、紅茶をかき回しながら、目のすみの方で男の人を見た。男の人は黄色い格子縞のシャツを着ていて、右手の中指に大きな指輪をしていた。薄い茶色のあごひげを伸ばしていたが、頭の方の髪の毛は少し薄くなっていた。目はくりくりと大きく、時々ジムの方をちらちらと見る時の表情は、とても若々しく見えた。
 この人は、一体誰なんだろう?
 アイリーンは、白い皿の上にポテトチップスを載せて戻ってきた。アイリーンはしばらく立ち止まってジムと男の人をかわるがわる見ていたが、やがてジムの前にポテトチップスを置くと、男の人のとなりに座った。
 「新しい学校はどうだった、ジム? 担任の先生は誰? 」
 ジムは、担任の先生はパウエルさんで、クリスと同じクラスになったと短く答えると、後は紅茶をかき回しながら黙っていた。
 「きみの息子はおとなしいんだね。」
 男の人が言った。アイリーンは、笑って言った。
 「まだうちに来て一週間しか経っていないから、慣れていないのよ。それに、あなたもいるし。」
 男の人は肩をすくめると、ジムに向かって手を出した。
 「やあ、ジム。僕はチャールズだ。」
 ジムは紅茶をテーブルの上に置くと、差し出された手を軽く握り返した。
 「チャールズ、ジムと一緒に、バスケットボールをしたら。」
 アイリーンは男の人の肩に手をかけて言った。男の人は、立ち上がって言った。
 「それはいい考えだ。どうだい、ジム。バスケットボールをしようか。」
 ジムは黙ってうなずくと、物置の中のバスケットボールを取りに、駆け出して行った。
 その日、チャールズという男の人は、ジムと三十分くらいバスケットボールをやった後、居間で少し休んで帰っていった。
 夕方になるとジャッキーが帰ってきて、アイリーンとジムと三人で食事をした。
 ジャッキーは、夕飯を食べながら、アイリーンにその日学校であったことを早口でしゃべった。アイリーンは、黙ってうなずきながら聞いていたが、喋ることといったら、
時々
 「コショウをとって」
とか、
 「この豚肉とコーンの炒めものおいしいでしょう?」
とか、ジャッキーの話に関係ないことばかりだった。アイリーンは、どちらかと言えば、何か物思いにふけっているように見えた。
 アイリーンとジャッキーの顔を眺めながら、ジムは妙なことを考えた。今サンフランシスコにいるという、ジャッキーのお父さん、つまりミスター・スミスは、どんな顔をしていたのだろうか。ジムは、ジャッキーの顔から、アイリーンの顔を引き算すると、ミスター・スミスの顔になる気がした。そこで、ジムは実際にジャッキーの顔からアイリーンの顔を引く引き算を想像してみたのだが、突然おかしくなってコーンを吹き出してしまった。アイリーンがぼんやりとジムの方を見て、テーブルの上に飛び散ったコーンを紙ナプキンでふいた。
 アイリーンは食事が終わると、水族館での宿直の仕事のために出て行った。ジムの頭の中に、
 「アイリーンは水族館に泊まり込むような変わりものだから」
というクリスの言葉が浮かんだ。

 その週の土曜日は、ジムはアイリーンに連れられてローズタウンのダウンタウンのデパートに壁紙を買いに行った。ジムの部屋の壁を張り替えるためだ。
 アイリーンは、途中で車を止め、「ヘンリー銀行」という緑の看板の銀行の中に入って行った。ジムが車の中で待っていると、アイリーンが  男の人と話しながら出てきた。
 あの人だ!
