東京に帰って岡田は久しぶりに妻の病院を訪れた。
妻はベッドに座って、ぼんやり庭の銀杏の木を眺めていた。
「…ワコ」
和佳子は振り向いて、ビクッとした。
「ああ…。なんだ。准くん」
「なんだはないだろう」
岡田は苦笑して、窓の外を見た。黄色に色づいた銀杏の葉が綺麗だった。
「綺麗だね」
「でも、そばに行くと臭いの。潰れた銀杏の実がたくさん落ちてて…」
「…そう。ああ、そうだ。和佳子、その…駿作からの手紙、見た?」
和佳子は黙り込んだ。
「あの…まだ見てないかな?先生に預けたんだけど」
すると、和佳子はスッと引き出しを指差した。
「そこに…入ってる」
「ああ。読んでくれたんだ。…返事とか…もし、書けるなら…持ってくけど?」
「なんて書いたらいいかわからない」
「そんなの、なんでもいいよ。難しく考える必要ない」
和佳子はまた黙り込んだ。
「元気だとか、ありがとうとか…なんか…」
「元気じゃないし、ありがたくもない場合は…?」
岡田は思わず和佳子から顔を逸らした。目を閉じて、ふうとひとつ息を吐く。
落ち着け。
「ワコ…駿作は…」
「あなたと私と駿作の絵が描いてあった…。パパとママだって…ふふふ…」
岡田は眉をひそめた。
「何がおかしい?」
「…バカみたい」
岡田は耳を疑った。
「え?なんて…」
「アハハ…バカみたい…!」
和佳子は振り向いて、岡田を見た。
岡田は狂気の目を見つめ返した。
「和佳子…君が駿作を愛せないなら、俺は…もう君とはやっていけない」
和佳子の表情に変化はなかった。
「別れて欲しい。この通りだ」
岡田は頭を下げた。
すると、和佳子は笑った。
「ふふ…アハハ…!バカみたい!あなた、バカみたいよ!」
***
病室を出て、岡田は主治医と向き合って座っていた。
「今までは、妻を追い詰めた罪の意識と…なんだろう…」
岡田は膝の上に肘を乗せ、額の前で手を組んで言葉を探していた。
「責任感っていうのかな。そんなもので妻を見捨てるわけにはいかないと思っていました。微かな希望もあったし…。だけど…」
岡田は首を捻り、絞り出すような声で言った。
「もう…限界です」
組んでいた手を離して、抑えきれず、声を荒げた。
「もう振り回されるのはたくさんだ!俺だけならまだいい!駿作の存在を無視されることには耐えられない!彼女に駿作への愛が見られないことに…っ…もう耐えられないんです…‼︎」
岡田は歯を食いしばって、拳を口元に当てた。
目を閉じて眉間に皺を寄せる。
「岡田さん…」
「…すみません」
主治医は岡田の涙に胸を痛めた。
「もう別れたい。僕は妻を愛していない。さっき彼女に別れて欲しいと言って来ました」
「そうですか。それで…和佳子さんは?」
「笑ってました。俺のことをバカみたいだと言って…笑ってました」
主治医は気の毒そうに眉をひそめると、席を立った。
「ちょっと、和佳子さんの所へ行ってきます。しばらくお待ち頂いていいですか?」
「はい。すみません」
しばらくして、和佳子の元から戻って来た主治医の言葉は、岡田には信じられないものだった。
狂った妻の言うことだ。むろん真っ赤な嘘、あるいは妄想である可能性が高い。
バカみたい。あの人。自分の子供でもないのに。
和佳子がそう言ったというのだ。
「まさか…」
「でも、もし駿作君が本当にあなたの子でないのなら…」
「いや…でも…じゃあ和佳子は俺を騙してたってことですか?そんなこと…ハッ…」
あるわけがない。
「和佳子さんの方こそ、ずっと罪の意識に苛まれていた、とは考えられませんか?他の男性との間にできた子を、あなたの子だと偽ったことに、彼女は罪悪感を抱いていた。けれど、彼女はひとりで秘密の罪を背負って生きるほど強くはなかった。だから…」
「…精神を病んだ?」
「彼女が怖がっていたのは…いつかその罪があなたにバレること」
「そんな…」
「だって、成長するに従って駿作君はあなたではなく、相手の男性に似て来るんですよ?彼女だけが知っている本当の父親に…」
本当の父親だって?
岡田は首を振った。
やはりありえない。駿作が自分の子じゃないなんて。
「先生は、和佳子の言うことが本当だと思うんですか?」
「わかりません。でも、妙に腑に落ちるところはあります」
岡田は黙り込んだ。
「和佳子さんの言っていることが真実かどうか…確かめますか?岡田さん」