2011-08-03 12:01:36

松田順治の物語

テーマ:松田のプロフィール
― 健康住宅との出逢い ―

2001年の夏のこと、当時、名寄に住んでいたある少女が、中学進学のために、札幌にいるおばあちゃんと一緒に暮らす事になりました。ところが、アレルギー体質があり、おばあちゃんの家に来ると涙と鼻水が止まらなくなるというのです。

数年前におじいさんを失い、一人暮らしをしていたそのおばあちゃんは、お孫さんとの生活をとても楽しみにしていました。けれども、今のままでは、お孫さんであるお嬢さんが、ちゃんと中学に通えるか分りません。

「孫のアレルギー、何とかならないかい?」

おばあちゃんから、ご相談を受けた私は、気の毒で胸が苦しくなってしまいました。

お孫さんの症状は、いわゆる「シックハウス症候群」。接着剤に含まれるアセトアルデヒドやホルムアルデヒドに反応して起こります。お孫さんは、普段の生活では何でもないのが、札幌のおばあちゃんの家にくると、目も空けられないくらいに涙が流れて、鼻水が止まらなくなってしまうのです。それくらい症状は深刻でした。


― 何とかしてあげたい ―

実は、住宅建築に使われる接着剤の殆どには、接着力や防腐効果を出すために化学物質が必ず含まれています。そして、この化学物質を完全に無くすことは、現在の技術では不可能なのです。

私は、おばあちゃんの悲しそうな顔をみて「これは何とかしてあげたい」と思いました。

しかし、一般的な方法では、このお孫さんの症状を無くすほどの効果を発揮することは簡単ではありません。

「これは一体どうしたものか」


― そんな馬鹿な!眉唾だろう ―

しばらくの間、私も、思案に暮れていたのですが、ある時「抗酸化溶液」との出逢いがありました。アレルギーをはじめとする健康問題に信じられないほどの効果があるというのです。

そして、ある知人の誘いで、その溶液を販売する会社のセミナーに出席すると、社長さんは「抗酸化溶液」を使用した洗剤のデモを見せてくれました。

実際、不思議な事に手は荒れないし、汚れも落ちるし地球環境にも悪くないということで感動してしまいました。

しかし、何かトリックがあるのかもしれませんし、ましてや、それが住宅に効果があるとはとても思えませんでした。

それでも、アレルギーのお孫さんにとって、一つでも良い情報があれば収穫です。私は、白老にある研究所に出かけて、開発の責任者に会い、「抗酸化溶液」が住宅に応用できるか相談してみる事にしました。

研究所を訪れてみると、驚いたことに、すでに「抗酸化溶液」を建築に活用する「抗酸化工法」のやり方は確立しているとのことでした。コンクリートに混ぜたり、クロスの下地に塗ることで効果を発揮するというのです。そんなに難しい技術ではありません。責任者は「これで、確実に効果がある」と胸を張りました。

「へぇ、そうですか!」といいつ、心の中では「そんな馬鹿な! 眉唾だろう」というのが、私の正直な気持でした。


― 松田さんがいうならやってみましょう ―

しかし、その時点で、私の知る限りにおいて、シックハウスに効果がある対策は他にはありません。さらに、大金がかかるものでもなく、一式、坪2万くらいで可能な工事でした。また、化学物質が機密性の高い室内に放出されなくなるために、強制換気も必要ありません。電気代も少なくて済みそうです。

今回のおばあちゃんの家は、20坪の増築をしてお嬢さんの部屋をつくる予定でしたが、私は、思い切って声をかけてみることにしました。

「実績は無いけれども、開発者のところにいって話を聞いてみました。やってみる価値はあると思います。他には、現在、有効なシックハウス対策はないんです」

「松田さんがいうならやってみましょう」

おばあちゃんのその一言で、「抗酸化工法」第一号工事にGOサインが出ました。

「信じてくれたおばあちゃんのためにも、これは成功させなければならない。責任があるし、絶対に喜ぶ顔が見たい。お孫さんに鼻水が出たり、涙が出ると成績が落ちる。

そうすると、娘さん(お母さん)に何なにを言われるのか分からない。気持ちよく勉強ができる環境をつくってあげたい。それに、これが上手くいけば、困っている人が沢山いるので、その人たちのためにも役に立てるかもしれない」


