宮原誠一の神社見聞牒(077)
平成30年(2018年)09月23日

No.77 宮原(みやのはる)から見える宮野 ③


1.熊本県八代郡氷川町宮原

2017(29)年12月1、2日に第1回の神社トレッキングを熊本県氷川(ひかわ)町一帯で実施しました。更に今回、2018(30)年9月17日、第2回の神社トレッキングを氷川流域にて会員8名により実施しました。廻りましたのは8社です。

 1.霊符神社  熊本県宇城市小川町南海東小園
 2.白木平神社 熊本県八代市泉町白木平
 3.熊野座神社 熊本県八代郡氷川町立神974
 4.阿蘇神社  熊本県八代郡氷川町宮原若宮760
 5.宮原三神宮 熊本県八代郡氷川町宮原491
 6.香取神社  熊本県八代郡氷川町有佐303
 7 香取神宮  熊本県八代郡氷川町古屋敷
 8.鹿島神社  熊本県八代郡氷川町鹿島773

それぞれの神社については、すでに「宮原誠一の神社見聞牒」「ひぼろぎ逍遥」にて詳しく説明されていますので、今回は白木平神社、熊野座神社、阿蘇神社、宮原三神宮、鹿島神社と氷川沿いにおける神社から再発見した事項を説明してまいります。

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(1) 白木平神社
小川町南海東小園の霊符神社を南に峠越えすると、そこは八代市泉町下岳の白木平(しらきびら)があります。八代郡氷川町宮原から氷川に沿った上流域に泉町がある。百嶋先生が"八代の上に九州王朝の泉地区があります"と言われたイズミです。
峠越えに国道443号の氷川にでますと、そこは白木平の集落です。その集落の北山上に白木平神社が鎮座されていました。社殿は神社とはいえ鳥居はなく、お堂のような社です。
しかし、そこに鎮座されるご神体は「門光紋」を薄らと胸につけられたものでした。
明らかに、この氷川山奥の白木平地域は「九州王朝の泉」でした。
(注) 九州王朝の泉:九州王朝の行宮、南九州では倭国大乱時の避難所となっている

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ご神体のうち二体は火災に遇ったのか炭化しており、いかなる像か確認できません。

久留米地名研究会における百嶋先生講演 2011年2月5日
邪馬台国の中心地は、宮崎県の高原町(たかはるちょう)あたりです。もとは姫原(ひめはる)でした。ところが、高木の大神の一派が盗み取りして、名前を勝手に姫原から高原(たかはる)に変えています。本当の神武天皇のゆかりの地です。姫城(ひめぎ宮崎県都城市姫城町)は都城市市役所付近の地名です。もとの鹿児島県の国分市及び隼人町(はやと)あの付近一帯を姫城という。それから熊本県の八代のちょっと上に九州王朝のどえらい集落があります(宮原三神宮がある氷川町宮原、以前は「宮原町」その前は「火の村」といった。北東の山手に姫城あり)。そこにも姫の城が残っている。そして、ここから余り遠くない福岡県浮羽町千足の小高いところの姫治(ひめはる)も神武天皇ゆかりの地です。

白木山妙見大菩薩縁起
天武天皇ノ御宇白鳳九年明州ノ津自リ亀ニ乗リ肥後州八代ノ庄土北郷八千把村竹原津ニ御着三箇年御鎮座、小隈野村千代松カ峯九十年鎮座、是ヲ白木平ト号ス


九州年号・天武天皇白鳳9年は669年であり、百済国滅亡6年後である。その間、百済王族とその一族が九州へ亡命渡来し、火の君の世話により白木平に落ち着かれたのであろうと推察しています。
八代郡氷川町立神から上流域の泉町地域及びその北部の宇城市小川町の海東地域が"火の君の中心地"だったのでしょう。


(2) 熊野座神社
白木平より氷川を下りますと立神峡谷に熊野座神社が鎮座されている。
祭神について、
 速玉男神(はやたまのお)大幡主(博多櫛田神社の祭神)
 伊弉冊神(いざなみ)大幡主の妃
 事解男神(ことさかお)金山彦(イザナミの兄)
となり、この祭神の配祀が熊野神社の基本になっています。
この時、伊弉冊神は伊弉諾尊の妃ではありません。
八代から氷川、小川にかけての地帯が大幡主の領域であることを考えると、熊野神社の基本は、この氷川の熊野座神社にあるのではと思うのです。

