*本日2話目の更新です。
空蝉 六 夜這い からどうぞ。
「びっくりさせてしまったね。一時の戯れ心とお思いになっているのでしょう。そのお気持ちもわかるが…長年思い続けた私の気持ちも、わかって欲しい」
源氏は怯えている女に優しく話しかけた。
「このような機会をずっと待っていたのです」
その言葉は嘘ではなかった。
「…お慕い申しておりました」
源氏は切なげに女を見つめた。
ほの暗いとはいえ、男の目鼻立ちの美しさは女にはわかった。それになんと温かみのある優しい声。
光源氏その人であることは間違いない。
そして、ならば、一時の戯れ心であることも、間違いない。
だがしかし、源氏の上品な優しい態度に、とても「誰かある!」と声を上げるのも失礼な気がした。
「お人違いで…ございましょう…」
女はやっとのことで、そう言った。
愛してもいない老いた夫とはいえ、自分は伊予の介の妻。
たとえ光源氏であろうと、夫以外の男に身を委ねるなど、あってはならないことだ。
源氏は、うろたえてはいるが大きな声を出すこともなく、なんとかこの場を凌ごうとする女を可愛いと思った。
か弱いが、芯のある女だ。
「人違い?」
「…はい」
「どうしてわかる?」
「…え?」
「人違いだと、どうしてわかるのです?」
女は困惑して黙っている。
「あなたはご存知ないかもしれないが、私はずっとあなたを思い続けていたのです。間違うはずなど…ない…っ」
源氏はいきなり女をさらうように抱き上げて、立ち上がった。
女は驚きのあまり、声も出ない。
さっきまでの優しい態度からは想像できない大胆な行動であった。
「こ、これ!」
声を上げたのは女ではなかった。
振り向くと、慌てふためいてこちらへ来る人の姿が見えた。女が呼んでいた中将が戻って来たらしい。
女主人をさらおうとする男を引き止めようと駆け寄った中将は、しかし、そばまで来るとはたと立ち止まった。
暗闇の中で、嗅いだこともないような上品で艶かしい男の香が辺りに漂っていた。
このような香を焚きしめている人物が誰か、中将にはすぐにわかった。
源氏は女を片手で抱え、障子を開けると、振り向いた。
中将はとっさにその場に額ずいた。
女主人を守りたいが、相手が源氏では、どうしようもない。
源氏は中将を見下ろし、
「明朝、迎えに参れ」
と言って、障子をピタリと立て切った。