No.233 大刀洗町本郷の高良玉垂神社(新宮と大宮)
宮原誠一の神社見聞牒(233)
令和5年(2023年)09月23日
福岡県大刀洗町本郷に、神額は「高良玉垂宮」、鳥居の扁額は「玉垂宮」、祭神名は「高良新宮」とされる高良玉垂神社があります。
建久元年(1190)筑前国糸島の高祖城主である原田種直の子・種朝が本郷の三原氏を継ぎ三原城主となっています。この時、筑前国筥崎宮に願い出て「高良新宮」の神霊を分祀し城内に奉祀、三原城の守護神としました。
延元3年(1338)三原種昭は、城中では兵火にかかる恐れがあるとして、現在の高良玉垂神社に遷しました。
祭神名が「高良玉垂命」でなく「高良新宮」です。福岡県神社誌の祭神では「竹内大臣」となっています。珍しい神社の祭神名です。
「新宮」「大宮」という神名を時々見かけますが、いずれの神名か不明でしたが、糸島の正八幡神社、筥崎八幡宮、筑前町の大己貴神社、田主丸町の石垣神社と触れるにつれ、いずれの神名か分かりました。
田主丸町の石垣神社の祭神も、江戸時代には、高良山大菩薩が勧請され、石垣真宮もしくは「新宮」と呼ばれています。久留米藩社方開基では「真宮大菩薩」とあります。
■大刀洗町の本郷の高良玉垂神社の新宮
建久元年(1190)筑前国高祖城主・大蔵朝臣原田種直の子・種朝が三原氏を継ぎ三原城に入城します。このとき筑前国筥崎宮に願い出て高良新宮の神霊を分祀し城内に奉り三原城の守護神としました。その後、延元3年(1338)三原種昭は城中では兵火にかかる恐れがあるとして、現在の高良玉垂神社に遷しています。
本郷の高良玉垂神社 福岡県三井郡大刀洗町大字本郷4800
本郷の高良玉垂神社 福岡県三井郡大刀洗町大字本郷4800番地
祭神 竹内大臣、応神天皇、住吉大神
由緒 境内案内板
建久元年(1190)筑前国高祖城主大蔵朝臣原田種直の子種朝が三原氏を継ぎ三原城に入城しました。このとき筑前国筥崎宮に願い出て高良新宮の神霊を分祀し城内に奉り三原城の守護神としました。その後延元3年(1338)城中では兵火にかかる恐れがあるとして、三原種昭が現在の地に奉祀し、相殿に八幡神、住吉神を合祀しました。(以下省略)
平成13年 大刀洗町教育委員会
福岡県神社誌 高良玉垂神社(本郷)
郷社 福岡県三井郡本郷村大字本郷字馬場
祭神 竹内大臣、応神天皇、住吉大神 合祀(伊弉諾尊、倉稲魂命、菅原神)
由緒
人皇97代 後村上天皇御宇延元4年(1339) 領主三原大蔵朝臣麻種城内より此地に遷す。
明治6年3月14日郷社に定めらる。
伊弉諾尊は大字栄田字栗田に無格社熊野神社、倉稲魂命は同字中畑に無格社稲生神社として祭祀ありしを大正12年9月許可を得合祀。菅原神は同大字下村圍に無格社天満神社として祭りしりしを大正15年6月23許可を得て合祀す。
※栗田の熊野神社、中畑の稲生神社(倉稲魂命)は戦後、元に戻されています。
寛文十年(1670)久留米藩社方開基(抜粋)
御原郡本郷組
御原郡宗廟本郷村
住吉大神
高良新宮 御神体 御宝座名不申候間知不申候
八幡大神
開元御建立并再興、何之御代に被成候も知不申候
末社五社御座候
末社五社(本郷村)
若宮八幡 御神体木像 開元建立并再興何之代に被成候も知不申候
印鑰大明神 御神体木像 開元御建立并再興、何之御代に被成候も知不申候
八大龍王 御神体絵像 開元御建立并再興、何之御代に被成候哉知不申候
天満宮 御神体木像 開元御建立并再興、何之代に被成候も知不申候
祇園 御神体木像 前廉
社紋「木瓜紋」 神額「高良玉垂宮」は高良大社と同じ
神輿の神紋は「木瓜紋」屋根には鳳凰、歩遥の金具には花菱紋
本殿背後の境内社 粟島神社(右から)、八大龍王、恵比須社
左から祇園社、?、皇大神宮(内宮)、大幡主関係社、恵比須社、明治の合祀神社群か?
