「結局、源氏は身代わりの若い女を抱いて、そこにあった人妻の衣だけを持ち帰るの。だから、空蝉って言うんだよ。女は抜け殻…つまり衣だけを残して逃げたから」
「なるほど」
条が腕を組んでソファにもたれた。宝も同じ姿勢で顎をさすりながら、
「そんなに嫌だったんだ…」
ってしみじみと呟いた。
俺は前かがみになって、膝に肘をつき、宝と条を見た。
「…なんで、女は源氏が夜這いに来たのにいち早く気づいたと思う?」
ふたりが怪訝な顔で俺を見返した。
「女は起きてたからだよ。源氏が泊まってると思うと眠れなかった。ってか昼間から、源氏が屋敷にいると思うと落ち着かなかった。
好きだったんだよ。源氏のことが忘れられなかった。
でも、受領の妻と光源氏じゃ、どうしたってうまくいかない。どうしたってうまくいかないのに追いかけるまだ若い源氏と、分別のついた大人な空蝉。そんなふたりの恋なんだけど…」
と、俺はそこで言葉を切った。
「実は、これは藤壺の宮と源氏の逢瀬のメタファーだという説もある」
「メタファー?」
宝が片眉を上げる。
「隠喩だよ。源氏物語で、究極の禁断の愛といえば、藤壺の宮と源氏なんだよな。で、ふたりの逢瀬は合計3回なんだけどー、実はその3回のうち、最初の逢瀬の描写だけが、なぜか、ない」
「え?そうなの?なんで?」
「あったのが無くなっちゃったのか、最初から書いてないのかわかんないんだけど、最初から書いてないとすれば、フィクションとはいえ、妃が帝を裏切る決定的な場面ってのは、ちょっと同時代の紫式部としては、書くのが憚られた、というふうにも考えられる」
「なるほど。帝を侮辱するような内容になっちゃうから?」
「そういうこと。だから、空蝉と源氏の逢瀬が、藤壺と源氏の最初の逢瀬の代わりとして読めるように書いた」
「へーぇ」
「空蝉を襲うシーンなんだけどさ、不自然なくらい源氏は前から好きだったと真心込めて言葉を尽くして口説き落とすんだよ。
で、空蝉の方も源氏の様子があまりに立派だと感じ入る。身分の違い、夫がいる、だから一線を越えてはならないと拒むけど、結局許してしまう。
だから、これを藤壺と源氏のやり取りと読み換えることができるんだよ」
「あぁ…いや、それ高度過ぎてわかんないだろ」
「ま、だから推察の域を出ないんだけどね。なんてったって一千年前に書かれた話だから」
「奥が深いな。源氏物語って」
「だろ?」
「普遍性があるんだろうね」
「何が?」
「え?」
「宝は源氏物語のどこに普遍性を感じんの?」
「どこって…」
宝が戸惑いながら、
「うーん…まぁ…結局一千年前も今も、女心は複雑でよくわかんない…ってとこ?」
って上目遣いで俺たちを見た。
「可愛いなぁ〜お前〜」
思わずそう言うと、条もニヤニヤしながら宝の肩を叩いた。
「そうそう、そうだよな、宝。女ってほんとわかんないよな」
「なんだよぉ〜」
バカにされたと思ったのか宝が照れくさそうに笑った。
その照れ笑いの表情といい、女心がわからないと素直に言ってしまうところといい…
いい大人の男になった宝の中に、そういう可愛いところを見つけると、俺と条は宝が愛しくてたまらなくなる。
「久しぶりに飲みに行くか」
条が宝の肩をポンと叩いた。
「行こう行こう。俺が女心を教えてやるよ」
「え?健くんが教えてくれるの?」
「そうだよ。少なくともお前よりはわかってるからね」
fin.
※あて書き源氏物語シリーズには剛源氏と藤壺の初めての逢瀬がありますが、『源氏物語』原文にはその場面はありません。