No.180 筑後川河北の王子宮は坂本命を祀る坂本神社①


宮原誠一の神社見聞牒(180)
令和3年(2021年)10月29日
 

福岡県旧三井郡山川町阿志岐に高良玉垂命の御子九人を祀った高良御子神社(王子宮)があります。九人の御子は「九躰皇子」と表記されています。高良御子神社の本宮です。
高良御子神社社殿の右には坂本神社があり、坂本命と二人の門神様を祀ります。
古昔、JR九大線御井駅付近の栗林に東西両坂本神社があったという。
明治43年9月26日 郡役所の勧誘により、王子山596-1高良御子神社境内に、全末社とも移転遷座しています。
坂本神社の祭神の坂本命は九躰皇子の一人ですが、坂本神社が高良御子神社の境内に移転遷座し、坂本命が両神社に祀られたためか、高良御子神社と坂本神社が混同される神社を見受けます。

そして、坂本命は福岡市の志賀海神社の祭神、豊姫とよひめ)の綿津見(わたつみ)神と繋がってくるのです。


1.高良玉垂命の九人の皇子を祀る高良御子神社
福岡県旧三井郡山川町阿志岐に高良玉垂命の御子九人を祀った高良御子神社(王子宮)があります。九人の御子は「九躰皇子」と表記されています。
現在、高良大社の登り参道が御井町西口にありますが、その前は、北口の栗林をすぎて、阿志岐坂を登り、高良社へ至る古道がありました。その途中に高良御子神社があります。

高良御子神社 福岡県久留米市山川町596-1

高良御子神社(左)     坂本神社(右)

 

山川校区郷土研究会(平成八年)作成 由緒略記
高良御子神社(王子宮) 福岡県久留米市山川町字王子山596番地1
祭神
1.斯礼賀志命神(シレガシ)     サ光天皇(仁徳天皇)
2.朝日豊盛命神(アサヒトヨサカリ) 南無マ皇天皇
3.暮日豊盛命神(クレヒトヨサカリ) クマル天皇
4.渕志命神(フチシ)        南無トクタツ天皇
5.谿上命神(タニガミ)       南無ラシ天皇
6.那男美命神(ナオミ)       クツツカツ天皇
7.坂本命神(サカモト)       南無シンショウ天皇
8.安志奇命神(アシキ)       南無タクショウシン天皇
9.安楽応宝秘命神(アラオホビ)
起建
高良御子神社祭神は高良玉垂命の御子にて命に九躰の皇子あり、人皇19代允恭天皇の御宇(412~453)、高良の神の御託宣(おぼしめし)により阿志岐山上に九躰の社を、大宮司宗崎孝成造立す。(古宝殿)
48代称徳天皇神護景雲2年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮された。
当社は高良社末社の随一と称されたが、田中吉政の時、神領を半減された故、神領を離れ阿志岐村の産神となり、現在に至る。創建以来、1570有余年になる。

 
高良御子神社の祭神は高良玉垂命の御子にて九人の皇子があり、允恭天皇の御宇(412~453)、阿志岐山上(古宝殿 ふるほうでん)に社を大宮司孝成によって造立されました。称徳天皇神護景雲二年(768年)阿志岐山上(古宝殿)より現在地へ遷宮しています。(神秘書355条)
450年前後の神社造営ですので、かなり古い神社となります。

山川校区郷土研究会(平成八年)作成の由緒略記には九人の王子の名がはっきりと記載されていますが、九人の王子の呼び名は、稲員家(いなかず)文書によるものと思われます。
この9人の御子の序列は生まれ順でなく、神功皇后と3人の妃の順に沿った序列のようです。斯礼賀志命、朝日豊盛命、暮日豊盛命の三皇子は神功皇后の子で、正真正銘の九州王朝の嫡子であり、この斯礼賀志命が正当九州王朝の仁徳天皇です。那男美命、坂本命は妃・国片姫の皇子です。周辺にたくさん天皇(皇子)が居られるが、正当天皇でなく、全て別(ワケ)王と言われています。