本殿背後左手、高良新宮(左 輪宝紋)、大神宮(右 桜紋 外宮 大幡主)
この神社の由緒に「建久元年(1190)筑前国糸島の高祖城主である原田種直の子・種朝が本郷の三原氏を継ぎ三原城主となった時、筑前国筥崎宮に願い出て「高良新宮」の神霊を分祀し城内の守護神とした。延元3年(1338)兵火を恐れ、三原種昭が現在の地に奉祀した」とあります。
由緒を読んだ時、筥崎八幡宮の「高良新宮」様とは?
筥崎八幡宮に高良の神が居られたかな?
以来、ずーっと疑問でした。
本郷の高良玉垂神社は原田種直の子・種朝が三原城主となる前からあったはずです。本郷の氏子さんは平田、渡邉さんと高良大社ゆかりの人達が大部分です。
高良大社と筥崎宮が繋がる神様は正八幡大幡主=高良大神です。
新宮様とは正八幡大幡主だったのです。
本郷の三原城主・三原種朝は、筥崎八幡神と高良大神が同一神の大幡主と知っていたのです。
それで、城主・三原種朝は、筥崎宮正八幡神大幡主を城内の守護神として祀ったのでした。
後に、三原種昭が新宮様を兵火から免れるために、城外の高良玉垂神社に遷座させています。由緒では、その様になっていますが、1338年は南北朝動乱期です。
城外遷座時、相殿に八幡神、住吉神を合祀しました。
「城外の高良玉垂神社に遷座させ、相殿に八幡神、住吉神を合祀」は、1338年、高良神社の創立になります。八幡神、住吉神はどこから勧請でしょうか?
あたかも、高良神社が創立されたかのように取れます。
「高良大神を主祭神に、相殿に八幡神、住吉神」は高良神社となります。もともと、高良神社は、1338年以前からあったはずです。
新宮様を境内社として遷座させたのか、それとも、高良神社の本殿に遷座させたのか、確認できません。今見える範囲では、本殿背後左手に輪宝紋を打った石祠があります。ご神体は焦げています。これが高良新宮となるのか、現地の関係者の方に聞かないとわかりません。
1359年正平14年/延文4年7月、南朝勢約4万は懐良親王、新田一族、名和一族、菊池武光、赤星武貫ら菊池一族、宇都宮貞久、草野永幸、大野光隆、西牟田讃岐守ら、北朝勢約6万は大宰府を本拠とする足利勢の少弐頼尚、少弐直資の父子、大友氏時、城井冬綱らが対峙し、両軍合わせて約10万の大軍が三原郡大保原(大刀洗町、小郡市)で激突、日本三大合戦の一つと言われています。この時、三原城も高良玉垂神社も兵火にかかったのではないでしょうか。本郷は激戦の中心地にあります。それが焦げたご神体ではないでしょうか。
■原田種直と糸島市の正八幡神社
大蔵流原田氏は大幡主奉斎です。
父の原田種直は糸島市東の正八幡神社の由緒に載っています。
正八幡神社 福岡県糸島市東1105
糸島市の正八幡神社由緒によれば、
天慶2年(939)太宰少弐、原田春實公、藤原純友を討伐しえたるは神霊の加護によるとして、その子、泰種と共に山城国(京都)の男山八幡宮(石清水八幡宮)の神霊を勧請し祀ったのが、当八幡宮である、という。別名原田八幡宮ともいう。源平争乱時の種直公の墓が八幡宮の南隣にあります。(No.224)
原田種直公 境内の案内板 平成5年(1933)3月
原田春實の子孫、原田種直は、源平の戦いで源義経と戦って敗れた後、鎌倉扇谷に幽囚されること13年。建久8年(1197)、免責されて岩門城(筑紫郡安徳村)に帰る。種直は国政をその子にゆずり、当八幡宮の東付近に仮宅を設け、当八幡宮を補修し崇敬した。
種直公は平重盛菩提(妻は平重盛の養女)の為、建仁元年(1201)二丈町波呂に龍国寺を創建。種直公の墓は当八幡宮の南隣にある。
筥崎八幡宮の参拝遥拝線
延喜21年(921)6月に八幡神の託宣があり、筑前国穂波郡の大分宮を玄界灘に面した土地に移したのに始まる。延長元年(923)に現在地に遷座。
