武蔵野大学の長谷川秀夫教授が、「残業100時間で過労死は情けない」というコメントを書かれて批判されたことに対して、武蔵野大学が「処分」を検討しているという。このニュースを読んで、大学の対応に、強い違和感を覚えた。

長谷川先生のご発言が、適切でないことは当然として、言論の是非は言論の中で決着をつけるべきであって、それを「処分」という形で対応することが、言論の自由、という視点からみて疑問、というのがまずひとつ。

さらに、「組織文化」の問題である。「残業100時間」を強いる企業があったとしたら、そのような組織文化、体質が問題なのであって、そのことを是正する、というのが、正しい理路であろう。

同じことが、武蔵野大学についても言える。長谷川先生の「残業100時間で過労死は情けない」という発言が、個人の言論として批判されるのは当然として、より本質的に問われるのは、果たして、そのような方が教授をされている武蔵野大学は、学問の府として大丈夫なのか、ということだろう。

すべての学問は、人間の本質を理解することにつながる。現代における学問のあり方として、「残業100時間」を正当化するような発想は、あり得ない。だとすれば、「残業100時間」と発言された長谷川先生、そして武蔵野大学の「学問」の質が問われることになる。

武蔵野大学として、本当にやるべきことなのは、大学として、「残業100時間」を当然とするような文化が、自分たちの中にないかどうか、働き方や多様性などに関する価値観は大丈夫か、という自己点検、改善への取り組みだろう。教授一人を処分しても、大学としての質の担保にはつながらない。

日本の組織は、ほんとうに「処分」が好きだが、多くの場合、意味がない。「処分」で前提になっているのは、処分する組織側が「正しく」、無謬ですらあるということだが、そのような仮定は、多くの場合成立しない。とりわけ、働き方などの文化においては。

「残業100時間」を強いる組織だって、その社員を「処分」したりすることだろう。ほんとうに大切なのは、個人を「処分」して組織を守ることではなく、組織自体のあり方を自省することだ。武蔵野大学が、「処分」すべきなのは、長谷川先生個人ではなく、むしろ大学組織としての自分自身である。


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