おなかのなかで起きてることを書ければ、それこそわたしのブログは本にしてミラノのリコルディに置くべきでしょうが、そんなことは難しい。わたしもそこまで意気込むほどじゃない。しかし、たとえ直感的にはあっても、いろいろなことをちょこちょこと書いていきたいとは思います。

 

しかしながら、いくつかのことはハッキリ言え、たとえばひとつ挙げるなら、いかなる意味でもおなかを下に押す感覚はないということ。

それはわたしだけが個人的に、ない、のではない。

最近チェドリンスが日本にきて生徒たちが衝撃を受けていたが、いかなる意味でもおなかを ウッ ととめてそこからさらに グッー と強く支えてく感覚 などあるわけない。

 

おなかはヴァイオリンで言えば弓。それは 表現のすべて だ。弦もすごく重要と言える。つまり弦とは歌手にとってはポジション、ポジショニング。でもどんないい弦を張っても弓の使い方がひどければ ギコーッ ってなる。

 

巨匠歌手はもっとも最善のポジションの声を、いかに横隔膜という弓で音楽的・芸術的に弾くか、しか考えてない。

 

むろん巨匠に習うほうはそもそも、弦のぶぶんで問題がある。

つまりアッポッジョ。柔らかに声を肺の中に安定してためてく方法がわかってない。したがって、「もっと横隔膜をうごかして外に空気をおくりいなさい!」 といいわれると、おおきな空気がとおって喉がダメージを受けるか、高音が悲鳴か絶叫になるか、あっというまに空気がなくなるか、、、。

 

一か月前の話だけどわたしはアルバニア国立劇場と「リゴレット」のモンテローネを歌った、そのとき、この劇場の第一ソプラノに

(30なかばで同い年くらいだけど)強い印象を受けた。で、お願いして、楽屋ですこしヴォカリーズをみてもらった。

肺に空気をためたあと、それをパッサッジョからアクートにかけてダイナミックにおなかを動かすのだが、強くしなやかな横隔膜の使い方なのだ。しかも深いところでそれが行われる。抜群の運動神経で、しかし深い倍音をつかまえてる。

このとき空気を貯め方が硬いとぜんぜんおなかが動かない。

 

少なくとも音を前にきれいにコペルトゥーラしていくようには

動かない。仕方ないので喉でやる、というわけにはいかない(いまどきのオペラ界で誰がその音を認めるだろうか)。ジラーレにしても、横隔膜ではなく、喉を中心にして弧を描く、風に考えられてる、それはジラーレではなくて喉を動かしてるに過ぎないわけだ。

 

おなかでまわす、という言い方も、納得できるようなできないような感じだ( 生徒にはよく言うが、じぶんで どういう意味? と思ってしまう)。まわす、というと余計な筋肉を巻き込むような気がしてしまう。重くなってしまうイメージ。

フライパンでひっくり返す、トランポリンを跳ぶ、というほうがまだ身体的な感覚には正確な描写だと思える( とくにパッサッジョからアクートはそうだ )。

というのも、おなかを動かすのにテンポが悪いと、この場合のテンポというのは速度ではなく「お笑いのテンポ」みたいなテンポのことだが、そのテンポが悪いとあっという間に横隔膜が固まる。横隔膜が動かないと、かなりまずい。喉でいくしかない。

 

ところで、なぜ下に押すのだろうか。押さなくてはいけないような状態をつくるのか?

空気を貯めるテクニックを知らないからだ。つまりマスケラの使い方を知らない。

おなかをいきんで空気がでないようにしてるのだ、でもそうすると永遠に喉は、硬く結ばれたままだ。

もっと悪いのは、吐くとき、その空気が出ないように吐くために、おなかを押しながら吐くことだ。

それは、恐ろしいほどに表現を狭めている。

間違いなく清潔な表現ではないし、感情もこもらない。

しかも苦しい。最悪である。

空気が密閉されたなかでおなかを使うとき空気圧が高まって肺が膨らむ結果、おなかが外側に排出=出る というのはむしろいい。

だが、腹筋を前に緊張させることで空気をコントロールする、つまり力でコントロールするのは、わたしの世代あたりで終わらせてほしい。