親鸞の言葉

 

善し悪しの字を知っている(分別できる)という者の様子は、大嘘つきの姿である、という意味である。

 

我々は、日々なにかをする都度に、そうしたらよいか、よくないか、値踏みし、判断しながら行動を選択し、過ごしている。生きるヒントを考えるのも出発点は、より賢く、今後生きてゆきたいというのが出発点である。

 

しかし、「仮」の考えはそれを否定する考えである。用意周到に、長期的視野、中期的視野、短期的視野から値踏みをし、行動の選択をすることは、決して賢いとは言えないといっているのが、「仮」の考えである。

 

人生の目的を見出して、そこに向かって演繹的、論理的に、計画を進めてゆく、それは傲慢というか、必ずしも正しいとは言えないというのが「仮」の考えである。

 

自分としては頭では分かっていても、そういう考えを認めたく無いという考えもある。今までの生き方と180度違うからである。

 

でも取り入れないといけない考え方には違いない。無分別の実践において、肝となるポイントに違いない。