2.高良御子神社内の坂本神社
高良御子神社社殿の右には坂本神社があり、坂本命と二人の門神様を祀ります。
古昔、JR九大線御井駅付近の栗林に東西両坂本神社があったという。
山川校区郷土研究会説明板によれば、
「明治43年9月26日 郡役所の勧誘により、王子山596-1高良御子神社境内に、全末社とも移転遷座す。現在、王子宮境内に祭祀してある坂本神社の社殿は一つだが、正面祭壇上に素木の厨子が二つ並んでいる。それが東西坂本社のご神体である。中央に不明のご神体一柱あり。」 とあります。
「中央に不明のご神体一柱」が坂本命となります。

山川の坂本神社 福岡県久留米市山川町字王子山596番地1

 

坂本神社の神殿 中央・坂本本社、右・西坂本社、左・東坂本社

 

坂本神社の祭神は次の通りです。

 坂本本社 坂本命
 東坂本社 櫛岩窓命(くしいわまど) → 日吉様
 西坂本社 豊岩窓命(とよいわまど) → 山王様

山川校区郷土研究会の設明板には「両祭神は、太玉命の御子で「殿(みかど)」を守衛(まも)る神、即ち高良参道入口の守護神である。」と書かれています。高良神社を門神として守っておられています。
東西両祭神の門神様は、設明板でいう太玉命(豊玉彦)の御子ではありません。
※太玉命(豊玉彦)=正八幡大幡主か?

 

 
 
3.坂本命とは、一体どういう人なのか?
坂本命の父と母は開化天皇と国片姫、国片姫の父と母は崇神帝と五十鈴姫、五十鈴姫の父と母は事代主と活玉依姫、活玉依姫の父と母は大山咋神と鴨玉依姫で、坂本命は豊玉彦を祖とし、崇神帝の孫であり、開化天皇の御子となれば、その血脈は、かなりの権力を持つことができると想定されます。しかも、高良山と大善寺の中間の荒木地域を担当されている。その荒木地域は久留米の南部から広川の北部に位置します。

高良玉垂神社八人の神官の筆頭である稲員家は高良御子第二子の朝日豊盛命の子孫といわれ、草壁氏を当初名乗っておられ、しかも、坂本命を特別に祀っておられる。これは天忍穂耳命・海幸彦、崇神帝の流れを意味します。その稲員家の本貫地は筑紫中津国(北野町)の大城です。

 

高良玉垂宮の八人の神官
「高良玉垂宮神秘書」343条に八人の神官の名前が記載されている。
田尻、小祝、外湯、諸司代、印塚、福成、両福成、稲員の諸氏が記載されている。
八人の神官の屋敷を現在の地名で示すと

 稲員  久留米市北野町大城稲数(八女郡広川町古賀)
 田尻  久留米市御井町字住吉のタンジリ
 小祝(安曇) 久留米市山川町本村
 外湯  久留米市御井町字住吉のトノエ
 諸司代 久留米市御井町打越
 印塚  三瀦郡三瀦町玉満犬塚
 両福成 久留米市宮ノ陣町

このうち近世、最も勢力があったのは稲員家で、神管領家を称し、八人の神官を指導した。また、当社の重器三種の神宝出納職となっている。第二子朝日豊盛命の子孫が高良山を居所として累代続き(稲員家もその子孫)、稲員家はその前は草壁氏を名乗っている。

 
稲員家は第二子朝日豊盛命の子孫としながらも、坂本命を特別に祀っておられる。
朝日豊盛命の子孫とすると、母系は神功皇后であり、スサノオ系となります。
坂本命の子孫とすると、母系は豊玉彦、崇神帝の流れとなります。
坂本命は大幡主・豊玉彦を祖とされる海神系なので、やはり、稲員家は坂本命がご先祖でしょう。

 

百嶋神代系譜・天忍穂耳命・崇神帝・五十鈴姫 神代系図2

 
 
4.坂本命を祀る坂本神社
九躰皇子(くたいおうじ)の第七子に坂本命(さかもとのみこと)がおられます。
九躰皇子の坂本命を主祭神とする神社が、福岡県内に四社あります。

 1.春日の坂本神社 福岡県太刀洗町春日(平田)753
 2.金島の坂本神社 福岡県久留米市北野町金島(鏡)82
 3.広川の高良坂本神社 福岡県八女郡広川町新代(古賀)1987
 4.山川の坂本神社 福岡県久留米市山川町字王子山596番地1