筥崎八幡宮は大分八幡宮からの分祀の記録もないし、大分八幡宮の由緒では筥崎八幡宮に遷宮した、とありますが、遷宮した気配もありません。筥崎八幡宮は櫛田神社の山笠のお潮井場であり、また、大分八幡宮のお潮井場でした。
筥崎八幡宮と大分八幡宮は祭祀線に乗りません。筥崎八幡宮の本当の姿はどういうものでしょうか。
「筥崎八幡宮祭祀線は三郡山、それから三郡山を通って馬見山へ届きます」ということです。確かに参拝線は三郡山を通って馬見山に向かいます。
馬見山は大幡主の山です。筥崎八幡宮に参拝することは、大幡主を遥拝していることになります。(No.223)
■和歌山県新宮市の新宮(にいみや)
和歌山県新宮市の熊野速玉大社の主祭神・速玉男命は大幡主であり、新宮様と呼ばれる。
熊野本宮大社 和歌山県田辺市 主祭神・阿加流姫(耀姫)
熊野那智大社 和歌山県那智勝浦町 主祭神・熊野夫須美命
熊野速玉大社 和歌山県新宮市 主祭神・大幡主(速玉男命) 新宮(にいみや)
阿須賀神社 和歌山県新宮市 主祭神・事解男命(ことさかお 金山彦)
熊野若王子神社(京都市)の由緒から分かった熊野十二所権現 (No.217)
熊野十二所権現
社殿 神座 祭神名 本地仏
上四社 第一殿 西御前(結宮) 天照大神(白山姫) 十一面千手観音
第二殿 中御前(速玉宮) 速玉大神(大幡主) 薬師如来
第三殿 証誠殿 家津御子大神(耀姫) 阿弥陀如来
第四殿 若宮(若一王子) 彦穂々出見尊 如意輪観音
中四社 第七殿 児宮(このみや) 彦穂々出見尊 如意輪観音
糟屋郡新宮町の町名由来
https://www.town.shingu.fukuoka.jp/soshiki/chiiki_kyodo/6/1/710.html
新宮の由来
町名「新宮」は昭和30年(1955)の町村合併で新宮町と立花村が合併したときに付けられた名前である。その前の旧新宮村(町)の名前は明治22年(1889)当時の新宮浦・上府村・下府村・湊村・相島村が合併したときに、一番大きな村である新宮の名前をとって村名とした。
貝原益軒は「筑前国続風土記」に住吉の神を勧請して磯崎神社とし、「新宮」の由来もそこにあると主張している。さらに、湊から漁人が新宮に移ったとき一緒に磯崎神社が新宮に移ったいきさつが記されている。
青柳種信は上府・下府の氏神である新宮神社に住吉神社を勧請したと主張している。
磯崎神社文書に、新宮浦と改名したのは次のような理由があるからであると出ている。
「その昔、紀州熊野新宮浦より速玉(はやたま) の御神を此地に来臨したまい、漁人網に引き上げ、新宮大明神と請し奉、唯今下府・上府両村之氏神と尊敬仕候、故湊浦を新宮浦と改号し、岡・浦と分り候由申伝候」。
これからみると、上府・下府両村の氏神新宮神社に熊野の神を勧請したことから「新宮」の名がおこったことになる。
■原田氏と高橋氏と田主丸町の月読神社
本郷の三原城の西南西約2Kmに高橋氏の高橋城跡(宝満宮)があります。
高橋氏も大蔵流です。
大蔵春實の子・大蔵実通は、藤原純友の乱(939年)平定の功により、上高橋・今・鵜木・下高橋を領地とし、上高橋城を居城とします。また、地名をとって「高橋氏」と名乗っています。
室町時代の高橋長種には跡継ぎがなく、豊後の戦国大名大友宗麟は、名家の絶えることを惜しみ、一族の一万田右馬助に高橋家の家名を継がせ、高橋三河守鑑種と名乗らせました。その後、高橋氏は居城を上高橋城から下高橋(宝満宮)の地に移しています。(高橋城蹟案内)
大蔵春実 https://ja.wikipedia.org/wiki/大蔵春実
妻:小野好古の娘
男子:大蔵春種 - 子孫は秋月氏・田尻氏等
男子:大蔵種章
妻:橘公統の娘
男子:大蔵種季 - 子孫は波多江氏
男子:大蔵種門
生母不明の子女
男子:大蔵春近
男子:大蔵実通 - 子孫は三原氏
男子:大蔵種光 - 大蔵種材の父
