No.170 四王寺山(大野城)から下ろされた春日神社と王城神社①
(福岡県春日市の春日神社)
宮原誠一の神社見聞牒(170)
令和3年(2021年)04月30日
須玖岡本の奴国の丘がある福岡県春日市の名称は市内にある春日神社に由来すると言う。
明治以前の春日神社所在地は筑前国那珂郡春日村
1889年4月1日:町村制施行により那珂郡春日村が発足
1953年1月1日:町制施行、筑紫郡春日町となる
1972年4月1日:市制施行、春日市となる
「春日」が春日神社(春日市春日一丁目110)に由来する前の古代から「奴国の丘」と那珂川の間に開化天皇の春日率川宮(かすがのいざかわのみや 春日之伊邪河宮)がありました。現在は天児屋根命(あめのこやねみこと)の四柱を祀る春日神社となっています。
私は、春日率川宮があったこの地一帯が本来の「春日」の地ではないか、と思っています。
「No.135 福岡市南区の春日宮と開化天皇(藤大臣)」令和2年(2020年)2月20日参照
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12576297723.html
その春日一丁目の春日神社は古昔より一貫して現在の地にあったのではありません。
その前は、四王寺山(王城山 おおきやま)に祀られていましたが、白村江の戦いに対処する山城再築のため、現在地(春日市)に中大兄皇子が武甕槌命を祀る神社として遷したという。さらに、相殿であった事代主命を祀る王城神社も共に現在の太宰府市通古賀五丁目1203番地(五丁目8-40)に遷されました。
都府楼から見る四王寺山
四王寺山(しおうじやま) 福岡県太宰府市・大野城市・糟屋郡宇美町にまたがる標高410mの山である。構造的には最高点のある大城山(おおきやま・別名大野山)を中心に岩屋山・水瓶山・大原山と呼ばれる4つの山から構成されており、一帯の山地の総称として四王寺山と称する。大城山の山頂に古代山城である大野城が設置された。天皇の城が置かれたので時の人は王城山といった。
神護景雲2年(768年)、太宰大弐(だざいだいに)であった藤原田麿は、筑紫春日の地に藤原家の祖神である天児屋根命が祀られていることを知り、故郷である大和の国(現在の奈良)の春日大社から、雷の神・剣の神といわれる武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、姫大神(ひめおおかみ)を迎え、神社を再構築します。春日神社の当初は天児屋根命の単神が祀られていました。
王城神社(おうぎじんじゃ)
福岡県太宰府市通古賀五丁目8-40(字扇屋敷1203)
祭神 事代主命
寛政2年(1790)に船賀法印が編纂した『王城神社縁起』(太宰府天満宮蔵)によれば、神武天皇(?)が四王寺山(王城山、大野山)に築城の際、山上に武甕槌命と事代主命を祀ったことに由来し、天智天皇4年(665)筑前国衙庄(こくがしょう 現在の太宰府市通古賀 とおのこが)に遷され、「大城大明神」として祀られたとされる。
王城神社 福岡県太宰府市通古賀五丁目8-40(字扇屋敷1203)
王城神社縁起によれば、神武天皇が東征の折、四王寺山に築城の際、武甕槌命と事代主命を祀ったことになっています。
しかし、神武天皇は武甕槌命と事代主命よりも前の時代の人です。将来の人を神として祀るでしょうか。四王寺山に築城した時の人とは、武甕槌命と事代主命よりも後の時代の人です。
最初に四王寺山に築城し居を構えた人は開化天皇です。神功皇后が(贈)仲哀天皇と共に羽白熊鷲征討を行った時代でした。
