人生を最大限に味わうには、どうしたら良いか?それはフリーフォールのように運命に重力に身を任せることではない。それでは、生まれてきた意味が薄くなるだろうし、苦楽がない無味乾燥な人生になってしまうだろう。

 

上昇気流があれば風に乗り、様々な場所を自分の意思に訪れることができるだろう。しかしそれは、行きたいというターゲットとなる場所があって、そこに何が何でも行かなくては意味がない訳ではない。大阪に行こうと思って、和歌山に着いても、それは味のある旅ではないか?

 

拘るとしたら、自分のコントロール下に行き先を制御するのではなく、どこに行っても様々な経験ができると、物事に執着しないことに拘る。それは毎日、どうすれば意味を見出せるのか、頭で先を見通すのではなく、やってみた体験を通じて、どんな意味があったかを考える、そしてコンパスを見て、今自分がどこにいるかを確かめる。どこにいなければいけないとか、どこに向かわないといけないとかそういうものはない。でもどこにいるかを確かめられれば、次に選ぶ選択は自ずと見えてくる。その選択に拘るのではなく、次にできる体験に集中し、味わう。

 

視界が広く開けることもあれば、迷い道に迷い込むこともある。でも拘らないことに拘れば、変化も障害もさして重要ではなくなる。

 

人間は、パチンコ玉のように、落ちてゆき最後はTHE ENDになるのをできるだけ避けるように、落ちないで永久に止まっていられるポケットのようなところに入りたいのであろう。このパチンコ台にはそんな安全でかつ動かなくても良い場所はない。そんなところがどこかにあるとずっと探しても、いつまで経っても見つからないで、あっという間に命は尽きてしまう。

 

それは目的を定めて邁進すると、目的達成のみが重視され、そこに行き着く道のりでの体験は、軽視されるからである。それは、結局何も考えずにフリーフォールに身を任せるのと同じではないか?

 

玉が動いているのを、止まっている瞬間が連続しているように考えて、刹那の体験の連続を大切にしないといけない。刹那の体験に注目すれば、その玉がどの方向に向いていてもそこに意味を見出すことができる。どこかに向かっていることに意味を見出すのではなく、向かう過程に意味を見出せれば、何倍も人生を味わうことができる。時間のないアラカンにはそのメンタリティが大事である。

 

とはいえ、拘らないことに拘るのは簡単なことではない。それは①「諦める」ことが「生きる」ことと理解することである。一方で、②「拘る」ことが「生きる」ことであるのでなおさら難しいのである。

①は拘ることを諦めることで、体験重視の人生を送ることができるので、それが濃く生きることにつながるという意味である。

②は、ダンゴムシが人生の方向を変更して、自分の行きたい場所に近づくように、自分の人生を自分がやりたいようにデザインするために命の炎を燃やすことは、「生きる」ということであるからである。

 

①がファイナルアンサーだ!と気づいてはいるものの、②との葛藤は死ぬまで続くのであろう。