(1) 春日の坂本神社 福岡県太刀洗町春日(平田)753


春日の平田支部の坂本神社は平田氏族神社であり、由緒によれば、祭神は武内宿祢の第7番目の子の奴能伊呂姫命(ぬのいろひめ)となっています。坂本命は皇子で、奴能伊呂姫は姫君で、明らかに異なります。
広川の高良坂本神社の祭神は、武内宿禰の七男の子の若子宿祢(わくごのすくね)ですが、九躰皇子の第七子に合わせて武内宿禰の子の名前を持って来たのでしょう。九躰皇子の坂本命の第七子は「七男」という意味ではありません。
春日平田支部、広川の二社の本来の祭神は、九躰皇子の第七子・坂本命です。
春日平田支部の坂本神社は物部氏関係の神社、広川の高良坂本神社は高良の神官・稲員氏(いなかず)が北野町稲数から移転後に創立した神社です。武内宿禰の入る余地はありません。明治政府を憚っての祭神変更の処置でしょう。

     高良九躰皇子  「古事記」の武内宿禰の子
   1 斯礼賀志命   長男・波多八代宿禰
   2 朝日豊盛命   次男・許勢小柄宿禰
   3 暮日豊盛命   三男・蘇賀石河宿禰
   4 渕志命     四男・平群都久宿禰
   5 谿上命     五男・木角宿禰
   6 那男美命    長女・久米能摩伊刀比売
   7 坂本命     次女・怒能伊呂比売
   8 安志奇命    六男・葛城長江曽都毘古
   9 安楽応宝秘命  七男・若子宿禰

 

春日平田支部の坂本神社の社紋(木瓜紋)

 
 
(2) 金島の坂本神社 福岡県久留米市北野町金島(鏡)82

 
福岡県北野町大城に稲数区があります。 広川町郷土史研究会の稲員家文書によると、稲員氏は高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在は北野町)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
その稲数村の東隣に鏡村があり、坂本神社が鎮座し、坂本命を祀ります。
第60代醍醐天皇の御代、延長年中(923-930)創建、稲員氏と何らかの関係があったことは伺い知れます。現在の鏡村の坂本神社は社殿社地が一ヶ所ですが、江戸時代までは、南北坂本神社があり、明治の合祀令により一社に統一されました。

鏡村の坂本神社の古宮

 
坂本神社の古宮の前には正八幡大幡主の六角灯籠です。
社紋は金色の十五菊紋です。元は十六菊紋でしたが、天皇家を憚って十五弁にしたという。
古宮の石祠には「坂本宮」と刻まれています。
正八幡大幡主の六角灯籠は
小郡市大板井の玉垂御子神社(王子宮)、朝倉市下浦の王子神社(王子宮)
にもあります。


(3) 広川の高良坂本神社 福岡県八女郡広川町新代(古賀)1987

 
広川町郷土史研究会の稲員家文書によると、稲員氏は高良大明神の神裔を称し、延暦21年(802)草壁保只が山を降って、三井郡稲数村(現在の北野町稲数)に居住したことにより稲員(稲数)を姓としたという。
正応3年(1290)鎌倉幕府の下知により、稲員良参(よしなが)が上妻郡古賀村(現在の広川町新代)に移り館を構え田戸70町を領している。
正応5年(1292)稲員良参は、坂本命を祭り坂本宮(現在の高良坂本神社、広川町古賀区)創立。稲員家は朝日豊盛命の流れといわれていますが、坂本命を祀っています。
坂本命の活躍の地が久留米市南部付近(荒木)であったことを考えると、鎌倉幕府による移転命の地は稲員家が求めたものかもしれません。稲員家の流れは坂本命が先祖ではなかったのか、ということになります。
古賀村に坂本神社を創立する以前、すでに高良大明神が祀られていたという。鏡村の坂本神社も稲員家が係わったのではないかと推察するのですが。
さらに、天正16年(1588)から寶暦2年(1753)の165年間、稲員家は大庄屋を勤めている。

