目を閉じて深い吐息を吐いた後で、そっと女御から体を離し、しどけない格好のまま、そばの脇息にもたれて物思いに沈んだ。
帝は、昼間の源氏の君の様子を思い出していた。
源氏を臣下に下ろし左大臣家の婿としたのは、むろん源氏の身を守るためであったが…。
左大臣に売った、と言ったな…。
左大臣は、帝たる私の力が欲しい。帝たる私は、左大臣の力を必要とする。
双方の利害が一致したところに、源氏の婿取りがあったと…。
しかし、である。源氏にはまだわかっていないことがある。
ゆくゆく、実を取ることができるのは、一の皇子ではなく、源氏なのだ。帝というものは所詮、摂関家の傀儡に過ぎないのだから…。
「帝に…なりたかったか…」
我知らず呟いていた。
「源氏の君のことですの?」
「ああ…うむ」
「いつか、そんなことをおっしゃってましたわ。…一の皇子様と自分と、どちらが帝に向いているかと…」
「ふっ…。子供っぽいことを」
「まだ子供でいらした頃のことですもの」
「私のことをあんなふうに思っていたとは…。こちらはただ愛おしく思うばかりだというのに」
「…何かあったのですか?」
寂しげな帝の様子を見て、藤壺の女御は胸を痛めた。
「随分、不甲斐なく冷たい父だと言われたよ」
帝は、そう言って自嘲気味に笑った。
「まあ…。いったい何をもってそのようなことを…。本心であるはずがございませんわ」
女御は帝の手を取り、その顔を見上げた。
「まだ…上様に甘えたいようなところがあって、そのように心無いことをおっしゃるのです」
藤壺の女御の真剣な表情に、帝はふっと自分の方こそ、この年若い妃に甘えたいような気持ちになった。
「そうであろうか…?」
と首を傾げて藤壺の女御の髪を撫でた。それからその膝の上に頭を載せて横になった。
亡き源氏の母にそっくりな藤壺の、慈愛に満ちた顔を見上げる。
「左大臣の娘ともあまりうまくいっていないようなのだ」
手を伸ばして、自分を見下ろす藤壺の頬を撫でる。
桐壺の更衣が生きていたら、そのことをどう思うだろうか…。
「そう…。源氏の君は、お寂しいのかもしれませんわね」
そんな話をした数日後のある春の夜のことであった。
春の嵐と見えて、御所は夜半過ぎに激しい雷雨に見舞われた。
ちょうど淑景舎に宿直をしていた源氏の君が、
「何かご入り用とあらば…」
と、飛香舎の藤壺の女御を見舞いに来た。
取り次いだ王の命婦は、幼い頃から源氏の君をよく知っていた。が、久しぶりに直近で見る源氏の君の成長ぶりに思わず感嘆のため息をついた。
灯を灯らせたり、格子を下ろさせたり、キビキビと指図をする姿もさることながら、渡り廊下にまで吹き込んだ雨のせいで、わずかならず濡れている源氏の君の匂い立つような色香…。
御簾の向こうで畏まって控えている源氏の君の顎からポタポタと雨の雫が滴り落ちる。
激しい風雨と雷鳴に怯えて眠れずにいた藤壺の女御は、頼もしい源氏の君の出現に、内心ホッと胸をなでおろした。
が、王の命婦に丁重に礼を述べさせた上で、もう大丈夫だからお引き取りくださいと伝えさせた。
黙って王の命婦の語る言葉を聞いていた源氏の君は、しかし、立ち去らなかった。
「このようなときぐらい、直接お声を聞かせてくださってもいいのに…」
少年のときのままの声で、源氏の君がポツリと呟いた。