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身体から精神への無限の距離は、精神から慈愛への、無限倍にも無限の距離を象徴している。なぜなら、慈愛は超自然であるから。   

─── この世の偉大のあらゆる光は、精神の探求にたずさわる人々にはいかなる輝きもない。

─── 精神の人々の偉大さは、王や富者や将軍など、すべて肉において偉大な人々には見えない。

───知恵でなければ無に等しい知恵の偉大さは、肉の人々にも精神の人々にも見えない。

これらは類を異にする三つの秩序である。

 

パスカルが考える3つの秩序は身体・精神・慈愛である。身体は、富や名誉を求めたり自分の欲を満足させるために素直に行動している人である。次に、理性に基づく精神を信条として、欲を求めるのではなく、自分が正しいと判断する道を理性で追求する人たちである。ここまでは自己のために行動を尽くす人間を表している。その上位には、自己を無にして他人のために行動するそういう慈愛をもつ人を表している。これらの秩序は、それぞれ全く次元の違う世界だと言っている。身体と精神の距離は無限で、精神と慈愛の距離は無限の無限倍だと言っている。すなわちその世界に所属する人は、さか立ちしても上位の世界には、分からないし見えないと言っている。

 

身体の世界は、仏教でも言っている身見のある世界、煩悩(欲)のみを追求する世界である。その上には理性をもち自己精神を秩序とする世界、仏教ではすなわち煩悩を克服した、世俗諦といえるであろう。そして慈愛の秩序とは、仏教では悟った人、無分別な智慧を持って慈悲を実践する勝義諦の世界ということになる。さてこの無限の距離をどう埋めるのか?そこに信仰というものを主張したいのであろう。

 

この距離がそもそも無いとしたのは、例えば親鸞だろう。「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をやとは」である。前回に説明した習慣すなわち念仏を使って、仏を引き寄せる。聖人でなくても善人でなくても悪人でも、いや悪人でこそこの世の偉大なあらゆる光に輝くことができるのである。

 

そこには身体と精神と慈愛を一つとする考え方があるに違いない。その距離が100万光年もあったら普通の人はだれも救われないことになってしまう。自利が利他に繋がる、仏教では身体や精神を労わることは、なにも利他(慈愛)と矛盾していないと説く。自分と相手は一つなのだ。

 

無我という考えは、身体も精神も無に近づけるという考えである。無に近づけるとは、背反する身体と精神を一つにするであろう。そして、それは身体でも精神でもない、慈愛との接点を最大化するものである、それが禅などの考え方になるのだろう。

 

別の言い方をすれば、身体の持つ不条理を反作用力として精神に傾ける。そうすれば身体と精神の方Win-Winの関係が生まれ、その積集合を慈愛に昇華することができるのであろう。「身体の持つ不条理」とは、自己の欲を追求することが、自分にとって不利になり害を及ぼすことにほかならない。例えば、エコな行動をしないでポイ捨てすることが、地球環境の悪化という自分の不利益に繋がるという具合である。そこには、自我が、自分自身だけでなく、パートナーと自分を含めた「我」とか、一族全体の「我」とか、日本人という共同体の「我」とか、人類という大我が存在した上で、有るものだという立体的な考え方がある。身体の「我」はその一部でしかないと考えれば、身体の追求に伴う不条理を解消するために、精神の世界を考えるべきであろう。

 

次は、精神の世界も不条理ばかりだというステージへゆく。自己のために、自我を持って理性で解決できることの限界である。「自分のために」「自分の力で」がどれだけの意味があるか?どれだけの問題を解決できるか?という話に行き着く。自分が制御できるのはごく一部だということが、仏教ではかなり強調される。諸行無常、諸法無我である。

 

世の中を流れに任せる、パスカルが言っている「超自然」とはそういうことではないか?神に任せると言った方がよいのかもしれない。そうして初めて、自利・利他ではない、慈愛が生ずる。無我が大事ということになるのであろう。パスカルは神に倣って信仰の世界に誘おうとしたに違いない。

 

このように身体・精神・慈愛の垂直的な関係性で、パスカルは人間の秩序を表現した。慈愛は、理性的な世界を上位に生まれたものとして考えている。でも実際は、慈愛は精神だけでなく身体にも近いところにいないか?人間は本能的な部分で、お互いに助け合い、集団にて力を発揮する能力を持っていないか? それが動物的な意味での、滅んでしまった他の人類とホモサピエンスの違いではなかったのか?犬が人間と同じようにオキシトシンを出して、人間との共感の世界を生み出す、それは身体的なところで、欲だけではなく、慈愛に繋がる側面を持っていないか?

 

身体と精神(理性)と慈愛は、縦の階層構造ではなく、お互いに関連付く円構造であると思う。身体は、欲の追求だけに造られたわけではなく、共存や共生のためにも造られている。植物が森で棲み分けるのも、ミツバチが役割分担して巣を守るのも、慈愛への方向性がある。それが超自然、自然の神秘である。人間もその一部であり他の動物と変わらない。理性を介してそれを理解することができるのが、人間ユニークのところである。もちろん簡単ではないが。先ほどの関連性で行くと、3つの秩序は円構造というより螺旋構造にあり、理性を介してそれを進歩させることができるのだと思う。それが動物にない人間の凄い点かもしれない。

 

ただ最近の世の中の傾向を見ると、ウクライナ問題など進歩する方向に進んでいるとも言えず、そこが難しいところなのだろう。