宮原誠一の神社見聞牒(033)
平成29年(2017年)11月13日

 

No.33 大国主を祀る桂川町土師の老松神社⑨


1.福岡県嘉穂郡桂川町土師
土師の老松神社がある桂川町は平成の市町村合併で隣接市町、飯塚(いいづか)市とも、嘉麻(かま)市とも合併していない。嘉穂(かほ)郡に一町取り残された形になっている。合併しなかった理由は、地域柄が違う、人柄の気風が合わないとか色々あるようです。私が住む三井郡でも、浮羽郡でも同じような話を聞く。
ここ桂川町は遠賀川の上流域にあり、奥筑豊にあたり、南には古処山、屏山、馬見山を仰ぐ。この町一帯周辺には、地名に「出雲」があり、王塚古墳(物部氏の色濃い傾向)があり、大国主、事代主を祀る神社がみられ、古代の大国主王国あるいは「ヤマタイ・・・」を思わせる趣がある。
しかし、BLOG「地図を楽しむ・古代史の謎」によると、「古墳時代の集落跡がほとんど見つかっていないのです。僅かに古墳時代の遺跡が土師(はじ)地区で発掘されています。」といわれる。大国主が国譲り交渉後、関東に進出されて、空白が生まれたのであろうか。
その前の時代に、大国主、事代主が居住されていたのではないかと思わせる由緒を持った神社がある。桂川町土師の老松神社である。

 

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1.碓井村 2.千手村 3.足白村 4.宮野村 5.熊田村 6.大隈町 7.稲築村
8.庄内村 9.頴田村 10.笠松村
11.飯塚町 12.二瀬村 13.大谷村 14.鎮西村 15.穂波村 16.大分村
17.上穂波村
18.桂川村 19.内野村 (現在 紫:飯塚市 桃:嘉麻市 青:桂川町)

 

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2.桂川町土師の老松神社
土師の地域は広く、上土師、下土師、土師1~7と多くの行政区を持ち、老松神社は下土師に鎮座する。主祭神は大国主、追祀神・大物主、事代主、菅原神、吉祥女で、当初は大国主を祀る古宮があったと云う。

 

老松神社 福岡県嘉穂郡桂川町土師3161

 

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主祭神 大国主神
祭 神 大物主神、事代主神、菅原道真神、吉祥女
境内社 菅原神社、大山祇神社、興玉神社、福部神社、貴船宮
由 緒(案内石碑)
創建年代詳かならず。社の記録に依れば遠く神代の昔、大己貴命、少彦名命と戮力一心、天下を経営給いし折り、吾西海下り蹕(ひつ)を此の土師の地に暫く駐(とど)め給いしと云う。
後、人皇11代垂仁天皇の御宇、出雲の國の造、野見宿禰埴輪を造りて、殉死の者に易ゆるの功を賞して、土師臣の姓を賜い、又諸国に於て鍛地(かじち)を賜うや、当庄をも其の一つに加え宿禰に賜う。
されば、出雲より土師連来たりて当庄を領し、出雲杵築の大社に鎮座の大国主命(大己貴命)を神代の時、暫く蹕(ひつ)を駐(とど)め給いし地に勧請して、土師宮と称し齊き祀る。これ当社の濫觴(らんしょう・初め)なりと。
その後、大物主神、事代主神を合祀せし処なるも年代詳かならずと云う。
後一条天皇、万寿元年(1024)土師庄を太宰府天満宮に寄附せられ、神領となし給うに及び土師宮の相殿に菅公、吉祥女を勧請して、御社号を老松大明神と改め、土師庄12ヶ村の総鎮守と定め給う。されば、世々武将武家の崇敬篤く、社領も多く、祭礼も賑々しく、御繁栄の神社なりしと云う。降りて、天正年間、豊臣秀吉公九州征伐の折、当神社秋月種寶に属せしに依り、神領を没収せられ、御繁栄の当神社も祭礼の多くが頽廃するに至る。その後、土師のみの氏神として幾度かの再建を経ながら四季の祭礼は継承されて今日に至る。

 

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出雲より土師連来たりて当庄を領し、出雲杵築の大社に鎮座の大国主命(大己貴命)を神代の時、暫く蹕(ひつ)を駐(とど)め給いし地に勧請


土師連が出雲より来たりて当庄を領した。その土師の地は、往古、「大国主が暫(しばらく)く蹕(ひつ)を駐(とど)め給いし地」であるという。つまり、天皇が幸行の時、大国主が先払いし、しばらく留まった地であると云う。そこに、出雲大社の大国主を勧請したと云う。
大国主が仕えた主人は、ヒミコ、懿徳天皇、孝霊天皇である。その頃、天皇の幸行先の地ならしをしたのであろうか。その地が土師の地である。そこに、後に、大国主を祀る祠が建立されたのであろう。出雲大社の大国主を勧請する必要もない。もともと、大国主は九州北部の人であるから。
それをほのめかす由緒が福岡県神社誌に記載されている。

 

