【觀邪見品第二十七】

「誤った見解の考察」と名付けられる第27章

 

27-7 若離身有我 是事則不然 無受而有我 而實不可得

もし、身体を離れて自我があるとするならば、それはありえない。(身体への)執着がなくしかも自我があるというのもありえないからである。

 

27-8 今我不離受 亦不即是受 非無受非無 此即決定義
今自我は(身体への)執着から離れないが、また(身体への)執着そのものでもない。自我は執着がないわけでもなく、自我がないわけでもないということは決定される。

 

執着は幻である(一過性である)という仮定の元では、身体への執着によって生まれる自我は、幻である(一過性である)。しかし、自我が執着がないとないのか?といえば、十二因縁がいうように、執着より先に自我があるとすれば、自我が最初にあるということにもなる。しかしこれは鶏と卵の議論であり、どちらが先かが問題ではない。両方とも無自性ということである。

 

「自我は非無である」と言ったのは大事な点で、無我とは、我が全くないということではないのである。