由緒によると、主祭神は若子宿禰(わくごすくね)となっていて、武内宿禰の七男となっています。春日平田の坂本神社と同様に、九躰皇子の第七子に合わせて武内宿禰の七男の名前(若子宿禰)を持って来たのでしょう。九躰皇子の坂本命の第七子は「七男」という意味ではありません。
広川の高良坂本神社は坂本命が主祭神です。

 

広川の高良坂本神社社紋(木瓜紋)

 
木瓜紋は彦火火出見尊の神紋です。坂本命は彦火火出見尊の流れとなります。
また、高良大社の社紋の一つに木瓜紋がありますが、木瓜紋、唐花菱紋は九州王朝を支えた方々の紋です。坂本神社の社紋である木瓜紋が何に因むものか今の所わかりません。
山川町阿志岐の高良御子神社(王子宮)の社紋が木瓜紋となっています。


(4) 山川の坂本神社 福岡県久留米市山川町字王子山596番地1

 
左の高良御子神社(王子宮)の鬼瓦の社紋が木瓜紋となっています。
坂本神社には社紋がついていません。


5.豊姫(ゆたひめ)
鵜草葺不合命と奈留多姫(なるたひめ)の間の姫君で豊姫、「ゆたひめ」と申します。
熊襲タケル、後の河上タケルの妹で、安曇磯良の妃となられ、後に佐賀県大和の川上神社(與止日女神社)の河上大明神となられるのです。

 

高良玉垂宮神秘書 第1条
(前略) 嫡男日神の垂迹 表筒男尊(安曇磯良)は、(神功)皇后の御妹豊姫と夫妻なり。その御子は、大祝 日往子尊と申すなり。この底筒男尊(開化天皇)、表筒男尊の二人は、皇后と共に皇宮におわします。三男月神の垂迹 底筒男尊、皇宮に住まわれる間、位を設け、大政大臣物部保連(やすつら)と申し給う。藤大臣は、干珠満珠を借り給う時の仮の名なり。
嫡男日神の垂迹 表筒男尊の大臣公をいかがすべきと仰せられれば、皇后やがてのたまう。添も天照大神の「ひまご」にておわします間柄、玄孫大臣物部大連(おおつら)と申し奉るべしとおおせけり。玄孫大臣と書いては、ひまご大臣と読めり。
(中略)
仁徳天皇時、神功皇后、崩御され、高良明神、豊姫、玄孫大臣安曇磯良、その子、大祝日往子尊、武内大臣は皇宮をともに出られる。武内大臣は、因幡国へ・・・
豊姫(ゆたひめ)と玄孫大臣は、肥前国川上に留まりて、豊姫は河上大明神となりたまう。高良大明神、甥の大祝日往子尊は九月十三日に高良の山に遷幸あり。
神功皇后が存命の時、皇宮にて三種神祇の取り扱いを協議された。玉璽は、高良大明神が預かり給い、宝剣は、神功皇后が持たれ、内侍は、玄孫大臣が預かり給うなり。
大祝は本名字「鏡山」と申すなり。大祝は職についての名なり。

高良玉垂宮神秘書 第6条
安曇磯良は、筑前国にては志賀、日立国にては鹿島大明神、大和国にては春日大明神と申すなり。

高良玉垂宮神秘書 第7条
皇后の御妹に二人おわします。一人は宝満大菩薩、一人は河上大明神になりたまう。これ豊姫のことなり。

高良玉垂宮神秘書 第14条
仁徳天皇、今は平野大明神と表わし給う。

高良玉垂宮神秘書 第183-187条
五姓仕人:丹波氏、安曇氏、前田氏、草部氏、草賀部氏

 
豊姫(ゆたひめ)の兄である川上タケルは、熊襲の統領となって反旗を起こしましたが、ヤマトタケルに佐賀県背振の広滝(廣瀧神社)で成敗降服して、命は助けられます。その逆賊の妹豊姫は忠臣となって、15歳年上の義兄の安曇磯良と一緒になって天皇家を助けました。
また、福岡県糸島の志摩半島西の二見ヶ浦にある夫婦岩は安曇磯良と豊姫を祀るものであり、この糸島の夫婦岩は紀伊半島伊勢の二見ヶ浦の夫婦岩のモデルとなっています。
(この夫婦岩は伊弉諾命・伊弉冉命を祀るものではありません)
※(追記) 夫婦岩の神は伊弉諾命・伊弉冉命→大幡主・天照女神と変遷か?