 この前家にいた、チャールズという男の人だった。アイリーンはしばらく立ち話をしていたが、やがて手を振ると、車の方へ戻ってきた。
 ジムがデパートで選んだのは、青い空の中に白い飛行船が浮かんでいる壁紙だった。本当に真っ白な飛行船で、アメリカン・フットボールのように細長い気球の下に、アボガドのような船体がついていた。船体にはいくつか窓が開いていて、そこに人が乗るのだろうとジムは思った。船体の後部にはプロペラがついていて、絵を見ていると、そのプロペラがぶるぶると回転する音が聞こえてくるようだった。
 そのデパートに、壁紙は何十種類もあったのだが、ジムはなぜか見た瞬間にこの飛行船の壁紙が気に入ってしまったのだ。ジムは、今まで飛行船など一度も見たことがなかったのだけども、その壁紙はなぜか気に入ってしまったのだ。ジムにとって、その気に入り方は、聖メアリ孤児院の中庭にあった楡の木が気に入ったのと、同じような気に入り方のような気がした。というわけで、ジムは興奮して、アイリーンに
 「決まったよ」
と言った。ところが、ジムがその壁紙がいいと指さすと、アイリーンは特に感想を言わないで、ぼんやりと店員のおばさんに壁紙を2ロール渡すと、クレジット・カードで代金を支払っただけだった。
 翌日の日曜日、アイリーンは朝から水族館に出かけて留守で、ジムはジャッキーに手伝ってもらってさっそく壁紙の張り替えをした。難しいのはとなり合った壁紙の模様を合わせて、しわができないように貼ることだ。ジムは壁紙を貼りながら、この間からずっと頭の中にあったことを聞いてみた。
 「ジャッキー、チャールズっていう男の人知ってるかい?  」
 ジャッキーは壁紙を貼る手を休めずに答えた。
 「もちろん。チャールズは、アイリーンのボーイフレンドなの。銀行に勤めていて、アイリーンより一歳年下なのよ。」
 ジャッキーは、手を止めると、しばらくぼんやりと壁紙の飛行船を見つめた。ジムは、そんなジャッキーの横顔をそっと見た。
 「アイリーンは、あの男の人と結婚するのかな。」
 ジャッキーは、肩をすくめた。
 「さあ、どうかしら。ねえ、私、飛行船って一度だけ見たことがあるわ。ロス・アンジェルスに行ったとき、ビルとビルの間に浮いていたの。」
 ジャッキーはジムの方を見てにこりと笑った。
 日曜日、アイリーンの家に遊びに来たクリスは、ジムの部屋の新しい壁紙を見て顔をしかめた。
 「飛行船か。前時代の遺物だな。」
 クリスは、飛行機ができて以来、飛行船がすっかり時代遅れになってしまったこと、今では宣伝や、調査など、限られた目的にしか使われていないことを説明した。
 「まあ、体が大きいばかりで、動きがスローなところは、まるで恐竜だな。現代では、空に浮かぶ鯨といったところかな。お前、アイリーンのところに養子に来ただけあって、やっぱり変わってるよ。こんなものが好きなんてな。」
  二人はクリスの部屋に遊びに行くことになった。クリスの部屋には、コンピュータが二つあって、一つはゲーム専用、もう一つは他のコンピュータと電話線を使って通信するのに使われていた。なぜクリスがコンピュータに詳しいかというと、お父さんが技術者をしていて、子供の時からコンピュータが家にあったからだ。今では、クリスの方がお父さんよりも知識が豊富なほどだった。 
 クリスは、コークの缶をゲームに熱中しているジムの横に置いて尋ねた。
 「でも、君はアイリーンをお母さんて呼んでいるのかい? 」
  ちょうど宇宙人に向かって光線銃を撃つところだったジムは、ジョイ・スティックの赤いボタンを押しながら答えた。
 「ううん。なんとも呼ばないよ。」
 「君の本当のお母さんや、お父さんはわからないのかい。」
 ジムは、両親はジムが二才の時にいなくなって、どこに行ってしまったのかわからないのだと答えた。クリスはしばらく考えているようだったが、やがてコークを一口飲むと言った。
 「それはわからないぜ。本当はわかっているのに、両親の都合で隠しているのかもしれない。よくあることさ。産みの親がわかると、里親とうまく行かないことが多いらしいんだ。孤児院には、君の両親の記録があるかもしれないぜ。」
 ジムは、クリスをびっくりしたように見た。クリスは、大きく一つうなずいた。
 「本当だよ。本当にそういうことがあるらしいぜ。」

 ジムはクリスから「ジムの産みの親のことが本当はわかっていて、孤児院にはその記録があるかもしれない。」と聞いて以来、一週間そのことをいろいろ考えてみた。そんなことがあるかもしれないと思ったり、そんなはずがないと思ったりした。いずれにせよ、孤児院は、ジムには産みの両親のことを教えてくれないだろう、そうクリスは言う。それならば、いろいろ考えても仕方がない。
 何しろ、フランクの言っていたように、親のことなんか考えると、ろくなことがないのだ!