※大蔵氏、原田氏、田尻氏は後漢の皇帝・12代霊帝(劉宏 168-188年)の末裔といわれる。
その原田氏が大幡主奉斎です。理由がわかりません。備中に来朝の折、何があったのでしょう。
九州王朝仁徳帝の時代ですが、近畿王朝の年代で系図の説明がなされていて理解できません。
一方、田主丸町の月読神社の由緒では、
天文3年正月(1534年)、御原郡高橋城主、三原三河守長種の弟・次郎三郎が城内の月読神社を遷し、竹野郡二田村(現:久留米市田主丸町石垣)に創建します。
明治13年6月(1880年)篤志家が田主丸町東町へ二田月読神社を勧請。開運眼病平癒の神様として崇敬者多く三夜様と敬稱されています。(No.07)
現在の二田の月読神社は天満神社が合祀され、ご神体は二柱です。
境内社に五條神社(薬師堂)があります。
二田・月読神社 福岡県久留米市田主丸町益生田(二田)
祭神 月夜見命
東町・月読神社 福岡県久留米市田主丸町田主丸(東町)546-1
祭神 月読命
高橋城主長種は月読神社の由緒では「三原三河守長種」と三原氏になっています。
次郎宅の月読神社は祈願すると「目の病が治る」と有名になり、眼病平癒で訪れる人々が絶えず参拝に訪れるようになったといいます。
寛延2年(1749)、娘が目を患っていることを気の毒に思っていた柳川藩主(現在の福岡県柳川)は月読神社の眼病平癒のご利益を知り、娘の眼病平癒を祈願したところ、娘の目が良くなり、藩主は、二田村の林次郎兵衛宅の祠を現在の地に移し、社を建てたのが、現在の二田「月読神社」といわれています。
高橋氏も原田氏同様に大蔵流で大幡主奉斎です。
上高橋には老松神社(大幡主)があり、下高橋には宝満神社(天照女神)が高橋城跡にあります。
すると、高橋城に祀っていた月読神社とはいかなる神社なのでしょう?
月読神社の祭神は百嶋学では月読命=大山祗神です。
月読命=大山祗神は大幡主の可能性があります。
月読命=大山祗神=大幡主とすると、二田の月読神社は物部神社となり、二田物部が説明できるのです。
物部氏に関する『先代旧事本紀』の天神本紀には、ニギハヤヒの降臨に同行した面々の記載があり、その出自地と推定される地名をみると
天物部ら二十五部人、おなじく兵伏を帯びて、天降り供奉らしむ
01 二田物部 筑前鞍手郡二田郷、筑後竹野郡二田郷
02 当麻物部 肥後益城郡当麻郷
03 芹田物部
04 馬見物部 筑前嘉穂郡馬見郷
05 横田物部
(以下省略)
※百嶋学では、月読命=大山祗神=大土御祖神 とあります。
大土御祖神は大幡主です。
■田主丸町の石垣神社の新宮
田主丸町の石垣神社の祭神に「新宮」が記載されています。
江戸時代始め、高良山大菩薩が勧請され、石垣真宮もしくは「新宮」と呼ばれています。
久留米藩社方開基では「真宮大菩薩」とあります。
石垣神社 福岡県旧浮羽郡田主丸町石垣68(No.182)
神社由緒(案内板概要)
祭神
八幡大神(左)
高良玉垂命(中)
住吉大神(右)
境内社(天満宮、天照皇大神宮、高皇産霊日神、大辨財天)、秋葉神社
創建年代は、元明天皇の御代和銅9年(716年)と社伝。
元竹野郡の宗廟(総鎮守)として崇敬を集める。
江戸時代には、高良山大菩薩が勧請され、石垣真宮もしくは新宮と呼ばれ、約300m西に位置する石垣観音寺と一体のものであった。現在では石垣神社と観音寺の間を県道151号線が分断しているが、昔は観音寺本堂と石垣神社社殿は参道によって結ばれていたという。
創建年は、元明天皇の御代和銅9年(716年)で、日本書記(720年)成立以前です。江戸時代始めには、高良山大菩薩が勧請され、石垣新宮(石垣神社)と称しています。創立時は何神社と言っていたのでしょう。八幡神社でしょうか?そこに、藩主有馬公によって、高良山大菩薩(高良大神=大幡主=新宮)が勧請され、新たに石垣新宮(石垣神社)となった?
