輪廻転生を前提とした、十二因縁はどうも馴染めない。

そうではなく、今生における、苦楽の発生の説明に使う分には、非常にいいモデルだと思う。

すなわち輪廻即涅槃で、十二因縁は、輪廻を前提とした説明でなくても、適用できると考えればよいのである。

 

どういうことかと言うと、行とは業であり、無明を縁とする生前の(3代に渡る)業のことを言うが、ここでは、本能的な、遺伝的な無意識の形成、或いは「識」が芽生える前の教育や環境と考えればよい。すなわち人間はなにかの「意識」が芽生える前に、遺伝的、環境的な影響から、無意識を形成する。それが氷山の一角として意識として現れたのが「識」である。こう考えれば、別に輪廻を前提におく必要はなく、誕生後ならいつでも当てはまる。

 
今の自分にも当てはまって、「体がしんどい」という「識」が生まれたとして、業としては、「無理したくない」とか「助けてほしい」とかの無意識があり、本能的には、「自己防衛機能」が作動して、無意識世界で「体がしんどい、辛い」と思う訳で、また、同じ位の歳の周囲の人が「しんどい」とよく言っていれば、その影響で「しんどい」という意識が生まれるかもしれない。それは愚痴という無明があるわけで、無明が発端で、業(行)が生まれ、そして「識」が生まれるわけである。
 
そんな意識は、1日に何度を起きていることに、改めて気付かされる。
 
十二因縁では、そのような「識」が生まれた後に「名色」、すなわち「肉体と精神」が生まれる。これも輪廻の世界を前提しているように見えるが、ここでも敢えて、今生のケースが考えてみれば、「体がしんどい」という識であれば、そのような識を縁として、しんどいと感じる肉体とか、疲れている精神というものが認識されるのであろう。
 
ここで普通に考えれば、疲れている精神や肉体が先にあって、それが縁で、「識」が生まれるとならないか?すなわちまるっきり因果が逆転している。識→名色ではなく、名色→識ではないか?という疑問である。
でもよく考えてみよう。出発点は、「感受」でなく「無明」ではないか?
「無明」が出発点だから、間違って精神や間違った肉体が意識されるのだ。
それは、「つらい」から体が疲れているとか精神を病んでいるということではなく、「辛い」という意識の中で、肉体や精神を考えると言うことだ。
 
「心頭滅却すれば火もまた涼し」でもないが、無明や「つらい」と思う識を取り除けば、肉体が苦しいとか精神が苦しいということにならない、ということではないか?それだけの感覚をコントロールする能力を人間は持っているということではないか?