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(3) 阿蘇神社
氷川が山間から平野部に出る所の氷川町宮原に、小じんまりとした阿蘇神社が鎮座しています。第1回の訪問の時は単なる阿蘇神社と思っていたのですが、そうでもないようです。

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 祭神
 阿蘇津彦命(あそつひこのみこと)
 阿蘇津姫命(あそつひめのみこと)

阿蘇津彦は建磐龍(手研耳命 たけしみみ)で阿蘇津姫と夫婦神と見たのですが、その以前、阿蘇津姫は天豊津姫としては懿徳天皇の皇后であったのです。案内板では「若宮さん」と呼ばれています。
神座には「門光紋」が打ってあります。この地域が九州王朝の支配地域であったと考えます。
神座の「門光紋」は天豊津姫が懿徳天皇の皇后であったからでしょうか。

近くの街燈の柱には「火の国発祥の地 みやはら」とあります。
太古は「火の邑」「火の村」と言い、その後「火の国」と称している。
その後(平安末期)「火の村」は「宮原村」へと改め、鎌倉・室町時代は八代郡文化の中心として栄えた。昭和の合併で旧八代郡宮原町は氷川町宮原となっている。
ミヤノハル(宮原)という地名は、宮原三宮社にちなんで、約八百年前の1161年にできている。「宮原」を地名として呼ぶ時は「みやのはる」と言った。名前を呼ぶ時も「みやのはる」と呼んでいたが、後に「みやはら」と呼ぶようになったという。
この「みやのはる」と呼ぶ「の」の入れ込み読み方は大幡主系に見られます。


(4) 宮原三神宮
阿蘇神社の西500m程に宮原三神宮が鎮座します。
宮原三神宮は創立時「三宮社」と称し、後に神仏習合の三宮妙見宮と称している。明治の神仏分離令により、神蔵寺を廃し、社号を宮原三神宮と改めています。
祭神は国常立尊(くにとこたちのみこと=大幡主)、右に天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、左に神武天皇(じんむてんのう)となっています。

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第1回の訪問の時は、由緒記を読んで、ご祭神の説明がチグハグなのに驚きましたが、三祭神の配祀の在り方もしっくりいきません。
今回訪問し、祭神は当初、国常立尊(=大幡主)が祀られて、後に、天照皇大神、神武天皇が追祀されて、「三宮社」となったのではないかと結論に至りました。

宮原三神宮 略歴(公表)
平治元年(1159) 二条天皇の勅命により社殿造営
応保元年(1161) 社殿完成、伊勢神宮内宮・日吉大社・下鴨神社の神霊を勧請創建
        はじめは三宮社といった
天正16年(1588) 小西行長の焼討ちにより社殿焼失
慶長6年(1602) 加藤清正公により復旧
寛永元年(1624) 以後細川氏より保護を受ける
寛文元年(1661) 神蔵寺をはじめ六坊が建立
        八代妙見宮にならい三宮妙見宮と称する
明治維新の神仏分離令により、神蔵寺を廃し、社号を宮原三神宮と改める

平治元年(1159) 二条天皇の勅命により社殿を造営、「三宮社」が発足したように取れますが、すでに、大幡主を祀る神社が古宮としてあったのではないかということです。1159年の神社創起としては新し過ぎます。


(5) 鹿嶋神社
氷川を更に下り、干拓地に出ますと、氷川の北側の鹿島に鹿嶋神社が鎮座します。

 祭神
 武甕槌大神(たけみかつちのおおかみ)
 経津主大神(ふつぬしのおおかみ)

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一般に鹿島神社の祭神は武甕槌神ですが、武甕槌大神(海幸彦)と経津主大神(山幸彦)が並んでの配祀はめずらしいです。普通に考えれば、この二柱の神は、この神社でいつも喧嘩されていることになります。やはり、配神に無理があります。
拝殿を見ますと、至る所に「亀甲に五三桐紋」が打ってあります。
この紋は大幡主の神紋です。
ということは、この神社は大幡主が主祭神であったが、消されたと考えられます。
大幡主が主祭神として中央に、海幸彦、山幸彦を脇神として配下に置かれれば、配祀にバランスが取れるのです。
この神社も大幡主が主祭神だったのです。いつの時代か消されることとなったのです。

