結局、方違えのために、源氏はごくわずかな供を連れて、紀伊の守の屋敷に泊まることになった。
紀伊の守の屋敷は、風情のある遣り水が配してあり、そのせいか風も涼やかだった。
虫の音がかすかに聞こえ、蛍も飛び交っている。
「いい所だね」
「突然のお渡りでなにぶん準備が整わず…。ただでさえ狭苦しいところへ、折悪しく、女どもが物忌みのためこちらに引き移って来ておりまして…」
紀伊の守は源氏の前に平伏した。
「女ども?」
源氏は首を傾げた。
「はっ。単身赴任中の父、伊予の介の妻と娘たち、それに女房どもでございます」
「伊予の介の妻というと…ああ、後妻か。そなたの継母にあたる方だろう。確か、わが父帝のもとに入内するはずだった衛門の督の娘…?」
「はっ。それが衛門の督が亡くなって後ろ見を失い、父伊予の介のもとに…」
「…そうか。父帝も、あの娘は結局どうなった?と気にしておられたが…」
父親が存命なら今頃後宮にいたものを、老いた受領の妻に身を落とすとは…気の毒なことだ。
「もともとご身分の高いお方なのだから、伊予の介は大事にしてるんだろうな」
「はっ。それはもう…」
源氏は、先日、雨夜に男たちがしていた話を思い出した。
受領の妻など、身分のそれほど高くない女の中に、かえって味わい深い、いい女がいるものだと。
ジジ…ッとかすかな音がして、燭台の火が揺れた。
「で、どんな方なの?」
源氏は顎から頬の辺りを撫でさすり、チラッと紀伊の守を見た。
「は?」
「そなたの継母というお方は」
聞いてから、目を伏せた。ふとよぎった邪な思いを気取られるまい、と。
「母と言いましても…私より歳若でございまして…///」
「へーぇ」
源氏は上目遣いで紀伊の守を見た。
というと…俺よりわずかに歳上という程度か。藤壺の女御くらいだろうか。
「老いた父が息子より歳下の妻を娶るというのは、いかがなものかと私などは思いますが…」
ははん。紀伊の守は、ひょっとしてこの継母に惚れてるな…?
源氏は口元に手をやり、片眉を上げた。
「しかし、だからと言って、あの好き者の…いや…風流人の伊予の介が、息子のそなたに譲るということもあるまい?」
紀伊の守はドキッとして、咳払いをすると話をそらせた。
「こちらが、その…弟でございます」
紀伊の守に紹介されて、ぺこりと頭を下げた少年は、もじもじと恥ずかしそうに源氏を見た。
「かわいいねぇ」
源氏は脇息に頬杖をついて少年を見た。
「父親の衛門の督が生きていれば、こちらも今頃殿上童だったかと」
「なるほど」
地味だが、殿上童として宮中にいてもおかしくない、品のよい顔をしている。
この少年の姉が、伊予の介の後妻。
姉もこれに似ているとしたら、美人だろうな。
我知らず少年の顔をジッと見つめていたのだろう。真っ赤な顔をした少年が源氏の視線に耐えきれずに俯いた。
源氏はフッと笑って少年から視線を外し、さりげない風を装って、
「で、その女たちはどこにいるの?」
と、辺りを見回した。
「皆下屋に下がらせましたが、まだその辺に残っているかもしれません。なにぶん狭苦しい屋敷ですので、失礼がございましたら、どうかお許しくださいませ」
「どんな失礼が…?」
源氏は首を傾げて、一段低い所に座っている紀伊の守を見下ろした。
「あ…いや…騒がしかったり…」
「かまわないよ。こっちが後から来たんだ。賑やかな方がいい」
源氏はそう言って微笑んだ。