宮原誠一の神社見聞牒(042)
平成30年(2018年)01月27日


No.42 河童と福岡県田主丸町東町の馬場瀬神社 ④


1.河童と田主丸

河童(かっぱ)は福岡県田主丸町の観光目玉の一つである。その街中を挟むようにして、筑後川と巨瀬(こせ)川が東から西へと流れる。田園地帯で用水路が張り巡らされ大河川と水路に絡めて河童の伝説が何かと多い地域である。
田主丸河童の起源を持つ馬場瀬神社が鎮座する周辺の用水路(雲雀川 ひばるかわ)の橋の欄干には多くの河童の像を見かける。


042-01

JR田主丸駅の駅舎は、平成4年に、河童が頬杖しているところをデザインして改築されたもので、「頭」の部分が、田主丸ふるさと会館になっており、2階が河童資料館になっている。
駅舎はふるさと創生資金を利用して建てられた河童の形をしたもので、浮羽工業高校の生徒がデザインしたという。


042-02

田主丸町は初めて、ブドウ・巨峰の栽培に成功した巨峰発祥の地でもある。


ブドウ・巨峰は、昭和17年、静岡県の伊豆で、新種のブドウが生まれ、富士山にちなんで「巨峰」と名付けられた。生みの親は民間のブドウ学者で大井上康(おおいのうえやすし)氏。巨峰は、石原早生とセンテニアルという2種を交配させてできた大粒のブドウです。たぐいまれな民間研究所大井上氏の努力で、苦難の中、奇跡的に戦火をくぐり抜け、生き残った巨峰の苗。縁あって田主丸にやってきた。

昭和30年、稲作研究グループである栄週研究会が設立し、所長には、大井上氏の門下生である越智通重(おちみちしげ)氏を招きました。建物も活動資金も、すべて自分たちで賄った研究所。全国にもこのような例はありません。会員たちは、足繁く研究所に通い、越智氏からの指導を受け、農作物の栽培原理である「栄養週期説」の技術を深めていきました。稲作中心から果樹などの栽培への転換期であった昭和32年、収益を上げるために巨峰の導入が検討されます。
巨峰の苗木は、越智(おち)氏の指導と田主丸の人々の熱心な取り組みにより、悲願の実をつけました。もともと、植木・苗木が盛んだった田主丸だからからこそ、巨峰が根付いたのです。最初はたったの5人で始めた巨峰の栽培でした。

042-03

河童は背中に甲羅を背負い、頭に水入りの皿を付けた半水中動物・半人間みたいに語られるが、実際は人間そのものであり、古代、熊本県南部から北筑後に移住してきた橘(たちばな)族及びトルコ系匈奴(きょうど)物部族を総称したものと言える。
トルコ系匈奴は別名、越智族とも言われ、巨峰の育ての親・越智通重(おちみちしげ)氏も同族であり、田主丸に縁あって来られたのも偶然でなく、古代先祖の因縁がからんでいる。
ここ田主丸は日本で橘族が最も集中する地域でもあり、特にその本拠地と云われる地域が田主丸町竹野校区である。竹野郷は古代、「たかの」とも言った。この地域には、八幡神社はなく、大山祗(月読命)、大国主、豊玉彦、木花咲耶姫を祀る神社が多くあり、月読命と豊玉彦(中将 小若子 コワクコ)と木花咲耶姫の関係は平安の物語「竹取物語」の舞台になっていると云われる。
平成29年(2017年)9月30日、福岡県耳納山麓 竹野地区 神社トレッキングが行なわれ、この地域の神社を見て廻り、ほぼ、その確信がつかめた。それは、月読命を「竹取の翁」に、その娘姫・木花咲耶姫を「かぐや姫」に置き換えることが出来る。かぐや姫は月に帰るのでなく、中将の豊玉彦と木花咲耶姫が夫婦となり、富士山麓に子息と別れ旅にたたれるというストーリーである。いずれ、竹野地区の神社を紹介する時に、この竹取物語の舞台裏を紹介したいと思っています。

042-04


 