 週末になった。雲一つなく晴れ上がった土曜日だ。アイリーンは水族館が休みだったのでジムとジャッキーを連れて「タンネン公園」という、ローズタウンの北にある公園にピクニックに行った。パンを一袋、ハムを一本、チーズを一かたまり、レタスを四分の一個、それにキュウリを三本、トマトを二個、それにピンクのレモネードを持って行った。公園に着くと、大きなモミの木の下のピクニック・テーブルに座った。ジムがハムやチーズや野菜を切って、ジャッキーがそれをパンにはさんでサンドウィッチにした。その間、アイリーンはぼんやりと空の雲を眺めていた。初夏のタンネン公園はとてもさわやかだ。透き通った空気を胸いっぱい吸い込むと、身も心も洗われるようだ。
 ジムが出来上がったサンドウィッチをアイリーンの前に置くと、アイリーンははっと気がついたように我に帰ると、深いため息をついた。
 「今、あなたのことを考えていたのよ、ジム。あなたが来てもう三週間になるけど、あなたと話す機会が余りなかったわね。」
 ジムは黙って、足元に落ちていたモミの葉を拾い上げた。ジャッキーはレモネードを紙コップについでいる。
 「お母さんは、私と話す機会もあんまりないじゃない。」
 ジャッキーが冗談めかして言った。
  アイリーンがそれを聞いて黙って考え込んでしまったようなので、ジムは何か言わずにはいられない感じがした。実際、アイリーンはいい人なのだから!
 ジムは、咳払いをして、言った。
 「でも、僕ここに来て良かったと思ってるよ。孤児院より、こっちの方がよっぽどましだよ。」
 それはそうでしょうとジャッキーが言うと、三人は同時に笑いだした。それから、三人は一緒にサンドウィッチを食べ始めた。
 土曜日のタンネン公園はピクニックをしたり、散歩したり、フリスビーをしたりする人たちでいっぱいだった。アイリーンとジム、それにジャッキーはサンドウィッチを食べ終わると、タンネン公園の中を散策した。ピクニック・テーブルのあるモミの林を抜けると開けたところに出て、そこにはよく手入れされたフラワー・ガーデンがあった。一番最初にジョージおじさんを見つけたのはジャッキーだった。
 「あっ。ジョージおじさんだ。ジョージおじさーん! 」
 ジャッキーが手を振る方を見ると、一人の男の人が、フラワー・ガーデンで植物の手入れをしている。もうかなり年をとっていて、髪の毛は真っ白だ。男の人は、顔を上げると、ジャッキーたちの姿を認めて手を振った。ジャッキーは男の人の働いているフラワー・ガーデンの方に駆け出していき、アイリーンとジムもその後を追った。
 後でジムがジャッキーから聞いたところによると、ジョージおじさんはアイリーンの家の近所にすんでいて、バラづくりが趣味の、引退した軍人だ。海軍にいる頃は船に乗って世界中をめぐったのだが、引退してからは趣味のバラ作りを本格的に始めたのだ。今ではローズタウンの郊外の農場を買って、そこでバラの品種改良をしていると言うことだった。
 「でも、何でこんな所におじさんがいるの?」
 ジャッキーが、尋ねた。
 「ボランティアだよ。一か月前から、週に一回、ここでこうやって植物の手入れをしているんだ。もちろん、給料はゼロだが、それがボランティアってことだからなあ。ははははは。」
 ジョージおじさんは、ジムの方を見てウィンクした。
 「君の名前はなんて言うんだい、坊や。」
 ジムが答えると、ジョージおじさんはジムの目をのぞき込んで言った。
