【觀邪見品第二十七】

「誤った見解の考察」と名付けられる第27章

 

27-13 如過去世中 有我無我見 若共若不共 是事皆不然

過去の世に、自我はあったまたは無かった、または、自我はありまた自我はなかった、自我はあることはなく、また自我はないこともなかった、どれも成り立たない。

27-14 我於未來世 為作為不作 如是之見者 皆同過去世

来世において、自我はあるのかまた無いのかという議論も、過去の世に自我があるのかないのかのと全く同様である。

 

ここでは、自我(アートマン)が過去から現在、現在から未来へ継承されるか?ということは、言葉では言い表せない、表現不能であると言っている。しかし、今までの考えからすると、自我はあることはなく、ないこともないと言っており、それが成り立たないとは言っていない気がする。論理的には、自我があることがなければ、「ない」ということで、「ないことはない」と論理矛盾するということであるが、実際は自我が「ある」と「ない」は不連続ではなく、その中間はあると思う。少なくとも現世の中で、過去の自分、現在の自分、未来の自分を考える上で、自我と無我の間に自分は存在している。

 

今の命が有るのは、過去世があったからであるという、生命の生起を輪廻を前提に考えているからそのような考えになる。個としてのアートマンが解脱するまで継承されるという考えである。そうではなく、命が生まれる毎に、大我(人類としての進化)が小我(個々の命)を産んでいるような、大我の一部としての小我の特性を把握し、自我が一過性のものであることの前提にたてば、自我と無我の間に自分は存在していることは、言葉でも説明可能かと思う。