2.馬場瀬神社

月讀神社の南側境内に「馬場瀬神社」があり、月讀神社と対面する形で鎮座している。
この馬場瀬神社が田主丸河童の起源を持つ神社とされる。

馬場瀬神社 福岡県久留米市田主丸町田主丸(東町)546-1

042-05

ご祭神
・罔象女神(みずはのめのかみ)
・応神天皇(おうじんてんのう)

案内には、このようになっているが、町民の間では、罔象女命を中尊として、相殿に安徳天皇、平清盛、二位尼徳子、平清盛の化身である河童であるという。

寛永10年(1633年)田主丸町の開祖・菊池丹後入道(森田長芳)が水神の罔象女命(みずはのめのみこと)を自宅・田主丸町馬場に祀ったのがはじまり。その後、寛永16年(1639年)田主丸大庄屋 森田大蔵が馬場瀬神社を建立。
その後、明和3年(1766年)菊池嘉平により東町の開作がおこなわれ、この東町の地に移され「馬場瀬神社」として遷座。この後、二田村の月讀神社を、明治13年(1880年)6月に勧請して、現在の月讀神社境内となる。
人々は親しみをこめて「ばばんせどん」と呼んでいる。
また、この馬場瀬神社の社殿の中には、五体の木像(罔象女命・二位尼・九千坊・沙悟浄・平清盛)が納められており、その内の二体の木像の「九千坊」「沙悟浄」は田主丸の人々から『川ん殿』と呼ばれている河童さんである。

042-06


042-07



3.田主丸町志床の熊野神社と境内社池野神社

「No.38 福岡県田主丸町志床の熊野神社と境内社徳満宮」で、河童木像と池野神社を紹介している。池野神社は志床(しどこ)の熊野神社の境内社として、本殿後ろ右に鎮座されている。
そのご神体の一つである「河童木像」は田主丸町指定の文化財にもなっている。田主丸町東町の馬場瀬神社と同一のご神体群である。

042-08

042-09

九千坊は村では「申谷(さるわか)大明神」と呼ばれている。「申谷大明神」は後に「申若大明神」に字句が変更されている。
どうして、馬場瀬神社と性格を同じくする池野神社が志床の熊野神社の境内社として存在するのか、その歴史的過程はまだつかめていない。はっきりしていることは、志床村に居住されている方々が古代の物部橘族であり、橘族特有の村のようです。


042-10


 

4.九千坊と河童

九千坊は、筑後川・巨瀬川の河童の頭目であるといわれている。九千坊にふれる前に、田主丸町の開発と森田兵衛長芳と馬場瀬神社の関係を紹介。

森田兵衛長芳は、慶長19年(1614)に、吉田町と怒田の間の中道往還沿いの藪であった古瀬名を開墾して、長さ125間に及ぶ町立てをし、今日の田主丸の礎を築いた人物である。彼は後年剃髪して菊池丹後入道を名乗った。今の田主丸町の街中は藪であり、西の豊城怒田と東の吉田町が田主丸の中心地域であった。その中間の藪地を現在の田主丸街中に変えるきっかけを作ったのだ。
長芳の五代の祖・親元は、諸国を放浪した後、縁あって怒田に住み着いた。父戦死後大友幕下となり、筑後国竹野郡怒田村森田名に居住し、菊池八代能隆の弟・森田出雲守安元の後胤森田兼直家と養子縁組し、森田姓と改め、怒田、口高、三本木の三村を領するに至っている。

馬場瀬神社は寛永10年(1633年)菊池丹後入道(森田長芳)が水神の罔象女命を自宅・田主丸町馬場に祀ったのがはじまりで、その後、寛永16年(1639年)田主丸大庄屋 森田大蔵が馬場瀬神社を建立。その後、明和3年(1766年)菊池嘉平により東町の開作がおこなわれ、この東町の地に移され「馬場瀬神社」として遷座している。
この馬場瀬神社の社殿の中には、五体の木像(罔象女命・二位尼・九千坊・沙悟浄・平清盛)が納められており、その内の二体の木像の「九千坊」「沙悟浄」は田主丸の人々から『川ん殿』と呼ばれている河童さんである。
九千坊(くせんぼう)とは、筑後川・巨瀬川の河童の頭目といわれる。また、九千坊は巨瀬(こせ)入道・平清盛入道とも呼ばれ、河童の頭目は平清盛の化身とされる。また、巨瀬入道は九瀬(こせ)入道とも言う。
田主丸の多くの人々は、馬場瀬神社の祭神は水神である罔象女神(みずはのめのかみ)、合祀されている像はいずれも河童であり、田主丸地方の河童信仰の源は、この馬場瀬神社に遡ると信じておられる。

