宇宙はどのように始まったのか――

これまで多くの物理学者たちが挑んできた難問だ。火の玉から始まったとするビッグバン理論が有名だが、未だよくわかっていない点も多い。

そこで提唱されたのが「インフレーション理論」である。本連載では、インフレーション理論の世界的権威が、そのエッセンスをわかりやすく解説。宇宙創生の秘密に迫る、物理学の叡智をご紹介する。

宇宙のはじまり

――私たちの住んでいるこの宇宙には、「はじまり」があったのだろうか? もし「はじまり」があったのなら、それはどのようなものだったのか?――

これらは、人類の歴史が始まった頃から問われつづけている疑問です。かつては、これらの疑問に答えられるのは宗教や哲学しかないと考えられていました。あまりにも雲をつかむような話なので、科学では太刀打ちできないとされていたのです。

しかし、いま、「科学の言葉」でこれらの疑問に答えることができる時代になってきています。宇宙の誕生や進化・構造について研究する学問分野である「宇宙論」が、この100年ほどの間に驚くほどの進歩を遂げたからです。

たかだか百数十年前、人間にとって宇宙とは、私たちが住む天の川銀河がすべてでした。人間が観測できる宇宙が、そこまでだったのです。しかし今世紀のはじめ、観測技術の爆発的進歩により、宇宙は少なくとも400億光年の大きさまで広がっていて、そこには無数の銀河が存在し、天の川銀河はその一つにすぎないことを私たちは知っています。そして、この宇宙はビッグバンと呼ばれる「火の玉」から始まったことまで、私たちは知ることができました。

ただ、このような宇宙についての知の広がりに貢献したのは、観測だけではありません。むしろ観測より先に、「宇宙はこうなっているのではないか」と予想する理論があり、それが観測によって証明されることで、宇宙論は発展してきました。

20世紀初頭にアインシュタインによってつくられた、時間や空間を考える相対性理論、また、同じくこの時期にボーア、ハイゼンベルグ、シュレディンガーらによりつくられた、ミクロの世界を記述する量子論。これらは現代の物理学を支える2本の柱ですが、宇宙論もまた、この2つの理論が確立されたことで、飛躍的な進歩を遂げたのです。

とりつくしまもないような宇宙のさまざまなナゾが、物理学の理論によって解き明かせるようになったことを、私も物理学者の一人として大いに誇りに思っています。

いまや有名になったビッグバン理論も相対性理論と量子論をもとに築かれたものですが、137億年も前の宇宙誕生のシナリオが理論によって予言され、それがのちに観測事実によって証明されるというのは本当に驚くべきことで、すばらしいことだと思います。

しかし、やがて研究が進むにつれ、ビッグバン理論だけでは宇宙創生について十分に説明しきれないことがわかってきました。たとえばビッグバン理論では、宇宙がなぜ「火の玉」から始まったかについては、答えることができません。また、ビッグバン理論を推し進めていくと、宇宙の究極のはじまりは「特異点」という、物理学の法則がまったく破綻した点であったと考えざるをえなくなります。いわば宇宙には物理学が及ばない「神の領域」があることを認めざるをえないわけで、これは物理学に携わる者として容易にはうけいれがたいことです。

「インフレーション理論」の衝撃的な登場

私やグースらが提唱したインフレーション理論とは、ごく大づかみに言えば、物理学の言葉で宇宙創生を記述しようという理論です。最初は突拍子もない説という見方もありましたが、いまではインフレーション理論は宇宙創生の標準理論として認知されるまでになりました。

さらにインフレーション理論によって、宇宙創生のみならず、宇宙はこれからどうなるのか、そして宇宙とはどのような姿をしているのかについても予言できるようになりました。10の100乗年後という途方もない未来や、宇宙は私たちの宇宙のほかにも無数にあるというマルチバースの考え方など、想像を絶するような宇宙像が新たに提示されてきているのです。

『インフレーション宇宙論 ビッグバンの前に何が起こったのか』は、そうしたインフレーション理論とはどのようなものか、宇宙論の初心者である読者にも「およそこういうことなのだな」と輪郭をつかんでいただくことをめざして書かれたものです。

