「接触がなければ、感受はない」、それは当たり前のようである。ただ、「愛」に繋がるような偏見のある「受」は意図的な「触」であり、それは当然自分の意思で避けることはできる。

一方で、偏見のない「受」に繋がるような自然な「触」であれば、たとえば全くの不意打ちを食らったような「触」であれば、それは「受」に繋がらないと言える。その区別ができれば、前者は避けることができるかもしれない。

 

そのような取捨選択は、「観」の瞑想で、訓練することができるのであろう。すなわち前者の「触」を受け流すことができる瞑想だろう。そして、それに没頭できる環境とは、出家した状態、ということになるであろう。

 

自分のような、凡夫の身では、意図的な触を積極的に避けるようなそこまで自我をコントロールし、無我の実現を常に意識して行動するような、強健な精神を持っていない。また、普通の生活の中で、出家した人のような行動規範は、できるわけがない。

 

ヒントとしては、勿論瞑想を生活に取り入れるなどあるとは思うし、また執着の結果としての「触」ではなく、好奇心に基づく「触」を増やせば良いと考える。思えば、少年時代に遡って、好奇心に赴くまま行動し「触」から「受」に繋がったものは、ある意味偏見のない「触」であった。還暦前にして、「幼児の幸せ」に立ち返るということかもしれない。常に人生を開拓していれば、執着する暇はないのである。

 

こうしてあれこれ考えることもそれに当たると思えば、無駄な作業ではない・・・・と自己満足している。