 

高良玉垂宮神秘書 第142、237条
高良大菩薩(開化天皇)は神功皇后崩御のあと、住み慣れた大宰府の皇居を出で、甥にあたる日往子尊を連れて、宝満川を小船で下り、やがて筑後においでになり、まず久留米市大善寺に着岸。ここで御船を新造して大舟で漕ぎだし、大川市酒見に上陸。風浪の宮九九社大権現を祀り、さらに有明海に出て、こんどは大牟田市黒崎に上陸。ここからまっすぐ北に陸行して山門郡瀬高イチコウラ、八女郡人形原を経て高良山に登り、八葉の石畳を築いて地主神たる高樹神を退け、ついに、この高良山に鎮座になった。ときに仁徳天皇の御宇9月13日のことであったという。

 
高良大菩薩(開化天皇)は日往子尊を甥とよんでいます。日往子尊は安曇磯良と豊姫の子ですが、開化天皇は甥の日往子尊を自分の子のように扱っています。
どのような関係にあれば、この家族関係が構成されるのであろうか。
開化天皇は豊姫からして約25歳の年下である。親子程の違いがあります。
豊姫は開化天皇の乳母あり、高良玉垂命の若き日の配偶者となられています。安曇磯良・豊姫は義兄姉となられています。

  
豊姫は高良の神の配偶神である
  高良の神は朝鮮半島へ出征して凱旋して帰って来た(高良山雑考・古賀寿)

そして、豊姫は神功皇后の義姉となり、(鴨)玉依姫は義叔母になる。また、日往子尊は高良玉垂命の甥になる。それで、高良玉垂命、神功皇后、安曇磯良・豊姫、その子・日往子は家族同然に皇宮に住んでおられました。
高良玉垂宮神秘書で、「(鴨)玉依姫、豊姫が神功皇后の妹」とあるのは、立場上の問題であり、神功皇后は皇后として女性で最高の地位にあり、二人の姫君は立場上、臣下・妹となるのです。
このように、豊姫(ゆたひめ)は、開化天皇の配偶者であり、神功皇后の妹として重要な地位に就つかれています。


6.上津(本山)天満神社
福岡県久留米市上津の小高い丘に天満宮と思えない上津(本山)天満神社があり、その右奥に上宮・摂社と思える豊姫神社があります。由緒によれば、豊姫神社は上村(上津)区に鎮座していたものを大正14年現在地に移転したものであると伝えます。
そして、興味あることに、
由緒は「『豊比咩命神』で高良の神の配偶神だと云われています」とあります
上津(本山)天満神社 福岡県久留米市上津町2077

正前には正八幡大幡主の六角灯籠です。

 

上津天満宮由緒
(前略) 本殿東奥に三つの祠があり、中央が豊姫宮(別名:乙姫宮)向かって右は若宮八幡宮、左は天神社です。共に上村(上津)区域に鎮座していたものを大正14年現在地に移転したもので、中央の祭神は女の神 安産の神「豊比咩命神」で高良の神の配偶神だと云われています。この神は一説によれば天長4年(827年)の勧請ともいわれ、その後、玉垂命神と相並んで神階を授けられ、寛平9年(897)には正四位上に叙されています。正史上の豊比咩神は玉垂命神と同殿かあるいは両宮相並んで鎮座していたもののようです。(案内板)

天満宮と子の日の松
当天満宮は御井町の高良大社と深い関わりを持っています。
古代より毎年旧正月初子(ね)の日に氏子中にて同天満宮境内或いは付近の高良台より小松三本を根堀りし高良大社前に運び植えたといわれています。
「子の日の松」とは正月初めの子の日に野山ら出て小松三本を根引きし若菜を引いて遊び国家安泰を祈り延命息災を祝って宴遊する平安貴人公卿らの遊びであり宮中でも当日は「子の日の松」を賜る例がありました。
(注)三階松紋は九州王朝のシンボルです。