馬場瀬神社の神々は水天宮と同じく、元来平家の味方であった肥後の菊池氏が、平家没落の後、その亡魂を慰めるために肥後菊池に祀ったのだという。菊池氏没落の後、一族の分散に従って各地に分祀され、筑後川の流域の河童伝説と習合して、水天宮の主祭神「安徳天皇」脇士の二位の尼、河童等となって祀られているという。菊池一族が肥後菊池から浮羽地方に流れきて河童伝説を広めたとされる。

とくに、筑後川上流の浮羽町妹川谷には、水神・水天宮の伝承が残されている。この地の水神=河童信仰を特徴付けるのは、巨瀬入道の信仰である。田主丸町では、巨瀬川の馬場の瀬に住んでいたという河童の頭目を、巨瀬人道、あるいは「九千坊」と呼んできた。

(浮羽町妹川樫ケ平の高西郷水天宮については後の別稿にて紹介)

042-11

 

巨瀬人道は九瀬(こせ)入道とも書く。平清盛入道が九瀬入道となり、「水神」、「牛馬の守護神」として霊現するのが庄前(しょうのまえ)神社である。この庄前神社は後の久留米水天宮と連係し、水天宮の先発水神社となる。この神社についても、後の別稿にて紹介します。


042-12

九千坊が肥後系の河童の頭目である事は、肥後の伝説からきている。
河童伝説は熊本菊池まで遡(さかのぼ)れるのだが、田主丸の人々は、ここ田主丸が本家本元と信じておられるようだ。しかも、河童の実態が漠然としたままである。河童は水害等を起こし、村人に悪さをする伝説の水性動物だと。
しかし、実は、河童伝説は4世紀の三国時代で、場所は熊本県八代市に行き着くのである。
熊本県八代市の球磨川河畔に河童渡来の碑があり、「河童渡来之碑」と刻まれた石碑がある。碑文によると、仁徳天皇時代(313~399)に中国から「九千匹」の河童が揚子江(長江)を下り、黄海を経て八代に上陸したとある。



5.河童と橘族と匈奴物部

ところで、「古代史の復元」シリーズ 1 『倭人のルーツと渤海沿岸』 佃 収 著作で『後漢書』には、檀石槐が魚を獲るために倭人を捕らえて連れていくという記述がある。


光和元年冬、又寇酒泉縁辺。(中略)不足給食。檀石槐乃自徇行、見鳥集泰水。廣従数百里。水停不流。其中有魚、不能得之。聞倭善網捕。於是東撃倭人国、得千餘家。徒置泰水上。令捕魚以助糧食。   『後漢書』
(訳)光和元年(178年)冬、又酒泉の縁辺を寇す。(中略)食を給するに不足。檀石槐は乃ち自ら徇行(じゅんこう)し、鳥集泰水を見る。廣さ、従(たて)数百里。水は停り流れず。其の中に魚有り。しかしこれを得ることあたわず。聞く、倭は善く網をもって捕えると。ここに於いて東に倭人国を撃ち、千餘家を得る。徒して泰水の上に置く。魚を捕えさせ、以て糧食の助けと為す。

178年、檀石槐は西方の酒泉の縁辺を攻めていたが食糧が不足したので、川の中の魚を捕るために倭人を襲い、千余家を連れて帰り、魚を捕らせたという。「東撃倭人国」とあるから倭人国は東にある。また魚を捕ることが上手な倭人と書かれているから東夷の倭人であろう。