なにしろ物理学の最先端の話ですから、どうしても難しい言葉や概念は避けて通れません。しかし、可能なかぎり厳密さよりもわかりやすさを優先し、言及しなくとも大筋の理解には支障がなさそうな事柄は、思いきって説明を省きました。そのため、少し宇宙論にくわしい方には物足りない点もあるかもしれませんが、木にとらわれずに大きな森の姿を広く一般の方に知っていただきたいという思いからとご理解ください。

近年では宇宙は、ダークマターやダークエネルギーなどの新たな難問をわれわれ物理学者に投げかけてきています。これらは宇宙についての理論や観測が進歩したからこそ発見された問題です。新しいことを知れば、新たな問題に突き当たり、それを解決することでまた新たな発見がある。物理学はこうして進歩してきたのであり、これらの難問もいずれは解決され、その過程でまた新たな知の扉がひとつ開かれることでしょう。

大切なのは、なにごとにおいてもどうしたら科学の言葉で説明できるだろうかと考えぬく態度ではないかと思います。この本を通して読者のみなさんにも、そうした物理学者の精神を感じとっていただければ幸いです。

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これが「元祖インフレーション理論」だ

では、私が1981年に考え出した、元祖インフレーション理論を説明していきましょう。

宇宙の誕生直後、四つの力がそれぞれ、真空の相転移によって枝分かれをしたことはお話ししました。実は、これらの相転移のうち、2番目に起きた相転移によって強い力と電磁気力が枝分かれをするときに、まさに水が氷になるのと同様の現象が起きることがわかったのです。

水から氷に相転移するとき、エネルギーは高い状態から低い状態になります。これは秩序がない状態からある状態に変わるからです。水はH2O分子がランダムに動く秩序のない状態ですが、氷になって分子が結晶格子を組むと、秩序がある状態になります。そして水が氷に相転移するときには、333.5ジュール毎グラムの潜熱が生まれます。これは、秩序が「ない」状態よりも、秩序が「ある」状態のほうがエネルギーが低くなるため、その落差が熱として出てくるわけです。

宇宙は誕生したとき、水と似たような秩序のない状態でした。そして、空っぽのようで実は物理的な実体を持つ真空の空間自体が、実はエネルギーを持っていたのです。このエネルギーのことを「真空のエネルギー」といいます。繰り返しますが生まれたての宇宙は秩序のない状態ですから「真空のエネルギー」は高い状態にありました。

ところで、生まれたての宇宙空間自体にこのようなエネルギーがあるのならば、空間と時間についての方程式であるアインシュタイン方程式にも当然、普通の物質のエネルギーとともに、この真空のエネルギーも代入して計算しなければならないはずです。

そう考えて私が実際に計算してみたところ、この真空のエネルギーは互いに押し合う力として働くということがわかりました。物質のエネルギーのように互いに引き合う力(引力)とは違い、互いに押し合い、空間を押し広げようとする力(斥力)として働くのです。そして、生まれたての宇宙は、この真空のエネルギーの力によって急激な加速膨張をすることが、すぐに計算できたのです。

膨張を「インフレーション」と命名

さて、真空のエネルギーが空間を急激に押し広げると、宇宙の温度は急激に下がり、真空の相転移が起こります。このとき、まさに水が氷になるときに潜熱が発生するのと同じように、落差のエネルギーは熱のエネルギーとなります。真空のエネルギーが、熱のエネルギーに変わるということです。しかも、水ならば周辺の空間に熱を奪われることで氷になりますが、宇宙空間ではその潜熱が空間内に出てくるため、宇宙全体が火の玉になるほどのエネルギーになるのです。

こうしたことを考え合わせると、次のような宇宙初期のシナリオが描き出されてきました。
宇宙は、真空のエネルギーが高い状態で誕生しました。その直後、10のマイナス44乗秒後に、最初の相転移によって重力がほかの三つの力と枝分かれをします。いわゆる「インフレーション」は、そのあと10のマイナス36乗秒後頃、強い力が残りの二つの力と枝分かれをする相転移のときに起こりました。真空のエネルギーによって急激な加速膨張が起こり、10のマイナス35乗秒からマイナス34乗秒というほんのわずかな時間で、宇宙は急激に大きくなりました。その規模は、10の43乗倍とされています。

想像することが難しいと思いますが、そのような膨張が起きれば、1ナノメートル(1メートルの10億分の1)ほどの宇宙でも、私たちの宇宙(100億光年レベル)よりずっと大きくすることができるのです。