― お母さんからのご連絡 ―

そして、いよいよ工事開始。私も現場に行って直接指導して、一緒になって取り組みました。完成引渡しが12月。

引越しが終わった後、挨拶に行くと、皆さんびっくりしていました。以前のような症状が一切無いというのです。最初は、みんながニコニコしているのを見て、「ホントかな?」と信じられませんでした。
ところが、翌2002年5月、北海道新聞で、この物語が記事にされました(P10ページ)。取材に来た記者に、そのお孫さんは、自分が辛かったことを伝えたそうです。それを横で見ていたお母さんがびっくりして聞きました。

「あんたそんなに辛かったの? なんでもっと早く言わなかったの?」

お孫さんは「いってもしゃあないしょ」と答えていたそうです。そういう事がありまして、お母さんからご連絡を頂きました。

「子供があれだけ苦しんでいたのを自分も知りませんでした。本当に感謝しています」

それを聞いて、私は初めて喜びがこみ上げてきました。いや、嬉しかった。本当にやって良かった。そんな経験があったのです。

これをきっかけに、飛栄建設は「抗酸化工法」による健康住宅に力を入れることになりました。

以来、住み心地や健康状態の改善について、沢山のお喜びの声を頂いています。

お客さまと一緒に手を取り合って喜んだり、感動できる仕事に出逢えた私は、本当に幸せです。


― よく働く両親や兄弟 ―

私は1947年、10人兄弟の末っ子として積丹の古平で生まれました。両親は農業を中心に、冬場には漁師の手伝いをしたり、夜には縄を編んだりして、本当によく働いていました。祖父が他人の保証人になって莫大な借金を背負い、父がそのまま相続していたため家計はいつも火の車でした。

私や他の兄弟たちも、りんごの袋かけや収穫をはじめ、稲刈りや、苗の温床などもやり、年齢に関係なくみんなが働いていました。

「たまには、俺も遊びたいな」

当然、友達が遊んでいる時にも、家の手伝いをするのは当たり前です。すこし、すねたこともありましたが、よく働く両親や兄弟を見ていて自分も出来るだけ力になりたいと思いましたし、家族はいつも明るい雰囲気でした。

小学校5年生から中学3年までは一日も休まず新聞配達をして生計の足しにしました。田舎ですから家と家の間が離れていて部数も多くはありません。毎朝6時ぐらいに起きて、約1時間の仕事です。夏場は自転車があっていいのですが、冬は腰まで雪に漬かります。それでも、布団の中でじっとしてはいられません。子供といえども、待っている人がいるので、サボるわけにはいかないのです。

結構大変でしたが、やりきれたことは自信になりました。


― 中卒で国鉄ヘ ―

中学の卒業が近づいてくると、進学して中途半端に勉強するより、自分の力で生きていかなきゃと思うようになりました。

「高校の学費ぐらいなら出してやる」

年の離れた兄はそういってくれましたし、奨学金の試験にも合格していたのですが、勉強をするには札幌に出てくる必要があり、高校に通うのは、やはりお金がかかります。

そこで、私は、たまたま求人が出ていた国鉄に就職することにしたのです。

お給料もくれて、勉強させてくれて、学費は出さなくてもいいし、自分の分の食費が浮くので、親の助けにもなるはずだと思いました。

こうして、私は国鉄に入社し、ディーゼル車の整備をすることになったのです。毎日、朝から晩まで油だらけになって、列車のエンジンを解体したり修理したりする流れ作業。

仕事の後、お風呂に入って身体の汚れを落とすのが気持ちいいのと、自分が修理した列車が汽笛を響かせて日本全国を走っているというのがあるので、やりがいを感じていましたし、好きな仕事でした。

15歳で国鉄に入社して、18歳から22歳までの4年間は、札幌市内の定時制の高校に通いました。

あの頃は、どこの学校を出たのかという、学歴で人生が殆ど決まっていましたので、少しでも知識を身につけようと思ったのです。しかし、仕事が終わってから勉強をするのは大変で、半分くらいは寝ていたと思います。

その後、国鉄の中の大学にも挑戦したのですが、試験には落ちてしまいました。

あと、国鉄にいた時代から、私は、実は、「松田組」というのをつくって、建築の仕事をしていました。年の離れた姉のご主人が札幌で工務店をしていて、土日には戸建住宅の基礎をつくる手伝いをしたり、穴を掘るバイトをしていたのです。