御勢大霊石神社(みせだいれいせきじんしゃ 福岡県小郡市大保1032)の由緒によれば、仲哀帝は志気を鼓舞するため、戦線を廻られた折、夕方、敵の流れ矢に当り、この地にて崩御された、という。そして、戦が一段落した後、軍をまとめ、仲哀帝の霊柩を橿日に遷す、とあります。
神功皇后は軍の志気が落ちることを恐れ、仲哀帝の死を隠し、陣地に立っている石に鎧を着せ、かがり火をたいて存命のように見せかけられた、という。後に、この石を大保の郷の殯葬の地に宮柱を立て斉き祀り、御勢大霊石と呼ばれることになります。鎧着せの石は今も残っているという。「御勢」は夫の意味にて皇后からの尊親の称号、石は仲哀帝の御形代で「御勢大霊石」と呼ばれました。
夜が白む頃、神功皇后は軍をまとめ、密かに大保の陣を脱出、米ノ山峠を越え、穂波の大分(八幡宮)に戻られ、今の大分八幡宮の裏山に仲哀帝が仮葬された、という伝説が残っています。
その後、神功皇后は開化天皇の軍門に下られ、四王寺山での会見とります。その様子が高良玉垂宮神秘書」に書かれています。
高良玉垂宮神秘書
1条 (部分抜粋)
神功皇后の時、日本にイルキが攻めてきた。その時、筑前国四王寺の嶺に登り、祈られた折、東の空に白雲現われ、白雲たちまち四方に開き、光を放ち給い、月神(玉垂命)現われ給う。白雲を四方に開きたるは四天王なり。四つ鉾はその中に打ち交えて見えたり。その白雲に囲まれて、若冠となって四王寺の嶺に現わられる。その所を四王寺ヶ嶺と申すなり。高良大菩薩(玉垂命)のご紋は、このことから言うなり。
異国征伐の時の幕のご紋であり、四方に光を放ち給う故に門光(もんこう)と名付けたり。(中略)
三韓を攻め従え給う。その後、皇后は月神(玉垂命)と夫妻になり給う。
311条 高良の御紋・木瓜(もっこう)のこと。
神功皇后が筑前国四王寺の嶺において大鈴を榊の枝に掛け七日間、異国退治を祈られた時、東の空に白雲が現れ、四方に開け、四方に光を放ち、四王寺の嶺に降られた。
四方に開けた白雲は四天王なり。紋の中に四本の鉾を抱えているのは四天王の鉾なり。これをそのままとって門光(もんこう)と名付けたり。
異国追伐の時の高良の御紋はこれなり。四方に光を放っている故、門の光と書く。
高良(大菩薩)、四天王に従して天降られた所を四王寺が嶺と名付けたり。
「No.3 花菱・木瓜・五七桐の各紋について」平成29年(2017年)2月3日参照
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12246133693.html
開化天皇が四王子山にお立ちになった時に、まばゆいばかりの光が周囲に散ったのです。その様子を紋章にしたものが門光紋(花菱紋)です。この門光紋が高良神紋であり、住吉神紋です。門光紋以前の紋章は桐紋で、男は五七桐紋、女は五三桐紋です。十六葉菊紋は後鳥羽上皇が追加されたものです。宮地嶽神社は高良大社と同一神を祀っていることを隠すために、紋章の切替をされています。それが三階松紋です。
ワカヤマトネコヒコ(開化天皇となる前の名前)は四王子山で、ウガヤフキアエズノミコト(鵜草葺不合命)が引退される時、三種の神器と五七桐紋を渡され、正式の天皇、開化天皇となられました。その後、開化天皇は高良大社に移られて、神武天皇を除いて、最初の人皇天皇と成られたのが開化天皇です。
ウガヤフキアエズノミコトの母が豊玉姫で、父は彦火々出見尊(猿田彦)です。
木瓜紋、剣木瓜紋、剣花菱紋は、九州王朝をお守りした氏族の紋となります。
再度、王城神社縁起に戻って、
四王寺山(王城山、大野山)に祀られた神様が、武甕槌命と事代主命ある、と書かれています。(武甕槌命でなく天児屋根命か?武甕槌命を祀る神社名は書かれていません?)