川の中の魚を捕る倭人も河童族に当てはまるのであろう。
河童は筑後川・巨瀬川で川魚業を生りあいとする人達で、田主丸の鯉とり「まぁーしゃん」こと上村政雄さん(橘族)に代表されるのである。
鯉とり「まぁーしゃん」の鯉の手づかみ漁法は有名で、水中深く居る鯉を潜って手づかみし水面に上がって来て、陸に放り投げされるのである。私が小学生5年生の冬の時、筑後川原で遊んでいた時、ちょうど、鯉とり「まぁーしゃん」の鯉取りの実演が恵利堰で披露されていた。随伴船に乗せていただき鯉つかみの実演を見せていただいた。冬の寒い中、鯉を胸に抱き水面に上がってこられ、私たちの船に鯉を投げこまれる姿は圧巻であった。よき体験をさせて頂いたと思っている。


042-13

田主丸町誌に上村政雄さんの鯉捕りの極意が述べてある。


心を鎮めて、鯉の群れが動き出さない速度で近づき、拾うようにして一尾一尾群れから抱き取っていく。それが鯉抱きの秘訣である。数尋の淵の奥に佇(たたず)んでいる寒鯉は、静かに忍び寄っていくと、肌の温もりを慕うかのようにやわやわと寄り添ってくる。洞の奥にいる鯉は、右手を頭に、左手を尾に添えて、徐々に引き寄せる。鯉が嫌えば、手を放して好機を待つ。鯉はいったん抱き止められると、ぴったりと体を合わせ、じっとして動かない。魚に心を寄り添わせながら、ゆるゆると川面へと昇って行く。この時、小さい鯉は水平に、大きな鯉なら垂直に抱いて、魚の頭が自分の顎の下に挟まるようにする。おとなしくしていた鯉も、水からあげようとする瞬間に突然跳ねて逃げる事が多い。だが、そのように身拵(みごしらえ)しておけば、決して逸する事はない。そう、まあしゃんは語っている。
筑後川は、日田より上に遡ると、大山川と玖珠川の二つの大きな流れに二分される。まあしやんは、時折、玖珠川を遡り、大分県玖珠郡玖珠町の北山田付近まで「遠征」して鯉を捕った。例えば、昭和22年(1947)9月2日、35歳のまあしやんは、北山田の三日月の滝のやや下手で、全長約95.4cm、重さ約10.7Kgの大鯉を仕留めた。大分県側の川漁師たちは、まあしゃんの漁果を見て震え上がり、まあしやんを大分県下の川から締め出したばかりではなく、まあしやんを雇って鯉捕りをした者にも罰金を課す事を決定したと言われる。
まあしやんの「遠征」は、まるで万能の通力を備えた一匹の大河童が悠々と筑後川を遡上していく様子を見るようではないか。


古代、筑後耳納山麓一体に展開した民族は橘族に限らず、トルコ系匈奴を主とする物部氏族も共同共生の存在であった。
田主丸町二田、石垣に展開する二田物部は優れた技術を西アジアから持ってきている。石垣組等の土木技術、現代建築に採用されている軸組み木造家屋、製鉄、そして農業面では瓜等の野菜、ぶどうの持ち込みを行なっている。さらに筑後川上流に上がると、吉井物部の郷があり、その浮羽の山間部にはいると、浮羽町の山奥の新川地区、妹川地区で密かに製鉄と武器の製造が行なわれた。
その新川地区には「姫治 ひめはる」があり、高御魂神社(妙見宮)が、更に山奥の柚木地区には祭神不明の老松神社が鎮座する。妹川地区では前述の高西郷(こせのごう)水天宮と古い大山祗神社が鎮座する。
河童の言葉に「川立ち」があり、川仕事であるが、川漁をするのでなくて、川の鉄資源を採集することであると云う。
私が小学生の頃、夏休みには近くの筑後川によく泳ぎにいった。当時、小学校にはプールはなく、休み期間中、日中は筑後川で泳ぐのが日課であった。その筑後川の砂洲に、よく砂鉄がいさっている(沈殿)のを見かけた。古代人も、この砂鉄を採集し製鉄したのであろうか。
合所ダムに沈んだ姫治地区には、「○多々良」の地名が多くあったと云う。
冬場の北風が吹き、一酸化炭素を山上に吹き上げ、中毒者を出さずに効率良く製鉄ができたであろうことは山の位置・地形から想像できる。その新川には妙見宮が鎮座する。浮羽物部は天御中主(妙見様)を奉斎する氏族であった。

次回は熊本県八代に飛び、河童渡来と橘族の故地と宮原一族を紹介します。