 

境内社殿を見れば松竹梅ゆかりの神社ですが、松は開化天皇(九州王朝)関係、竹笹は大幡主関係、梅は菅原公を意味します。この神社はこの三者のイメージがそろっています。



7.高良玉垂命神社(高良大社)の豊姫神社
約850年以前の高良玉垂命神社(高良大社)では、高良玉垂神と豊姫神は同殿か相殿に祀られていました。開化天皇と神功皇后は本殿に夫婦神として祀られていますが秘密となっています。

「文徳実録」の天安元年(857)に、「在筑後国従三位高良玉垂命、従五位下豊比咩神等。」の記事が見られます。天安2年以降はすべて、高良玉垂神命神と並んで授位されている。
天安2年(858)5月14日「高良玉垂神及び比咩神等正殿遇失火」とあり,高良玉垂神と豊姫神の両神は同殿であったか、相接していたと考えられています。
承暦4年(1080)炎上消失。以後、歴史的記録は途絶えます。

 

豊姫縁起(大城村郷土読本)
延享2年(1745)高良山僧正寂源によって高良山内に豊姫神社再興の請願が藩に提出されました。高良山古図に豊姫神社の神域ありとし、又天安年閏高良玉垂宮と豊姫神社正殿が失火に遭ったことは二神が同所に祀られていたことを証明するものだという理由からでした。赤司八幡宮の反駁がありましたが、高良山中に豊姫神社の再建がなされました。

 
高良山中の豊姫神社は明治6年(1873)式内大社の故に「もとの如く」高良社の相殿として遷宮が希望されましたが、かえって県社から郷社に降格されます。明治7年(1874)県社復活の願いが出され許可され、同時に本宮境内への遷宮希望も出されましたが、実現しませんでした。昭和20年(1945)終戦後廃社となっています。
廃社の理由はわかりませんが、豊姫神が高良玉垂命神の配偶神であり、「豊玉姫」神でないことが不利をもたらしたと推察しています。高良玉垂命神に配偶神があってはいけないのでしょう。豊姫は歴史の表に出ておられません。

かつての名社・
豊姫神社の本宮も悠久の時を経て高良山から消え去ってしまいました。各地の豊姫神社は淀姫神社の淀姫(よどひめ)として名を留めていますが、豊姫と豊玉姫の混同混乱は現在も残っています。
しかし、豊姫神を祀る遺構が、久留米市上津に豊姫神社の石祠として残されています。


8.久留米市上津町の豊姫神社(上津天満宮境内)
上津天満宮本殿右後方に鳥居があり、三棟の石祠が並んでいます。
大正14年5月3日、東上村にあった豊姫神社を上津天満宮境内に移転したもので、式内論社で、祭神は「豊姫命」とされます。その鳥居扁額には「豊姫宮」とあり、石祠の中央に豊姫神社が祀られています。
三祠の中央に豊姫宮、右に若宮八幡宮、左に天神社。

豊姫神社(上津天満宮境内 福岡県久留米市上津町2077)

 

天神社(左)・豊姫宮(中)・若宮八幡宮(右)

 

 
祠の背面に東上村中組から鎮座したことが刻まれています。
東上村中組は現在地より北400mの所であったとされています。

 

式内社調査報告(第24巻西海道) 皇学館大学 昭和53年3月20日 抜粋
(豊姫宮祠背面の刻字)
豊姫宮ハ元東上村中組ニ鎮座アリシ社殿ヲ大正十四年 五月三日本山天満宮へ合祀シ後日石ノ小祠ヲ建立シ此處ニ遷座ス 大正十四年十月吉祥日建立

石祠内に棟礼が保存されていて、表に「天保十四年(1843)癸卯正月吉辰、奉再建豊姫神社宝殿一宇御井郡上津荒木上邑氏子(以下缺)、当村大工宮嵜伊七弟子同苗廣七」、裏に「従五位下川口甲斐守藤原朝臣常晴(缺)、遷宮(缺)」とある。