天忍穂耳命(海幸彦)の各世代名と妃名を若い順に列記。
1.天忍穂耳命(草部吉見神社)-妃・拷幡千々姫 子・阿蘇津姫 熊本県高森町
2.武甕槌命(鹿嶋神社)-妃・市杵嶋姫 子・大山咋神 茨城県鹿嶋市(この件は保留)
3.生島(生島足島神社)-妃・瀛津世襲足姫(足島) 子・天足彦 長野県上田市
4.天児屋根命(牧岡神社)-妃・天鈿女命(比売神) 子・御年神 大阪府東大阪市
春日神社 福岡県春日市春日一丁目110番地
第一鳥居
六角灯籠 氏子に白水(しろうず)さんが多いせいでしょうか
社殿が参道延長の先にありません?
第二鳥居
春日神社由緒 境内案内板
祭神
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
姫大神(ひめおおかみ)
由緒
天智天皇皇太子としてこの国におわします時、この地に天児屋根命を祀り賜える神籬(ひもろぎ)の跡と言い伝う。
神護景雲2年(768年) 藤原田麻呂大宰府大弐として大宰府に在りし時、大和国春日より、武甕槌命、経津主命、姫大神の三柱をこの神籬に迎え併せ祀り、社殿を創建して春日大明神と称え奉る
天正14年(1586年) 島津勢の兵火にかかり、社殿、末社、宝蔵、古文書等一切が焼失した。
寛永4年(1627年) 知行領主黒田美作一成により社殿が再建された。その後元禄9年(1696年)に改築されて現在に至る。
鳥居は宝永7年(1710年) 黒田美作一利により奉納されたものである。
春日大社の祭神
武甕槌命 - 藤原氏守護神(茨城県鹿嶋市宮中 鹿島神宮)
経津主命 - 同上(千葉県香取市 香取神宮) 彦火々出見命(山幸彦)
天児屋根命- 藤原氏の祖神(大阪府東大阪市平岡の神)天忍穂耳命(海幸彦)
比売神 - 天児屋根命の妃(同上)天鈿女命
本来は罔象女神(神大市姫)とその娘さん天鈿女命を春日神と称しました。
社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と枚岡(ひらおか)神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、奈良の御蓋山(みかさやま)の麓に四殿の社殿を造営している。
斎主神(いわいぬしのかみ)
経津主神の別名。単に斎主(さいしゅ)といえば神を祀る人をいう
春日神と水屋神社
春日大社の元々の本当の祭神は罔象女神様(みずはのめのかみ)であり、罔象女神(神大市姫 かむおちひめ)を春日神(かすがのかみ)と称しました。
罔象女神を祭神とする春日神社が本来の春日神社ですが、奈良の春日大社は、この春日神社に祭神三柱を追加したものとなっています。
祭神三柱とは海幸彦、山幸彦、姫大神(天鈿女命)です。
海幸彦は天児屋根命(あめのこやね)名前で祀られています。
山幸彦は経津主命(ふつぬし)です。香取の神です。
罔象女神は春日大社のもう一つ格上の神様とされます。
また、罔象女神・天鈿女命の親子を春日神とすることもあります。
春日大社の元々の本当のご祭神は罔象女神様、龍神様ですが、このことを最もよく残しているお宮が奥伊勢にあります。影だけ残しています。皇大神宮及び松阪の那の国の集落(櫛田村)、両方から川を上ります。伊勢皇大神宮の宇治山田の五十鈴川から登ります。片方(松阪)は櫛田川です。両方の川が到達するところに奥伊勢があって、ここに水屋神社(三重県松阪市飯高町赤桶2507)があります。水屋神社とは本当はここにあったのではない、奈良の春日大社、即ち、水屋宮です。
