その4 沈まぬ太陽 吉永小百合

転寝から目覚めて掃除や片づけをする元気なく、今までに何度もブログしたが
本日ドラマ沈まぬ太陽と原爆関連の吉永小百合の記事を見つけ感動したため今の気持ちをアップします。

先ずは
ちょっとハードな内容だが、まもなく来週金曜日は、1985年8月12日に日航ジャンボ123便が墜落して31年
このドラマでも、その事件の補償問題やエアライン建て直しの問題に直面の付近!!なかなかいいドラマに仕上がっています。

ちなみに今年から山の日が祝日となるが当初は8月12日を予定、群馬県生まれの首相小渕恵三(在任中の2000年に急死)の娘らが
日航機事故の日を祝日にすることに反対、8月11日が祝日となった。

Wikipediaからコピペ:
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日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日月曜日18時56分に、東京(羽田)発大阪(伊丹)行同社定期123便
ボーイング747SR-100(ジャンボジェット、機体記号JA8119、製造番号20783[1])が、群馬県多野郡上野村の
高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)[※ 1]に墜落した航空事故である。

運輸省航空事故調査委員会による事故調査報告書[2]によると、乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、
生存者(負傷者)は4名であった。死者数は日本国内で発生した航空機事故では2015年8月の時点で
最多であり、墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多である[※ 2][※ 3]。

夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。
特にこの事故を指して『日航機墜落事故』[3]『日航ジャンボ機墜落事故』[4]と呼ばれることもある。

1987年(昭和62年)6月19日に航空事故調査委員会が公表した報告書では、
同機が1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故(後述)後の、
ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。
これをもって公式な原因調査は終了している。航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが[5]、現在に至るまで行われていない。
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20話の放送予定のうち
今夜の放送予定は13話

12話を見ながら国の権力と一国一城の主の選択の重要さを考えさせられました。









連続ドラマW 沈まぬ太陽 全20話

WOWOW プライム毎週日曜よる10:00(全20話) 第1部・第1~8話/第2部・第9~20話

8/7(日)よる10:00 第13話放送予定

番組紹介/解説
山崎豊子の最高傑作を初のテレビドラマ化。未曽有の航空機墜落事故という悲劇の裏で信念を貫いて巨大組織に生きる者たちを、WOWOW史上最大のスケールで描く。
『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』『大地の子』『運命の人』など、誰もが知る名作を世に出した、日本を代表する作家・山崎豊子。その多くが映像化されている中で、長年テレビドラマ化不可能とされてきた傑作小説『沈まぬ太陽』(新潮文庫刊)をドラマ化。
『沈まぬ太陽』は単行本・文庫本の売り上げが累計700万部を超え、数ある山崎作品の中でも最もヒットした大ベストセラー。連続ドラマWでは過去最長となる全20話で構成し、アフリカ・中東での海外ロケなどかつてない規模での製作に挑んだ。
脚本は2014年放送の大河ドラマ「軍師官兵衛」後、初となる前川洋一、監督は「連続ドラマW マークスの山」「連続ドラマW 下町ロケット」の水谷俊之、鈴木浩介が担当。そして、主人公・恩地元を演じるのは1995年に放送されたテレビドラマ「大地の子」で新人ながらも主人公を演じ一躍脚光を浴びた上川隆也。20年の歳月を経て、山崎豊子作品の主役に再び挑む。さらに、そのライバル行天四郎役に「連続ドラマW 翳りゆく夏」での熱演も記憶に新しい実力派俳優の渡部篤郎。そのほか豪華なキャストが多数出演する。
2016年に開局25周年を迎えたWOWOWが、ドラマW史上最大規模でお届けする「沈まぬ太陽」。ぜひご注目いただきたい。

<ストーリー>
国民航空の労働組合委員長・恩地元(上川隆也)とその同志で副委員長の行天四郎(渡部篤郎)は、劣悪な労働環境の改善を目指すが、経営陣と激しく対立。それでも空の安全を第一に考え、時に愚直に行動する恩地は、次第に経営幹部に疎まれ、海外の僻地へと左遷されてしまう。一方現実主義の行天は恩地と決別し、会社上層部に取り入りながらも自らの理想の会社像を追い求め出世していく。
やがて、空の安全を軽視した国民航空は大型旅客機の墜落事故という未曽有の惨劇を引き起こす。日本に戻っていた恩地はご遺族係となり、遺族たちの深い悲しみと真摯に向き合う。そんな中、日本政府は国民航空の建て直しのため、関西紡績の国見にトップ就任を要請。会長に就いた国見は恩地を会長室部長として呼び寄せ、組織にはびこる不正の数々を調査させる。恩地は失墜した会社の再生を信じて奔走するも、その前に立ちはだかったのは常務にまで上り詰めた行天だった――。

<第1部ストーリー>
1961年。日本を代表する企業・国民航空に勤める恩地元(上川隆也)は、労働組合委員長・八馬(板尾創路)から次期委員長を押し付けられる。不本意ながらも任に就く恩地だったが、同期で副委員長の行天四郎(渡部篤郎)とともに、労働条件をめぐり堂本取締役(國村隼)ら経営陣と激しく対立する。そんな中、人員不足による整備士の死亡事故が発生。劣悪な労働環境がただされなければ“空の安全”を守れないと信じた恩地は会社始まって以来のストライキを断行し、会社側の譲歩を勝ち取る。しかしその後、恩地は報復人事ともいえるパキスタン・カラチ支店への転勤を言い渡され、妻・りつ子(夏川結衣)や子どもを置いてひとり海外へたつこととなる。一方、かつての同志・行天は恩地ら組合側と手を切り、労務担当幹部に取り入りながらも自らの理想の会社像を追い求めることを決意。僻地へ飛ばされた恩地と出世を選んだ行天。2人の運命が大きく動き始める。

