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人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体が武装するにはおよばない。わずかな蒸気、一滴の水さえあれば殺すことができる。

 

人間を葦に喩えたのは、人間個人の身体的な弱さを表している。実際に人類は、単独では大型哺乳類より弱く、それを槍と矢と投石機と落とし穴で対抗した。人間が協力し理性を使って工夫したために、他の種に打ち勝つことができた。だから精神や理性は、それ自身独立してあったわけでなく、身体を補助する、他の動物に勝つ武器として発達したのだ。

 

だから身体は精神と独立してあるわけでなく、精神や理性は身体を支えるものとして、すなわち身体の感覚器官の認識から生まれる欲(煩悩)を助長する存在として発達した。考える葦といっても、高尚な考えではなく、自分が反映し、自分の利になるための精神と言って良い。弱い身体を、理性から生まれた科学技術や社会システムで生活水準を上げ、生み出す価値を経済活動で大きくしていった。それを「弱い身体をカバーする精神」と呼ぼう。

 

一方で、我々の精神は「自分の欲を果たす」ためだけに使われているであろうか?そんなことはない。社会的な規範に基づいて、判断し行動したり、社会的な規範でなくても道徳的な善に基づいて行動したりする。すなわち人間としての強い慈愛(道徳)を支えるために、理性を使う精神が存在する。自分より家族、家族より共同体、共同体より国家、国家より人類、人類より地球の幸せを感がて行動する強い慈愛の元になる精神が存在するのだ。

 

この2つの精神はお互いに影響し合いながら、そのトレードオフに悩まされながら、人間は理性を使って行動を選択している。それを一つに考えるということは結局「煩悩即菩提」、「生死即涅槃」ということであろう。

 

有名な上記の一節に、私なら以下を足してみたい。

人間は一本の葦にすぎない。自然のなかでもっとも弱いものである。だが、それは考える葦である。これをおしつぶすのに、宇宙全体が武装するにはおよばない。わずかな蒸気、一滴の水さえあれば殺すことができる。

ある葦は考え、自分が生き残り繁栄する方策を考え出すだろう。だから葦は簡単には殺されないだろう。また自分だけなく、葦林全体が長く繁栄する方法を考え出すだろう。その葦がわずかな蒸気で殺されても、他の葦が生き残り、やがて葦の数は増えてゆくだろう。