2021.10.29 追記
四王寺山(王城山)に祀られた神様は、由来通りの武甕槌命が正しいようです。
春日市の春日神社の成り立ちは、当初、武甕槌命を単身祀る神社でした。
神護景雲2年(768年) 藤原田麻呂大宰府大弐として大宰府に在りし時、大和国春日より、経津主命、天児屋根命、姫大神の三柱をこの神籬に迎え併せ祀り、社殿を創建して春日大明神と称え奉り、現在の春日神社となっています。
神社由来と異なっていて、武甕槌命と天児屋根命が入れ替わっています。
本殿右側の若宮社 祭神・天押雲根命(御年神)
若宮社(祭神・天押雲根命)
御年神は東大阪市の枚岡神社(ひらおか)の末社・若宮社の祭神・天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)です。父の天忍穂耳命は福岡では別名・天忍穂根命(あめのおしほねのみこと)です。この若宮社は糸島の引津の引津神社と同類となります。
さらに、引津神社の西隣の船越には、妃の古計牟須姫(こけむすひめ)を祀る若宮神社が並んで鎮座です。木花開耶姫の娘さんです。両神社とも社紋は阿蘇家の「違い鷹羽紋」ですが、後に、この紋章では具合が悪いと橘の紋章に変更されています。氏子さんは違い鷹羽紋ですが。
引津神社の古宮は十六天神社(大幡主)、八大龍王社(豊玉彦)、綿積神社(豊玉彦)でした。
御年神は天児屋根命(大年神)と天鈿女命(あめのうずめ)の御子で、大年神と御年神の親子は『記紀』から(贈)天皇の称号が贈られています。
第5代 孝昭天皇(観松彦香殖稲天皇ミマツヒコカエシネ)=天忍穂耳命 大年神
第6代 孝安天皇(倭足彦国押人天皇ヤマトタラシヒコクニオシト)=天押雲根命 御年神 波比岐神
「No.150 仁徳天皇が祭神でない糸島の若宮神社」令和2年(2020年)8月13日参照
https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12617519758.html
船越の引津神社 糸島市志摩船越245
船越の若宮神社 糸島市志摩船越309-2
祭神 古計牟須姫、木花開耶姫
本殿の天女の彫刻
本殿の屋根下には笛と太鼓を持った天女の彫刻があります。
天女の彫刻が施される神社は、三保の松原の羽衣伝説の天女の三穂津姫(田心姫)となりますが、三穂津姫は天児屋根命の妃ではありません。
天児屋根命の妃は拷幡千々姫(たくはたちぢひめ)、市杵嶋姫、瀛津世襲足姫(おきつよそたらしひめ)、天鈿女命(あめのうずめのみこと)です。拷幡千々姫を除いて、八乙女・八天女の方々です。よって、天女の彫刻があっても、しかりかなと思います。
天忍穂耳尊(天児屋根命=海幸彦)は拷幡千々姫、市杵嶋姫、瀛津世襲足姫、天鈿女命の4名の姫たちによって「ヒミコ」の皇子となられます。すなわち、市杵嶋姫の入り婿により天照大神の子・養子となられたのでした。
八天女
右
1.広田大神(天照大神 あまてらすおおみかみ)
2.八街比売大神(やがみひめ 瀛津世襲足姫 おきつよそたらしひめ)
3.爾保津姫大神(みほつひめ 豊玉姫=田心姫 たごりひめ)
4.稚日女大神(わかひるめ ヒミコ宗女イヨ)
左
1.石坂姫大神(伊弉冉尊 いざなみのみこと)
2.豊受姫大神(天鈿女命 あめのうずめのみこと)
3.立田大神(市杵島姫)
4.美奴売大神(みぬまひめ 八女津姫 水沼姫)
恐らく、彫刻天女は右が瀛津世襲足姫、左が天鈿女命かもしれません。想像です。