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2.熊本県八代郡氷川町一帯についての「まとめ」


(1) 古代の氷川町一帯は大幡主の支配領域であり、九州王朝の泉地区が氷川の上流の
  山奥に大幡主ご一統により匿われた。

(2) 重要な神社の宮地は「宮原 みやのはる」と呼ばれた。
  姓名に使用する時は「宮原」は「みやはら」と詠んだ。

(3) 「原」「治」を「はる」と詠む時、「はる」は九州王朝の天皇に関する地名を
  意味する。




3.福岡県朝倉の宮野について

一般に、神社所在地の住所、字名を見ますと、「宮原」「宮ノ前」「宮ノ脇」「宮ノ後」等、「宮」の字がよく見られます。
神社所在地の住所で「宮原」は「みやのはる」と読むのが一般的でしょう。
「原 はる」は九州王朝の天皇に関する地名を意味します。

福岡県旧朝倉町大字宮野に鎮座する宮野神社の住所は「字中宮野1248」ですが、字図を見ますと「宮野前」となっています。その北が「宮野脇」「宮野」「宮ノ裏」と続きます。

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前回の記事No.76 で触れましたように、公表されている由緒記と異なって、宮野神社は開化天皇を祀る玉垂神社でした。三階松紋、五七桐紋、門光紋が打ってある九州王朝の重要な神社です。その北西には開化天皇を祀る宮地嶽神社もあります。
その所在地の住所が「宮野」と、野原の「野」が使用されるとは貧弱すぎます。
本来は「みやのはる 宮原」と詠んだのではないでしょうか。
その九州王朝を象徴する「はる 原」が消されて、「みやの」となり、漢字の「宮野」が当てられたと考えるのです。
その他の字名に「宮野脇」「宮ノ裏」とありますが、「宮野脇」は「宮ノ脇」、「宮野前」は「宮ノ前」が本来の書き方でしょう。

九州王朝以後の権力者にとって、九州王朝の象徴神社である「玉垂神社」、その地名の「みやのはる 宮原」は目障りだったのでしょう。
地名は「みやの」→「宮野」と短くされ、文字の品格も落とされ、そして、神社名「玉垂神社」は地名に由来したかのように「宮野神社」と変えられたのです。

私の氏神様の神社名は「玉垂神社」ですが、鎌倉時代から明治初期までは、地名の「栁瀬」をとって「栁瀬神社」と呼ばれました。明治の社格付けの時、神社名を「玉垂神社」と戻し、宮地も遷宮し、社殿も建て替え、心機一転させました。実に650年間の期間を待って、栁瀬の村人は本来の氏神様神社の姿に戻したのでした。

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4.旧朝倉町下須川の別所神社

宮野神社のすぐ東200m程の下須川に伊弉冉尊他を祀る別所神社が鎮座されています。実質的には熊野神社といったところです。
旧朝倉町教育委員会による案内では「中大兄皇子は麻?良山の朝倉社の祭神「伊弉冊尊」を別けて祀り、斉明天皇の御病気平癒を祈願されたのがこの別所神社である」とあります。
伊弉冊尊を遷して、別所神社の祭神が、事解男命(ことさかお)伊弉冊尊(いざなみ)速玉男命(はやたまのお)の三柱になったかのような表現です。

 祭神について、
 事解男命(ことさかお)は金山彦(イザナミの兄)
 伊弉冊尊(いざなみ)は大幡主の妃
 速玉男命(はやたまのお)は博多櫛田神社の大幡主

この祭神の配祀は熊本県八代郡氷川町立神の熊野座神社を見ましたように、熊野神社そのものです。本当に中大兄皇子が別所神社に伊弉冊尊を遷すことに関わったのでしょうか?


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熊野神社、豊玉彦を祀る神社には、拝殿の両側に低く目の松の木がよく植えてあります。
全国の別所神社を調べましたら、長野県上田市に別所神社がありました。

 別所神社(上田市)
 所在地:長野県上田市別所温泉2338
 御祭神:熊野大神
 由 緒:往古は熊野社と呼ばれており、和歌山の熊野本宮大社から分祀されたと
 伝えられています。
 境内社:皇大神宮、大沢社、大岩社、北山社、大峯社、鼎社、雨宮社、下宮社、
 愛宕社、水沢社、角宮社、廣田社、八幡社、諏訪社、日月社、山祇社、伊鹿社、
 香取社、熊野社、藤田社 他

長野県上田市の別所神社も熊野神社そのものでした。
長野県上田市には、宮原一族が九州から多く移住しております。
本当に、日本書記が記すように、中大兄皇子(天智天皇)は朝倉と白村江の戦いに関わられたのでしょうか?