<第2部ストーリー>
1985年、ホテルの大広間で国民航空創立35周年記念パーティーが盛大に行なわれていた。社長・堂本信介(國村隼)、行天四郎(渡部篤郎)らが政財界の大物たちを出迎える中、会場には約10年の僻地勤務から日本に帰任していた恩地元(上川隆也)の姿があった。パーティーのさなか、国民航空の大型旅客機がレーダーから消えたという一報が入ってくる。すぐに現地へ向かった恩地だが、事故の惨状を前に呆然と立ち尽くすしかなかった。程なく恩地は、乗客の家族の“お世話係”となり、遺族たちの深い悲しみに真摯に向き合っていく。
一方、日本政府は国民航空建て直しのため、関西紡績の国見正之(長塚京三)にトップ就任を要請。会長に就いた国見は徹底した“空の安全”を実現するため「会長室」を設置し、恩地を部長として呼び寄せる。社内にはびこる不正の数々を調査し始めた恩地の前に立ちはだかったのは、常務にまで上り詰めた行天だった…。



もう一つは吉永小百合

Non-Sugar Kirin 日本のお茶とケーキをいただきながらアップでした。





日刊スポーツ 吉永小百合

我輩の中高大時代はサユリストそして少し大人になってコマキストでした。
そして日活の青春ものに憧れていました。恋していました。
ワイフに知り合ったのがコマキストの時代です。
一緒に何度か労演の舞台を見に行きました。
1mくらいから見る栗原小巻
当時は綺麗だった!!

生涯独身はもったいないです。

ちょっとサービス情報:熱狂的な男性ファンが多く、吉永小百合ファンが「サユリスト」と呼ばれたのに対し、栗原小巻ファンは「コマキスト」と呼ばれた
(奇しくも吉永とは生年月日が1日違い)。アイドル的存在として人気を二分したが、中年以降、吉永が映画を主軸に据えているのに対し、
栗原は舞台を主軸としている。

さて吉永小百合、彼女も71歳 我輩より1つ上だけだが人生は何倍も濃く生きています。
さすがに手や首お顔には年齢が見えますが!!

毎年ながらのトークショーの記事 日刊スポーツコピペです。

吉永小百合「戦後が続いてほしい」平和への思い語る
[2016年8月7日18時27分]

トークショーで平和の尊さを訴えた吉永小百合


 女優吉永小百合(71)が7日、東京・東池袋の新文芸坐で行われた「第五回新藤兼人平和映画祭 映画が描いた原爆の悲劇」でトークイベントを行った。

 この日は広島を舞台に原爆を描き、吉永と渡哲也(74)が主演した映画「愛と死の記録」(66年)と、原爆が投下された長崎を舞台に描き、昨年公開された主演映画「母と暮せば」が上映され、吉永が広島と長崎の原爆や戦争について思いを語った。

 吉永はトークの中で、オバマ米大統領が5月に広島を訪問し、原爆資料館を訪れたことについて触れた。「オバマさんがいらして、たくさんの人が史料館に行くようになったとニュースでも見ました。本当の意味で、核兵器がなくなる日を、みんなで作り上げていきたいと思っています」と訴えた。

 オバマ大統領は原爆資料館で自ら希望し、展示された1羽の折り鶴を身をかがめて観察したという。その折り鶴は、広島で被爆して白血病を発症後、病床で8カ月間折り続け、55年に12歳で亡くなった、佐々木禎子さんのものだった。

 吉永も、佐々木禎子さんとは深い縁があった。81年のNHKドラマ「夢千代日記」で原爆症を発症した夢千代を演じた際、被爆者団体の人から原爆詩の朗読の依頼があり、86年に東京で開かれた平和集会で朗読して以来、ライフワークとして続けている。

 その朗読を97年に「第二楽章」(広島編)としてCD化したきっかけになったのが、米のピアニスト・ジョージ・ウィンストンがギターを演奏し、佐々木禎子さんの詩を英語で紹介した米国のCDだった。「詩に寄り添うように音楽を奏でた、本当にすばらしい作品。声高じゃなくて、本当に命と平和の大切さを訴えるものができないだろうか、という思いに駆られて『第二楽章』を作った」と明かした。

 吉永が「第二楽章」を作るきっかけとなった、佐々木禎子さんの折り鶴を、「第二楽章」のリリースから約20年後、オバマ大統領が広島を訪れた際、自ら希望して見学した。

 吉永は「禎子さんが、もし生きていらしたら私より2歳上。私たちの心にいつまでも残っていますし、オバマさんの胸にも世界中の子どもの胸にも残る人だと思います」と語った。

 吉永はトークイベントの最後に、戦後71年目の夏を迎え、戦後という言葉が薄れている現状を憂え、原爆投下と終戦と同じ1945年(昭20)に生まれた人間として、戦争の悲惨さを語り継いでいくと誓った。

 「自分の年って、言いたくないですよね。だけど、45年に生まれたということで、私の年が『戦後何年』という年になっているというのは、とっても大切なことだと思っているんですね。ですから、私が幾つまで元気でいられるか分かりませんけれど、80になった時には戦後80年、90になったら戦後90年、100になったら…分かんないんですけれど、戦後100年と戦後(という言葉)が続いてほしい。そのためには、私たちが、やっぱり『戦争は、嫌だ!!』ということを、しっかり言わないといけない。思っている方たちは声に出して…と願っています」

 吉永が約40分のトークイベントを終えて外に出ると、劇場前には道路を埋め尽くすほどのファンが待ち構えており、池袋の街は一時、騒然となった。

4回目の休憩
午後7時半前


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