本殿右の天女彫刻
本殿左の天女彫刻
本殿後の資料展示箱の天女彫刻
社殿配置の考察
六角灯籠が配置された写真を見ていただくと、社殿が参道延長の先にありません
現在の社殿の左にもう一社神殿があったかのようです。消失後、再建されなかったのでしょうか。あるいは、再建のために右建設、左建設と遷宮でずれたのかもしれません。
しかし、六角灯籠は大幡主が関係します。氏子に白水(しろうず)さんが多くおられます。白水さんは大幡主奉祭の氏族です。白水池がある一帯(奴国の丘の南)は白水さんの領地でした。
今の春日神社が王城山から遷ってくる時は武甕槌命の単神が祀られていました。
この遷宮の時、王城神社が四王寺山の麓近くに移されたように、四王寺山の麓近くに移されてよさそうです。それが大幡主本拠地近くに移されています。奴国の丘の南東側です。
天児屋根命は大幡主あるいは息子さんの豊玉彦と何らかの関係があったのでしょうか。
2021.10.29 追記
武甕槌命は豊玉彦です。だから奴国の丘の近くに遷されたのでした。
これからの話は関係が薄いかもしれませんが、とりあえずの話です。
天日鷲命(あめのひわしのみこと)
豊玉彦(天太玉命)と阿蘇津姫(天比理刀咩命)の御子で天日鷲命を祀る神社があります。
阿蘇津姫は天児屋根命の姫君です。天日鷲命は阿波国の忌部氏の祖先神で、この地に穀麻を植えたと伝えられ、麻植(おえ)神ともいわれます。天日鷲命を祀る神社の社紋は橘紋です。豊玉彦に因みます。
話しは端折って、天児屋根命はなんとか自分の出来損ないの娘(阿蘇津姫)をもらってくれないだろうかと・阿蘇津姫を娶って何とかしてくれ!と豊玉彦に頼まれます。
そして、阿蘇津姫は豊玉彦と夫婦となり、寒川彦・寒川姫を名乗られ、寒川神社(社紋は豊玉彦の流れ三巴紋)に落ち着かれます。その子孫がタナベさんで、天児屋根命を太祖とします。この系統から「大」「田」の字がつく大手製薬会社が誕生しています。
そうです。天児屋根命は豊玉彦の家来だったのです。
この関係が天児屋根命神社を須玖岡本に呼び込む要因だったのでしょうか?
私の想像です。
さらに、王城神社縁起は続きます。
プログ「地図を楽しむ・古代史の謎」伊藤まさ子管理人
神武天皇が大城山で祭った神を、天智天皇が降ろした 2019-01-15
福岡県太宰府市の通古賀(とおのこが)に王城(おおぎ)神社という古社があります。そこに伝わる「王城大明神縁起」に『神武天皇が四王寺山の山頂に城を構え、大野の県主・田中熊別に警固させていた。神武天皇の山城があるので、時の人は王城(おおぎ)山と云った。詔してこの山に武甕槌と事代主を祭り、東夷を平らげることを祈らせた』この後『天皇は東夷征伐に出発し、熊別は天皇に従い東国に行った。熊別は一子熊則をこの残し置き、荒気武彦と蚊田王を警固させた。天皇は東征し大和国に内裏を建て橿原宮と名づけた云々』ということが書かれているのです。
「大野城」山頂から東を見ると、宝満山と三郡山と若杉山が見えます。西を見ると背振山系の山々から糸島地方の山々まですっかり見えるのです。ここで神祭りをしたと考えるのは自然です。
王城神社縁起では、四王寺山の大野城を大野の県主・田中熊別に警固させた、とあります。後に、熊別は一子熊則を残し置き、荒気武彦と蚊田王を警固させた、とあります。 田中物部の登場です。田中物部は福岡県瀬高が発祥の地で、田中大神(開化天皇)を奉祭します。後に北筑後に上がり、小郡市から筑紫野にかけて勢力を張ります。
