東京散歩・下石神井天祖神社 | ゆるゆるな毎日

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水曜どうでしょうやマンホール、キリスト看板などの趣味に走りすぎた日々を綴っています。

先日紹介した豊島橋の先のスクールゾーンの路地を散策では、

 

練馬区立下石神井小学校まで行きました。

前回写真が撮れず載せられなかったので、

 

児童がいない春休みを狙って撮ってきました。

 

 

学校のすぐ北側の交差点の角に、下石神井天祖神社があります。

鳥居とぐるりと囲んだ玉垣が立派。

 

せっかくなのでお参りさせて頂きました。

 

 

鳥居をくぐった左手にある電話ボックスの横には石碑。

「八紘一宇」と刻まれていました。

 

日本書紀に記されている神武天皇の言葉ですね。

 

本来はいい言葉だと思うのですが、

 

戦前に国威発揚のために使われてしまったので、

 

GHQが禁止した言葉です。

 

この石碑は、いつ建立されたのかなぁ…なんて思いました。

 

 

手水舎。

大木に挟まれるような位置にありました。

 

 

近づいて衝撃を受けました。

ビニールテープをぐるぐるに巻かれた水道管と蛇口。

 

ある意味斬新だわ…。

 

お水は蛇口をひねって自分で出して良いのかもしれませんが、

 

分からなかったので手水は省略してしまいました。

 

 

狛犬。

こちらは阿形。

 

 

吽形。

小さな狛犬も一緒でした。

 

 

社殿。

こちらは明治18年(1885年)竣工だそうで、

 

シンプルながら趣深い社殿でした。

 

こちらの神社の創建は、はっきり分からないそうですが、

 

文化7年(1810年)から文政13年(1830年)にかけて

 

編纂された「新編武蔵風土記稿」には、

 

「神明社、持前ニ同シ村ノ鎮守ナリ」と記されているほか、

 

明治7年(1874年)に刊行された「東京府志料」には、

 

「天祖神社 八雲淡島ノニ神ヲ合祀ス 社地二百四十九坪」

 

と記されているそうです。

 

つまり、江戸時代は神明社と呼ばれていたようですね。

 

名前が変わったのは明治の神仏分離とかの影響だったのかな?

 

 

賽銭箱と鈴紐も年季が入っています。

こちらも明治期のものかしら?

 

 

賽銭箱の上には神拝詞(となえことば)が置かれていました。

「祓え給い清め給え 神ながら守り給い幸え給え」と書かれています。

 

せっかくなので、この言葉を頭の中でとなえつつお参りしました。

 

 

社殿の横には八幡神社がありました。

こちらも古い建物に見えますが、社殿と同じ頃に建てられたのかしら?

 

 

八幡神社のお隣には赤い鳥居の稲荷神社。

こじんまりとした可愛いお社でした。

 

 

2つの境内社。

春の優しい木漏れ日が降り注いで、いい風情でした。

 

 

境内の東側には桜の木がありました。

昨年の春の景色です。

 

 

誰もいない境内で、桜も独り占め。

蕾もまだまだある頃でした。

 

 

お隣の木は玉になって咲いていました。

種類が違うのかな?

 

 

ところで、天祖神社って東京でよく聞くのですが、

 

ほかの地域ではあまり聞かなくて、何故なのか、ずっと不思議でした。

 

ちょこっと調べてみたところ、

 

八幡神と伊勢神宮を崇敬していた源頼朝が、

 

関東で伊勢神宮へ納める米などの作物をつくる土地を寄進した際、

 

ご祭神の天照大御神を祀る天祖神社や神明社を祀ったとありました。

 

また元亨年間(1321年~1324年)、

 

この地域を納めていた豊島氏が伊勢の皇大神宮の神様をお迎えした

 

というものも見つけました。

 

また別の地域では天祖神社ではなく神明社と呼ばれているようです。

 

確かに、東北にも神明社はありましたが、天祖神社はなかったなぁ。

 

 

そして世田谷の天祖神社さんのサイトによると、

 

元は伊勢宮という名前だったそうですが、

 

官国幣社以外の神社では「宮」の称号の使用が禁じられたため、

 

明治7年(1874年)に天照大御神の「天」と

 

氏神様(先祖神)の「祖」を合わせて「天祖神社」としたとありました。

 

なるほどねぇ。

 

こちらの天祖神社が「東京府志料」に書かれている年と全く同じ。

 

元々は神明社だったのに、天祖神社になったのも、

 

こういう事情だったのかもしれませんね。

 

 

 

今回のおでかけ

★下石神井天祖神社

  住所:東京都練馬区下石神井6-1-6

  拝観料:無料

  駐車場:なし

 

 

 

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