往古、出雲国より土師氏の人来たりて、初めて、隣村、平塚村に居住し、後、ここに移住して近村を取り込み、村名を土師といい、その地を「御所原」といっていた。
 

出雲国から来た土師氏は隣村、平塚村にしばらく居住している。平塚村は八大龍王・豊玉彦を祀る橘族の村である。その村に土師族は厄介になっている。もともと、土師族のご先祖は豊玉彦(橘族)であるから、もっともである。後に移り住んだのが、今の土師村であり、往古は「御所原」といっていた、と云う。
そこに宮があり、大国主を祀っている。由来記は「大国主を祀るのが不思議であるから、出雲大社の大国主を勧請したのであろう」と云っている。
もしそうであれば、土師族が移ってきた時期は、出雲大社が出来た後のこととなる。時期が合わず、移住してきた時期が遅すぎる。

その後、大物主、事代主を合祀したが、年代は詳かでないと云う。
また、その後、万寿元年(1024)大宰府天満宮領となった時、菅原神と吉祥女を境内合祀し、社号を老松神社と称した、とある。それまで、土師族は古宮の「大国主○○神社」を祭祀していたことになる。「大国主を祀っている不思議な宮があった」と云っているが、何という宮と称していたか、興味のあるところである。

 

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また、神社案内由来記で、
 

垂仁天皇の御宇、出雲の國の造、野見宿禰埴輪を造りて、殉死の者に易ゆるの功を賞して、土師臣の姓を賜い、又諸国に於ける鍛地(かじち)を賜うや、当庄をも其の一つに加え宿禰に賜う。


とある。
垂仁天皇の御代、野見宿禰(土部壹佰人)が、被葬者を古墳に埋葬する時、民を殉死者として、体半分を立った状態で埋め込むが、これを取りやめ、人形の埴輪(土物)を代わりすることを提案して犠牲者を無くしている。この功により、諸国の鍛地(かじち)を賜うとある。そして、本姓を改め「土師臣」となり、土師連の祖となっている。
この鍛地が、後の天満宮領が増える下地となったのであろう。製鉄により鍛地が多いのが熊本県である。熊本県では菅原神社が多いが、この理由からきているのであろうか。

 

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「大物主、事代主を合祀したが、年代は詳かでない」と云う。
この地域はよく、大国主、大物主、事代主の三人が揃ってよく祀られている。大物主、事代主は大国主の義理の息子である。土師の南の弥山の内山田には、事代主を祀る天(てん)神社が鎮座する。
市杵嶋姫は天忍穂耳命と離縁され、大山咋を連れ子に大国主の妃となられ、大山咋は大国主の義理の息子となられる。
事代主も同様に、豊玉姫は彦火々出見尊と離婚され、事代主を連れ子に大国主と再婚される。そして、名前を田心姫と改められる。大国主とその義理の子・少名彦は共に筑豊一帯(豊葦原国)の国造りに尽力される。少名彦は後の事代主(ことしろぬし)である。
大山咋、事代主は共に連れ子であり、大国主の義理の息子達といえる。
ここに三人の大物主が誕生する。
一般に言われるような大国主は大物主ではなく、大物主は大山咋である。
百嶋神代系図では、この三人の関係を次のようにいっている。
大国主を「義理の大物主」、大山咋を「真の大物主」、事代主を「代理の大物主」と。

 1.大国主 大己貴・八千矛神 義理の大物主 武蔵大國魂神・大神(おおが)大明神
 2.大物主 大山咋・天葺根命 真の大物主  大神(おおが)大明神
 3.事代主 一言主・恵比須神 代理の大物主 大神(おおみわ)大明神



3.平塚・八大龍王宮 福岡県飯塚市平塚(嘉穂郡上穂波村大字平塚字本村)
祭神 豊玉彦

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福岡県神社誌には水祖神社と記載されており、現地にいってみると「八大龍王宮」であった。八大龍王宮は公的には秘密にされた神社であった。平塚村は八大龍王・豊玉彦を祀る橘族の村であると言える。

 

4.土師・老松神社の秋祭り
福岡県嘉穂郡桂川町土師3161  2017年(平成29年)9月23日

獅子舞組出発

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土師の獅子舞
約680年前(嘉暦3年1328)から受け継がれてきた獅子舞が4月と9月の大祭で奉納される。五穀豊穣と家内安全を祈願したのが始まりといわれ、雄と雌の2頭の獅子が中国大陸を出発して荒れ狂う東シナ海の荒波を越え日本に渡り、老松神社にたどり着く様子を大胆かつ優雅な舞いで表現している、という。また、上土師地区と下土師地区が1年ごとに交代で受け持つ。
土師の老松神社の獅子舞は「雄雌2頭の獅子が中国大陸を出発し、東シナ海の荒波を越え日本に渡り着く様子」を表現しているという。まるで、呉人あるいは大幡主ご一統が東シナ海を渡り、九州の熊本苓北或いは八代に着いた故事を、豊玉彦を祀る八大龍王宮が鎮座する平塚村の橘族村民から伝承したのであろうか。

 

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