福岡県みやま市(旧瀬高町)に長島(おさじま)地区があり、その中心に物部田中神を祀る「田中の宮」があります。その長島は物部一族の発祥とされる物部田中神、物部阿志賀野神が祀られています。長島には田中姓が多いのは「田中の宮」によるものとされ、田中物部は「磐井の乱」にも出てきます。
杷木神社の福岡県神社誌では、磐井の乱後、磐井の残党、青人らは土蜘蛛と力を合わせ豊前筑前の間に蜂起した。物部麁鹿火大連は詔旨を申下し、豊前国企救(北九州市)の長手、鷹羽(田川市)の金田麿、筑前国三笠郡(筑紫野市)の田中鷲丸、田中男起らが鎮圧した、と記す。
田中物部は小郡市、筑紫野市の旧三笠郡・旧三原郡に進出です。
小郡市の日吉神社周辺には、今でも剣花菱紋の田中さん、花菱紋の福地さんが多数お住まいです。日吉神社の古宮は開化天皇を祀る神社でした。
杷木神社 福岡県朝倉市杷木池田546-1
やはり、四王寺山の山頂に城を構え、武甕槌命と事代主を祀ったのは神武天皇でなく、開化天皇でしょう。
大野城山頂を基点に東を見ると宝満山があり、西をみると須玖岡本遺跡の奴国の丘、さらに吉竹高木遺跡を越して飯盛山が見えます。
春分の日、福岡市南区弥永曰佐の春日率川宮では、太陽は須玖岡本遺跡の奴国の丘(大城山・宝満山)から登りました。そして、夕日は飯盛山を越して細石神社に沈みました。
一貴山銚子塚古墳→細石神社→飯盛山→吉竹高木遺跡→岡本熊野神社→大野城→宝満神社上宮が東西に並ぶのです。
弥永の春日率川宮がある弥永・警弥郷・柳瀬・曰佐一帯こそが、春日(はるひ)の滓鹿(カスガ)だったのです。その奴国の丘に「岡本」「小倉」「弥生」「大和」もあるのです。
夕されば小倉(をぐら)の山に鳴く鹿は今夜(こよひ)は鳴かず寝(いね)にけらしも
岡本宮の崗本天皇(舒明天皇)or斉明天皇
岡本宮(Wikipedia)
岡本宮(おかもとのみや)は、7世紀の舒明天皇及び斉明天皇が営んだ宮。
舒明天皇の岡本宮は飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)、斉明天皇の岡本宮は後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)と区別して呼称される。両者とも奈良県明日香村岡にある飛鳥京跡にあったとされている。
629年1月に舒明天皇は即位し、翌年(630年)10月、飛鳥岡(雷丘)のふもとに遷宮し、岡本宮と称した。その6年後の636年6月、岡本宮は火災で焼失し、舒明天皇は田中宮(たなかのみや、現在の橿原市田中町)へ遷ることとなった。
655年の冬に板蓋宮が火災に遭い、斉明天皇は川原宮へ遷ったが、並行して新たな宮殿建設地の選定も行っており、翌年(656年)には岡本に新宮殿が建てられた。これが後飛鳥岡本宮である。斉明天皇は舒明天皇の未亡人であり、亡き夫の旧宮地を選んだということになる。
白村江の戦い
663年白村江(錦江河口)で、唐軍と百済・倭国連合軍が激突。軍船400は燃え上がり、倭国軍は大敗。唐軍は筑紫君薩野馬を捕虜にし、百済の熊津に唐の出先機関である熊津都督府を設置した。
敗戦の翌664年5月、百済駐留の唐の鎮将・劉仁願は朝散大夫・郭務宗と唐軍兵2千を筑紫都督府に派遣。翌665年11月に司馬法聡を派遣するとともに、境部連石積らを筑紫都督府に送ってくる。668年1月3日天智天皇が即位する。
東西線・銚子塚古墳→細石神社→飯盛山→吉竹高木遺跡→岡本熊野神社→大野城→宝満神社上宮