リクルート・スーツ問題の本質について

6月6日に、下のようなツイートをした。

今日の夜、東京のある駅の近くを歩いていたら、全く同じようなリクルートスーツをきた学生の集団が数十人、騒ぎながら通り過ぎていた。画一性。没個性。この国は、本当に終わっているんだなあ、と思った。経団連のお墨付き。

これについて、さまざまなコメント、ご意見をいただいた。

その中には、厳しいご意見もあった。

それを踏まえて、改めて「リクルート・スーツ問題の本質」を考えてみたい。

私は日本の就活は問題を抱えていると考え、以前からそのような意見を表明している。

最大の問題は、「新卒一括採用」。

人事採用は、通年採用にして、新卒だろうが何だろうが、一切の「資格」的なものをなくすことが経営的にも合理的だし、人材の多様性という視点からも望ましいと考えてきた。

「リクルート・スーツ」の問題は、「新卒一括採用」というシステムに比べれば枝葉末節とも言える。
しかし、両者はマインドセットにおいて関係している。
上のツイートの、「経団連のお墨付き。」という文言は、そのあたりを指している。
「経団連」は、新卒一括採用という制度を維持してきた団体だから。

さて、「新卒一括採用」であるかどうかは別として、企業の面接に行く際に、それなりにTPOをふまえた服装をするのは当然だろう。

ジーンズやTシャツで行く必要はない。

「個性」を、服装で表現する必要もない。

ここまでは、当然。

私が、日本の「リクルート・スーツ」の群れを見て異様に感じるのは、それが、色合いやデザインを含めて、あまりにも画一的だからだ。

スーツを着るにしろ、デザインや色はもっと変化があって当然だろう。それが、あたかも「制服」でもあるかのように皆が着ている。

「TPOに合わせた服を着る」という社会的常識の範囲を逸脱している。

注目したいのは、このような「リクルート・スーツ」のデザインが、どのようにして決まっているか(社会的合意を得ているか)である。

企業の人事担当者は、社会通念として、面接や会社訪問に来る学生が、スーツを着てくることは期待しているかもしれない。
しかし、ある特定のデザインのスーツを着るということまでは、期待してはいないだろう。

それにもかかわらず、なぜ、近年の学生たちは就職活動時に「あの」特定のデザインのスーツを着るのか。

そこには、多くの人が指摘しているように、就職情報サイトや、服メーカーによる、「就活の際のスーツはこのようなもの」という情報の提示、誘導があるのかもしれない。

さらに、私が聞いた話を総合すると、学生たちの間で、「リクルート・スーツはこのようなデザインがいい」「髪型はこのようなものがいい」という、情報の共有、そして相互チェックが行われてもいるようである。

つまり、就職情報サイトや、服メーカーのある程度の誘導と、学生たちの相互チェックを通して、いわば「自己規制」の結果として、あの画一的なリクルート・スーツという事象が生じていると思われる。

上の私のツイートに対しては、「人は見かけで判断できない」「若者は内面で勝負している」「服装で個性を表す必要はない」というようなご意見をいただいた。

もっともな話だと思う。

私も、他人を見かけで判断しようとは思わないし、服装で個性を表す必要があるとは必ずしも思わない。

もちろん、ある人が、ある生き方をしていて、それが服装に自然に表れるのは素敵だと思う。そのような人が、TPOに合わせて、服装を選び、調整するのも素敵だと思う。

しかし、日本の就活における「リクルート・スーツ」の画一性は、そのようなTPOに合わせた服、といった基準を超えてしまっている。

何よりも問題なのは、リクルート・スーツはこのようなデザインのものを着てくるように、という採用企業側からの明示的な情報、ルールがない状態で、就職情報サイト、服メーカーの情報、誘導の効果もあって、学生たちがいわば自発的に(集団的な「引き込み現象」として)、あのようなリクルート・スーツを着ることを「選択」しているということである。

あくまでも、最終的に服を選択するのは「学生」側であって、誰も法律やルールでそれを強制しているわけではない。

つまり、服や外形で個性はわからない、内面で勝負、という主張はもっともだけれども、以上のような経緯、拘束条件の下であのリクルート・スーツを着ることを選択しているという事実自体が、その人の内面についてある傾向を示していることは、否定できないと私は考える。

もちろん、それがその人の内面の全てではないが。

私のツイートの中の「この国は、本当に終わっている」という表現について、補足したい。

私が日本という国を大切に思っていることは、私の過去の発言、書きものを辿っていただければわかるはずだ。

例えば、本居宣長から小林秀雄に至る系譜や、小津安二郎の映画に対する評価、あるいは日本の「もののはれ」や、源氏物語、能、狂言、歌舞伎など日本の伝統文化に対する評価などは、その一例である。

また、アニメや漫画などの近現代の日本の文化の特徴についても高く評価しているところである。

その上で、日本が、イノベーションや付加価値を生み出しにくい国になっているという厳しい現実認識もある。

このあたりは、『新しい日本の愛し方』(新潮新書)にも書いたところである。



私は、以上のような「リクルート・スーツ」に関する現状が、日本の停滞と関連しているという認識を持っている。

「リクルート・スーツ」の光景から、「この国は、本当に終わっている」とい文言が引き出されたのは、日本を愛する一人の人間の強い危機感の結果である。

就職活動にかぎらず、さまざまな分野でがんばっている人を応援する気持ちは人一倍強い。

私が学生さんたちにお願いしたいのは、さまざまな情報、状況がある中で、どんなスーツを着て会社訪問や面接に行くかを、自分自身で決め、選んで欲しいということ。

みんながやっているから私も、というのでは、社会として多様性が生まれないし、変化のダイナミクスも欠けてしまう。

なお、私は世代論は一切とらないし、年齢で人を判断するという習慣もない。

学生さんたちは、年上の人間からそのような視点であれこれ言われているという負の経験があるようだけれども、私自身はそのような意味であのツイートをしたわけではない。

最後に。
「多様性の基礎は、それぞれの人が自分で考え、判断すること。」



(みんな、それぞれの現場で、がんばろうにゃあ。)
catcover