楼門の棟瓦にはダビデ輪宝紋と龍の彫刻
神紋は木瓜紋(高良神紋)、楼門の棟瓦には輪宝紋と龍の彫刻、拝殿の参道両脇には六角灯籠と松の木(大幡主の象徴)です。拝殿の唐破風には輪宝紋と紗綾形(さやがた)の彫刻です。本殿は波と菊花の彫刻です。これからしても、石垣神社は大幡主を祀る高良神社となります。(No.182)
現在の境内社は天満宮、天照皇大神宮、高皇産霊日神、大辨財天を祀るのが一棟と秋葉神社です。
ところが、福岡県神社誌とは少し異なります。
御祖神社(高皇産霊神)、→ 大幡主
御魂神社(天照大御神)、
秋葉神社(味耜高彦根命)、→ 大幡主
日吉神社(大山咋命) → 大幡主
これらの境内社を考慮すると、石垣神社は天照大御神と大幡主を祀る高良玉垂命神社となるのです。
■石垣山観音寺
石垣神社参道の先には向いあって石垣山観音寺があります。石垣神社と石垣山観音寺は一体のものであって、現在では石垣神社と観音寺の間を県道151号線が分断しているが、昔は観音寺本堂と石垣神社社殿は参道によって結ばれていたという。
石垣山観音寺 福岡県久留米市田主丸町石垣275
輪宝紋
石垣山観音寺HPから http://ishikakizan-kannonji.jp/
観音寺は白鳳2年(673)天武天皇の勅願寺として創建され、日本最古の埋蔵紙本写経「法華経全巻」や耳納山の由来といわれる牛鬼伝説の牛鬼の左手のミイラも保存されています。
当山の本尊は十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)を内蔵した聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)です。
本堂内陣右手に安置されている毘沙門天は、平安時代に作られた桧材一木造りで、福岡県指定有形文化財です。
不動明王は坐像でありながら100センチを有するのですが、寺伝によれば、観音寺中興の祖である金光上人が護摩堂(ごまどう)を創建した際の御本尊だったようです。現在は、本堂内陣左手に安置されています。
石垣山観音寺は寺伝によると
天武天皇2年(673)、天武天皇の勅願寺として創建
(石垣神社は元明天皇の御代和銅9年(716)創建)
本尊は十一面観音菩薩で当初は法相宗の寺院でした
和銅元年(708)には行基菩薩が西下し、709年七堂伽藍を造営
元明天皇より「観音寺」の勅号を下賜
承和14年(847)、慈覚大師円仁が入唐求法の帰途、この寺に立ち寄り
「法相宗」から「天台宗」に改宗
※石垣神社と石垣山観音寺は直線で向かい合っていないようです。
かつての参道は途中で折れています。
当山の本尊は十一面観世音菩薩を内蔵した聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)とあります。
十一面観音菩薩=聖観音菩薩=天照女神 でした。
また、本堂内陣右手に毘沙門天、本堂内陣左手に不動明王 とあります。
毘沙門天は垂迹・大幡主です。
天照女神と大幡主は並んで祀られています。
また、石垣神社(高良神社=大幡主)と石垣山観音寺は、かつて参道が繋がっており、対面されています。
■新宮と大宮
「新宮」は大幡主の宮号となります。
「大宮」もよく出てきます。
筑前町の大己貴神社の遥拝線
本殿左手に大黒様の像があり、その横を奥に進むと神体山遥拝所があり、遥拝所の近くに172mの神体山があります。遥拝所から頂上の上宮を遥拝するのかと思いきや、頂上には上宮らしきものはありません。どうやら、もっと遠くを遥拝しているようです。頂上遥拝線は筑紫野市の四王寺山の大城山の王城神社(祭神は大幡主)を通り、志賀島の志賀海神社の沖津宮(祭神は大幡主)に達します。
遥拝線が神体山中腹を通過した場合、宇賀神社(一本木稲荷社 福岡市中央区大宮二丁目2-2) に向かいます。昔は一本木(公園)にあったという。祭神は宇賀乃御魂=大幡主=大宮。(No.229)
北部九州で有名なのは、熊本県山鹿市の大宮神社です。
大宮神社は、景行天皇を主祭神とし、阿蘇十二神を併せ祀る、とあります。景行天皇が筑紫(九州)巡幸の際、現社地に(行宮あんぐう仮の御所)を営んだと伝える跡地に天皇を祀ったのが起こりとされます。
しかし、拝殿の向拝は四本柱、社紋は「並び鷹の羽」紋、本殿には五七桐紋、本殿後ろの境内社は、金刀比羅宮、菅原神社、生目神社、高住神社、乙宮神社、月弓神社、興玉宮、西宮神社、甲斐神社、出雲宮、宮地嶽神社と大幡主に関する痕跡ばかり、境内社の八坂神社には西宮と八幡宮が鎮座です。この大宮神社は大幡主と豊姫=天照女神を祀る高良玉垂神社でしょう。
「大宮」は大幡主の宮号となります。
大宮神社 熊本県山鹿市山鹿196
埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1丁目407には氷川神社です。(武蔵の大國魂神社三ノ宮)
主祭神は、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命 とありますが、天照女神(稲田姫)と大幡主(須佐之男命、大己貴)の置き換えです。
氷川で共通地名の宮原三神宮(熊本県八代郡氷川町宮原491)では、国常立尊(=大幡主)を主祭神に、天照皇大神、神武天皇が祀られています。(No.77)

