それが、20代の頃の話で、30代になると、だんだんエスカレートして、小さな現場を任されるようにまでなっていました。

「うちは息子がいないから会社を継がないか?」

そのお義兄さんから声をかけてもらうようになったのをきっかけに、私は人生について色々と考えるようになりました。


― それが本当の人生か? ―

最終学歴が中学なので、国鉄の中では自分の先が見えてしまっています。あと、列車の修理は機械が相手ですが、直接、お客様の笑顔が見たいという気持ちもありました。

「あと20年頑張って55歳で退職すれば安泰の生活が出来る。でも、それが本当の人生かな? 死ぬ時まで分かる人生って、どうかな?」

そんな事を考えました。そして、自分の努力によって何かが待っているという人生もいいんじゃないか? それが、自分の使命だったんじゃないか? そんな気持ちで、結局は国鉄を退職したのです。

沢山の方から引き止めて頂いて、本当にありがたかったですが、決意は変わりませんでした。一番大変だったのが、妻に決意を話した時で、本当に必死でした。

「贅沢はさせられないかもしれないけれど、食うには絶対困らせない。ついてきてくれないか?」

嫌な顔をされると思いましたが、妻は、「あなたがいいのなら」と言ってくれました。あの時は、本当に嬉しかったです。なぜかというと、彼女は商売をしている家庭に育っていて、家族が顔を合わせることがないという生活を、ずっと、していたからです。家族が揃って食事をしたり、旅行をする事も殆ど無かったそうです。

だからこそ、「結婚するならサラリーマン」と思っていて、やっとサラリーマンのお嫁さんになれたのに、突然、私が独立と言い出したのです。彼女に対しては本当に申し訳なく思いましたが、その分、幸せにしてみせると心の中で誓いました。

私は、まだ国鉄にいた33歳の時に、2級建築士の資格を取得しました。子供もいましたし、お酒好きの友達がたくさんいたのが苦労しました。自分も酒好きなので後ろ髪を引かれましたが、以前なら、3次会、4次会まで行っていたのを、1次会で遠慮して家で眠り、2時・3時に起きて勉強をしました。
資格を取得するのは大変でしたが、いい経験になりました。妻も、そんな姿を見ていてくれたのかもしれません。勉強は大変でしたが、学歴がないので、自分には資格しかないと思っていました。


― 餞別(せんべつ)の電子レンジ ―

こうして、私は、35歳で、建築業界に挑戦することになりました。自分でやるには定年はありませんから、スタートとしては、別に遅いとは思いませんでした。

国鉄の同僚は、「頑張ってくれよ」ということで、餞別(せんべつ)代りに、みんなでお金を出し合って、電子レンジを買ってくれました。「これから、食事が不規則になるだろうから。これで、あったかいものを食べてくれ」。そう、いわれた時には、絶対に成功して、みんなに恩返しをしようと思いました。

はじめて、新築の現場を任してもらえた時には、「任せとけ!」と思いました。すでに15年以上のキャリアがありましたし、職人とも兄弟のような人間関係がありましたので、どんな難しい仕事でもやり通す自信がありました。

さらには、そのお客さまは、私を信用して仕事を任せてくれていたのです。実は、国鉄時代の同僚でした。声をかけてもらった時には、「絶対に、いい仕事をして喜んでもらおう」と思いましたし、嬉しくて涙が出ました。

お引渡しの時には、「頼んでよかったよ」といってもらえましたが、仲間がいること、先輩や、同僚に支えてもらえっていることが、本当に、ありがたかったです。

国鉄を辞めてみて、人が財産だということが初めて分かりましたし、感謝の気持ちが身にしみました。「独立して頑張っているんだな」と言われた時には、ありがたかったですし、認めてもらえたようで、少し、誇らしい気持ちがしました。


― 飛栄建設株式会社を設立 ―

その後、1級建築士を取得しました。特に工務店には必要ありませんでしたが、頑張ったのは、学歴へのコンプレックスがあったからだと思います。

私の人生には常に、「大卒に負けてたまるか」という気持ちがありました。同じ人間でありながら、コースが違うというのに矛盾を感じてもいたのです。

勉強については、2級の時には、国鉄なので、日勤で終わるのが、工務店になると時間がいつ終わるか分からないのが大変でした。打ち合わせや、仕事は、突然の変更もしょっちゅうだったので、決まった勉強の時間が取れなかったのです。

そこで、まずは、昼休み、常に車に積んでいた本を読むようにしました。トイレでも勉強しましたし、早く寝て、早く起きる、2・3時に起きて勉強をするということをしていました。

