【觀四諦品第二十四】 

「聖なる真理(四聖諦)の考察」と名付けられる第二十四章」

 

24-3 以是事無故 則無四道果 無有四果故 得向者亦無

このように智断修証がないが故に、その聖なる四つの果を得る者も存在しない。聖なる四つの果を得た者も存在しないのだから、またそれに向かう者も存在しない。

24-4 若無八賢聖 則無有僧寶 以無四諦故 亦無有法寶

聖なる果を得た者、向かう者の八つの賢聖人が存在しないとすれば、すなわち僧や教団は存在しないことになるであろう。また四つの聖なる真理(四諦)が存在しないので、正しい教え(正法)も存在しない。

 

24-5 以無法僧寶 亦無有佛寶 如是說空者 是則破三寶

法と僧が存在しないのであれば、また仏も存在しないことになる。このように空を説けば、法も僧も仏も(三宝)も必要なくなるであろう。

 

24-6 空法壞因果 亦壞於罪福 亦復悉毀壞 一切世俗法

空の法は、因果を壊し、また、罪と福を壊す。また世俗の法を壊す。一切の言語慣習を壊すことになる。

 

空の法とは、一切の分別をしないとすれば、分別するために存在する、真理(四諦)、正法、八賢人、僧、法、仏、罪と福、言語慣習、因果、全て否定される。しかしその否定自身が分別であり、やはりそれも杓子定規である。無分別の分別はしているわけで、それもまた偏った考えといえるのだ。それら全てを分別しない世界は、もはや言語では言い表せない。そのような法空の世界がわかった上で、一次元下の、因果(縁起)の世界を見れば良い。

アナロジーで説明すれば、それは四次元の世界を想定した上で、その断面である三次元を見る。三次元の世界に住む我々では、「法空」すなわち四次元の世界は正確に把握できないが、その断面である三次元は観察することができる、ということであろう。