 「君の夢はなんだい、ジム? 私の夢はね、青いバラを作ることさ。人間は、何か夢をもたなくっちゃいけないよ。」
  「ジョージおじさんたら、いきなりお説教ね。」
 ジャッキーがそういうと、ジョージおじさんは雷が落ちるような大声で笑った。
 ジョージおじさんの大笑いが終わると、アイリーンがジムがローズタウンに来たいきさつを説明した。ジョージおじさんは熱心に聞いていたが、やがてジムに向かって親指を突き出して言った。
 「すると、アイリーンが君のお母さんっていうわけか。普通、離婚しちまった子連れ女のところには養子はよこさないものだけど、その孤児院はよっぽど里親先に困っていたのかな。」
 ジョージおじさんは再び大笑いした。ジムは、ずいぶんひどいことを言う人だと思ったが、ジョージおじさんは誰に対してもこんな感じなのだ。結局、ジョージおじさんは裏表のない、いい人なのだった。
 アイリーンは、まじめな顔をして言った。
 「本当に、里親の審査って、たいへんなのよ。経済力や、ちゃんとした家を持っているかとか、子どもの教育に理解があるかとか、そんなことを調べられるの。もっとも、ジムのような子が幸せになれるように、慎重にやるのでしょうけどね。ロイと離婚した理由も、いろいろ聞かれたわ。」
 「一年も亭主をほったらかして、南極で鯨を追いかけていたせいだって言ったのかい?」
 ジョージおじさんは、そう言いながら、また笑った。どんなことでも、笑わずにはいられない人のようだ。ジムは、ブロンクスでこんなに笑うのは、角のパン屋の、ラジオを聴いていた太ったおばさんくらいだと思った。そのおばさんは、大きな音でいつもラジオをかけていて、お客さんが来ると、いかにも大儀そうにゆっくりと立ち上がるのだった。そして、お客さんが「今日は暑いね」とか、「昨日はヤンキースが珍しく勝ったね」などとごくありきたりのことをいうと、それこそブロンクス中に響きわたるようような声で笑うのだった。
 ジョージおじさんは、「アイリーンが南極に鯨を追いかけにいった話」をまだまだ続けたそうだった。ジャッキーがうんざりした、という風に言った。
 「そんな話はもういいわよ。それよりもおじさん今年は青いバラは出来そう?」
 「青いバラ」という言葉を聞くと、ジョージおじさんの目が子どものように輝いた。
 「ダメなんだよ、ジャッキー。紫のやつは出来るんだけどね。紫のやつを品種改良して、青を強くして、赤を弱くすれば「青いバラ」ができるはずなんだけどなあ。」
 「もしできたら、おじさん大金持ちになるわね。」
 アイリーンが、二人は放っておきましょうと言うように、ジムの手を引いた。ジムはもう少し二人の会話を聴いていたかったのだが、仕方なくうなづいて、アイリーンと一緒にフラワーガーデンの周りをゆっくりと歩いていった。
 アイリーンとタンネン公園を歩きながら、ジムは自分がブロンクスとは全く違った世界に来てしまったことを思い出していた。ここでは、例えて言えば、全てのものが洗濯したばかりの木綿のシーツのようだった。
 「白人の里親なんてごめんだぜ」
そう言っていた、フランクの顔が思い浮かんだ。
 いつの間にか、ジャッキーとジョージおじさんの姿は、フラワー・ガーデンの反対側に遠ざかっていた。突然、ジョージおじさんの雷が落ちたような笑い声が聞こえた。きっと、ジャッキーとジョージおじさんは、まだ「青いバラ」の話に夢中になっているのだろう。

著者のノート
『白鯨のいる水族館』は、1994年、大学院生の時に書いた「習作」です。