『筑後誌略』にも「御井郡上津荒木村ニ乙姫神トテ僅ハカリノ小社アル是ナリト云へり。」とある。すなはち、現在地より北四百米のところが旧地である。毎年正月初子ノ日に小松三本をここから掘りとつて、高良山広前に植え申すべき旨、27年己前、先々座主から申聞かせられてつづけている旨の『寛延年中の書上』が、『太宰管内志』に引かれている。このことはすでに『高良記』にもあり、江戸期に入ってのことではない。

上津本山の祭神は豊姫命、大城蛭尾の祭神は豊玉姫命の豊比咩神としている。
本山の豊姫神社の現宮司は田中定文氏で、氏子なし。

 
豊比咩神は「豊姫 ゆたひめ」と「豊玉姫 とよたまひめ」があり、「豊姫」は高良玉垂命神の配偶神であり、「豊玉姫」は彦火火出見尊の后です。
高良玉垂命神の配偶神「豊姫」は「ゆたひめ」と申します。「とよひめ」と呼ぶところに混乱の原因があります。豊玉彦には二人の姫君がおられ、豊玉姫と鴨玉依姫を総称して「豊姫 とよひめ」と申しました。

久留米市北野町大城の豊姫神社は「豊比咩神社」「止誉比咩神社」で豊玉姫を祀ります。久留米市上津の本山の豊姫神社は「豊比咩神社」で、別名・乙姫宮で、竜宮神です。


9.荒木の日吉神社 福岡県久留米市荒木町荒木(古賀)1811番地

左の社は粟島神社(少名彦神=事代主)

 
本山天満宮がある上津の西は荒木です。荒木しず姫(五十鈴姫)ゆかりの荒木です。荒木は坂本命が治めておられました。
ですが、ここ久留米市荒木町には荒木しず姫(五十鈴姫)を祀る神社はありません。地名の「荒木」が存在するのみです。五十鈴姫は崇神天皇の皇后であり、日本書記の手前、近畿の人であり、九州の筑後に、その事蹟が残されていたのではまずいのでしょう。
荒木町荒木の古賀には、領主の荒城朝臣関係の日吉神社が一社あるのみです。荒城氏がここ荒木に日吉神社を建立することは、荒木しず姫ゆかりの荒木ということになります。

「承平中(931~937)に領主荒城朝臣が大三輪明神を安置し、大宮明神と斎き祭る」とあります。大三輪明神は事代主ですが、大宮明神と祀っています。大宮明神は豊玉姫です。
後の後花園院の御宇(1465年頃)に社地名を「大宮区十二社じゅうにそう」と改めています。
明治3年(1870)に社名を日吉神社と改めています。
荒城氏が当初祀った神は大宮売神と大三輪明神となります。

崇神天皇の皇后は五十鈴姫であり、別名、荒木しづ姫です。その荒木しづ姫の父親が荒木武彦であり、荒木武彦は事代主となります。事代主の母が豊玉姫(田心姫)であり、荒木氏が事代主の子孫であることを考えると、荒城朝臣が久留米市荒木町荒木に、その先祖である事代主と豊玉姫を祀ることは自然です。

明治になり、崇神天皇の父であり大物主の大山咋神が主祭神となり、社名を日吉神社と改めています。主祭神が大宮売神の豊玉姫から大山咋神へと様変わりしたことになります。

領主荒城朝臣が承平年中(931~937)に大宮明神(豊玉姫)を祀り創建しています。筑後の神社の創建時期としては比較的新しい神社になります。
荒木は古代から開けたところです。西に大善寺玉垂宮、御塚・権現塚古墳があります。南は広川が流れ、広川丘陵は八女古墳群です。
荒木しず姫は西暦300年後半の人です。
荒城氏の日吉神社の前に荒木しず姫を祀る古宮があってもおかしくありません。

それで、本殿の主祭神は大三輪明神(事代主)と母の豊玉姫となりますが、「大宮明神」を大宮五十鈴姫と考えたならば、本殿の主祭神は事代主と五十鈴姫であり、五十鈴姫は荒木しづ姫であり、その荒木しづ姫の父親が荒木武彦であり、荒木武彦は事代主となります。
結果、本殿の主祭神は荒木武彦(事代主)と荒木しづ姫(大宮五十鈴姫)の親子を祀ることになります。
荒木氏が事代主の子孫であることを考えると、荒城朝臣が久留米市荒木町荒木に、その先祖である事代主と大宮五十鈴姫を祀ることはなお自然となります。