そして、平成7年、48歳で飛栄建設株式会社を設立しました。元々は、親戚の会社を継ぐという話だったのが、色々な事情があって、私が会社を出ることになったのが直接のきっかけでした。

独立開業資金の1000万円は北海道からの融資で調達しました。15歳の息子を含めて、5人でのスタート。お給料がちゃんと払えるかは心配でしたが、国鉄時代の同僚がお前が会社をやるならということでお客さまを紹介してくれました。

息子はサッカー推薦で、私立の学校に入学したのですが、どうしても学校が嫌いだといって辞めてしまっていました。それなら、「技術を身につけるしかない」ということで大工をやると言いだしたのです。本人なりに、一人前になれば、食いっぱぐれることはないとも考えていたようです。

「この仕事は一人前になるまで時間がかかる。3年・4年は給料はないものと思え。そして、誰にも出来ない事を身につけろ」。そう、息子には言いました。果たして投げ出さずに頑張れるだろうかと心配もしていたのですが、今では、職場の仲間からも、お客さまからも、少しずつ評価されるようになってきたようです。


― 心にポッカリと空いた穴 ―

平成13年、54歳の時に、私にとって第二の転機がやってきました。国鉄時代に、同じ職場でディーゼル車の整備をしていた後輩がガンになって入院しているというのです。

びっくりして病院に行ってみると、意外に、元気そうに見えました。「しばらくぶり。元気かい? 一生懸命やっているよな」。そんな言葉を交わしました。

それから、1年後、その後輩は、フッと亡くなってしまいました。連絡を受けたときには、「え?」という感じです。彼は、とにかく人の面倒見が良く、心のそこから「いい奴なんだ」と信頼している存在でした。困っている人をほっておけない性格で、いつも、人のために何かをしていて、人望がありました。

私も、彼とは、しょっちゅう飲みにいく仲で、何でも腹を割って話せる人間でした。独立をしてからも、多くの同僚や、友人を紹介して助けてくれました。その度に、これは頑張らなければならないと思いましたし、紹介してくれたことは、頭が下がりっぱなしでした。

そんな彼が、一つの恩返しも出来ないまま亡くなったことで、私は、心にポッカリ穴が空いたようで、何も手に付かなくなってしまいました。

そして、それから続けざまに、国鉄の先輩や、同郷の後輩がガンで亡くなりました。

「なぜ、こんな若いうちに癌で亡くならなければならないのか? まだ、子供さんも小さいのに」。不条理に対する憤りで、私は、自分をどうすればいいのか、分からない想いがしました。怒りのぶつけどころがない日々がしばらく続いて、周りにも、かなり心配をかけたと思います。

そんな時に出会ったのが、抗酸化溶液であり、抗酸化工法だったのです。「はじめに」でも、ご紹介させていただいた、お孫さんのアレルギーで悩んでおられる、おばあちゃんに喜んでもらえたことは、第三の転機になりました。

抗酸化溶液を練りこんだ陶板を使用した、陶板浴を会社に設置すると、大勢の方がご利用くださるようになりました。元気になったといってもらえるたびに、嬉しい気持ちで一杯になります。

「病気の予防にも手術後の回復にもいい」「身体が温まる」「元気が出る」。そんなお言葉を頂戴しています。

そして、人間が生活する24時間の中で、快適な住み心地と、健康を実現するために、住宅をきちんとしておくといいな、化学物質の無い住宅を提供したい。そんな想いで、抗酸化健康住宅をご提供させて頂いています。

これまで、普通の生活で悩んでおられた大勢の方から感謝していただき、やってきていることに間違いは無かったと信じています。そして、苦しんでおられる方と出逢う度、大変な思いをされていることに胸が痛みます。快適で、健康的な生活を手に入れるお手伝いさせて頂きたいと思います。

そんな方が、満足して下さることが、私にとっても、嬉しいですし、自信になります。そして、ご紹介を頂く時には、まずは、その方の顔をつぶさないこと、任して下さる方には、責任をきっちりとらせていただいて、喜んでいただきたいと思います。

ご相談して下さる方には、自分の家族と同じように、満足してもらいたいと思います。
家づくりは、一生のお付き合いなので、お引渡しが始まりです。大切なお家と一緒に幸せになって欲しいです。最後まで、お付き合い下さり、ありがとうございました。

住宅や、快適に暮らすコツに関するご相談は、お気軽に、私の携帯電話までご連絡下さいませ。

(090-6269-5111)飛栄建設株式会社 代表取締役 松田順治
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