※最終話です
やがて、ジョージは顔から手を離して、ふと何かを思い出したように顔を上げて女を見た。
「アイリーン…」
「なぁに?」
「あんたの名前どっかで聞いたことがあると思ってた…」
女は涙の跡が乾いたジョージの顔を見つめて首を傾げた。
「……?」
「そうだ!キャンディが言ってたんだ…!何百週も働いて、どの週も覚えちゃいない。でも、アイリーンって娼婦とやった日のことだけはよく覚えてる…そう言ってた」
「キャンディ?」
アイリーンは首を捻った。
「どんな人?…覚えてないわ」
すると、ジョージは眉尻を下げてハッと笑った。
「覚えてるわけないさ!キャンディってのは前に働いてた農場の掃除夫だ。そいつの若い頃の話さ。あんたはまだ生まれてない」
アイリーンを指差して、
「じゃなきゃバケモンだ」
と言った。
「ふふっ」
「名前が同じなだけさ」
「そう」
アイリーンはジョージの横顔を見つめた。
ジョージは少し驚いた顔をして、それから俯いて首を横に振った。
「男は肌の温もりを欲しがるけど…女に必要なのは、言葉よ。あったかい言葉!あんたの話、好きだわ。私」
「こないだは酔っ払ってた。正気じゃなかったんだ」
「…たしかにひどく酔ってた」
「だから…生憎…あんたにするような話は持ち合わせてないんだ」
「今日のところは?」
「いや、今日も明日も」
「……そう」
アイリーンは寂しげに俯いた。
ジョージは横目でアイリーンの表情を盗み見た。
アイリーンは子供のようにしょんぼりしている。
やがてジョージは唇を噛んで俯いた。それから、
「楽しい夜に…するんだったな」
と頭の後ろを掻いた。
アイリーンの顔がパッと明るくなった。
ジョージは自分の言葉に一喜一憂するアイリーンを見て、なんだかくすぐったいような気持ちになった。
何かアイリーンを楽しませるような話ができればいい。が、そんな話を思い出そうとすると、決まってレニーの顔が浮かんだ。
「昔はしょっちゅう怒ってた。いつもイライラしてたし」
レニーがいたからだ。
「最近は、怒ることもない。怒る相手がいないんだ。イライラもしない」
「いいことじゃない。じゃあ楽しいことばかり?」
「それが、そうでもない。たしかに怒ることは少なくなった。でも、笑うこともない」
「…でも先週は笑ってたわ」
「正気じゃなかったからだ」
「ねぇ…あんたを笑わせられるのは、その…あんたの恋人だった人だけなの?」
「…恋人?」
「そうよ。あの話をする相手。一緒に暮らす夢を見てた。彼女はウサギの世話をして、あんたの帰りを待つの。小さな家で。そしてふたりで大地の恵みだけ…」
「ちょっと待て!恋人なんかじゃない」
「え?だって…」
ハハハ…とジョージは笑った。
「恋人だって⁇」
レニーが恋人⁇レニーを女にしたところを想像してジョージは笑った。
「あんな大きな…赤ちゃんみたいな奴が…ハハハッ!」
「え?…」
ジョージは腹を抱えて笑った。戸惑っていた女もやがてつられて笑い出した。
ひとしきり笑ったあと、ふいに外から荷馬車の音や人々の声が聞こえて来た。
「…朝だ」
ジョージはベッドの上に脱ぎ捨てられていたスリップドレスを掴んで女に渡すと、自分はズボンを履いた。それからベッドを下りて椅子のところへ歩いていった。
椅子の背に掛けてあった肌着を頭から被り、シャツを羽織った。女に背を向けてボタンを留める。
女はスリップドレスを身につけるとするりとベッドを下りた。
ジョージはポケットからわずかなドル紙幣を取り出して数えると、振り向いて、近寄って来た女に渡した。
女は静かにそれを受け取った。
ジョージはくるりと女に背を向けると帽子をかぶった。
「もう…来ないの?」
女の声にジョージは帽子にやった手を一瞬止め、それから、帽子を目深に被りなおした。
「ジョージ…!」
アイリーンは駆け寄ってジョージの背中に抱きついた。
ジョージは突っ立ったままだ。
「…楽しいことが…あるといいわね。あんたにとって…」
ジョージは肩越しにちらっと後ろを振り返った。
「…もしも…来週…いや、もう今週?…もしも…楽しいことがあったら…もう一度ここに来ない?」
「……」
「そして、その楽しかったことを話して」
ジョージは黙っていた。
「お金はいらない。私を買わなくたっていいわ。だから…」
「……」
「ね?話してよ。…ジョージ」
ジョージはそっと抱きついているアイリーンの手をほどいた。
それから、振り返らずに歩き出してドアを開けた。
「ジョージ…!」
ジョージは振り向いた。目深に被った帽子のつばの下から上目遣いの瞳がのぞく。
「…楽しいことが…あったらな。アイリーン」
そう言って、ジョージはバタンとドアを閉めた。
END