10.坂本命と福岡市の志賀海神社
久留米市の荒木地区は荒木シズ姫(五十鈴姫)の地区ですが、坂本命が管轄されていました。
神代系図からして、

 坂本命→国片姫→荒木シズ姫→活玉依姫→鴨玉依姫→豊玉彦→大幡主
 坂本命→国片姫→荒木シズ姫→事代主 →彦火火出見尊・豊玉姫→豊玉彦→大幡主

と、坂本命は海神族へと繋がっていくのです。

坂本命の父と母は開化天皇(物部保連)と国片姫としていますが、坂本命は安曇磯良(物部大連)と豊姫(ゆたひめ)の養子関係にあるのではないか? そうであれば、坂本命の管轄地である上津荒木(上村)に豊姫を祀る事情が想定できるのです。仮に、坂本命が豊姫(ゆたひめ)の子であっても、祖は海神族へと繋がっていくのです。

 坂本命→豊姫→鵜葺草葺不合命→彦火火出見尊・豊玉姫→豊玉彦→大幡主

そして、坂本命は福岡市の志賀海神社(しかうみじんじゃ)の祭神、豊姫(とよひめ)の綿津見(わたつみ)神と繋がってくるのです。
志賀海神社の主祭神は豊姫(とよひめ)であり、志賀姫神です。

志賀海神社(しかうみじんじゃ) 福岡市東区志賀島877
祭神:豊姫(とよひめ)

 
摂社・今宮神社
祭神:宇都志日金拆命(ウツシヒカネサク)=穂高見命
   住吉三神=開化天皇(底) 崇神天皇(中) 安曇磯良神(上)
   天児屋根命(アメノコヤネ)

 
  
高良玉垂宮神秘書 第6条
  安曇磯良は、筑前国にては志賀、日立国にては鹿島大明神、
  大和国にては春日大明神と申すなり。

志賀海神社の宮司家は阿曇家であり、氏子さんは坂本の人々です。
そして、安曇磯良神は鹿島神宮、春日大社の祭神ということになります。が、少々問題があるようです。


武甕槌神が鹿島神宮の祭神=天児屋根命は定説ではありません。
むしろ、豊玉彦=武甕槌神の可能性が強いです。
私は九州北部の豊玉彦を祀る神社を訪問する時、そこに市杵嶋姫が共に祀られていることが不思議でした。特に脊振神社は豊玉彦と市杵嶋姫を祀ります。福岡市の名島神社。香椎宮もです。筑後の村神社でも豊玉彦と市杵嶋姫を共に祀っている神社が多いです。香椎宮は仲哀天皇神功皇后によって豊玉彦が完全に消されていますが、残された祭祀線がその存在を物語っています。

春日市春日一丁目の春日神社でも、祭神・武甕槌命を豊玉彦とすれば、神社形式、氏子さん(白水)の説明がつきます。
現社殿の左に武甕槌命を祀る社殿があり、後の神護景雲2年(768年)、太宰大弐の藤原田麿が、故郷である大和国の春日大社から、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命、姫大神を迎え、右側に神社を構築します。
さらに後、左の武甕槌命を祀る社殿は壊され、現在の右社殿に合祀されて、現在の春日神社が成立した、と推察します。
すると、現在の参道が右に折れているのが説明できますし、多数の氏子さんの白水家がおられ、白水家は豊玉彦大幡主の流れであること、直線参道に大幡主の六角灯籠が立てられているのも理解できます。
当初の武甕槌命を単身祀る神社の社名が残っていないのが残念ですが、武甕槌命(豊玉彦)と罔象女神(春日様)の夫婦神を祀る神社が元春日神社(水屋宮)だったかもしれません。
時代経過の資料がありませんので、以上は私の推測です。

春日神社 福岡県春日市春日一丁目110番地

大幡主の六角灯籠 氏子に白水(しろうず)さんが多いせいでしょうか。 社殿が参道延長の先にありません?右に折れています。

※(追記) 豊玉彦=武甕槌神=正八幡大幡主となります