急激な加速膨張によって、宇宙のエネルギー密度は急激に減少し、宇宙の温度も急激に低下します。しかし、それによってすぐにまた真空の相転移が起こるため、前に説明した潜熱が出てきて、宇宙は熱い火の玉となるのです。これを「再熱化」といいます。

ビッグバン理論では「宇宙が火の玉になる」といわれていますが、実はそれは、宇宙が最初から火の玉として生まれ、そのエネルギーによって爆発的に膨張したのではなく、真空のエネルギーが宇宙を急激に押し広げるとともに相転移によって熱エネルギーに変わり、そのときに火の玉になったということだったのです。

以上が、インフレーション理論が描き出した宇宙のはじまりのシナリオです。

数々の難問に、インフレーション理論はどう答える?

ではインフレーション理論は、ビッグバン理論がかかえる多様な問題を解決することができるのでしょうか。

まず、「モノポール問題」から見ていきます。モノポール問題とは、モノポール(磁気単極子)というものが理論上、宇宙の中にたくさんできることになってしまうという問題です。このことは、つまるところ力の統一理論から導かれる宇宙像と、現実の観測によって正しいとされているビッグバン理論が描く宇宙像とが矛盾してしまうことを意味しているのです。これでは、ビッグバン理論がつぶれるか、力の統一理論がつぶれるかのどちらかになってしまいます。

宇宙が生まれて以降の発展を示した図「インフレーションによる指数関数的な宇宙膨張」を見てください。

図:インフレーションによる指数関数的な宇宙膨張

この図では、各断面の輪の大きさが宇宙の大きさを表していて、いちばん下の輪が宇宙のはじまりの頃に真空のエネルギーによって加速度的に急激な膨張をした宇宙の大きさです。

数学的にいえば指数関数的な膨張を起こしたことになるために、私はこのモデルを考え出した当初、「指数関数的膨張モデル」と呼んでいました。指数関数的膨張とは、簡単にいえば倍々ゲームで大きくなるということです。ある時間で倍になったものが、また同じだけの時間で倍に、さらに倍に…と大きくなることです。

これは私が高齢の方によく言う冗談ですが、もしもお孫さんが「お小遣いをちょうだい。1日目は1円でいいよ。2日目はその倍の2円。3日目は、その倍の4円と増やしていって、1ヵ月くれたらあとは何もいらないから」とねだってきたとき、最初の額が小さいので欲のない孫だと思って「ああいいよ」と言うと大変なことになります。31日目の額は、2の30乗、つまり10億円を超えてしまうのです。

このような倍々ゲームを100回も繰り返せば、素粒子のような小さな宇宙でも、何億光年もの宇宙にすることができます。

そこでモノポールについて考えると、実は宇宙のはじまりには実際に、多くのモノポールができていたと考えてもよいのです。そこへインフレーションが起きて、たとえばモノポールを含むわずかな空間が1000億光年の彼方に押しやられたとします。すると、1000億光年の彼方には、確かにモノポールは存在することになります。しかし、そんな場所と、われわれの知る宇宙には、直接の因果関係がありません。われわれの知りえる観測可能な宇宙は、せいぜい100億光年とか200億光年ほどの大きさです。

そのようなはるか遠くの宇宙に押しやられたモノポールが、われわれの知りえる宇宙の中にないのは、当然ということになります。つまり、存在はしていても観測できないという矛盾が解決されるのです。

ところで、宇宙の年齢はたしか137億年のはずでは…

ここで読者のみなさんは「宇宙の年齢はたしか137億年のはずなのに、なぜ1000億光年も先にまで宇宙が広がっているなどと言うのか?」と不審に思われるかもしれません。もっともな疑問です。しかし実は、インフレーション(指数関数的膨張)によって、宇宙は光の速度よりも速く膨張していたことがわかっているのです。なにしろ1ナノメートルよりも小さな宇宙が、わずか10のマイナス35乗秒からマイナス34乗秒後の間に、137億光年よりも大きな宇宙へと膨張するのですから。

実は、指数関数的な急激な膨張とはこのように、「困ったものはすべて宇宙の彼方に押しやることができる」という大変都合のいい話なのです。こうした考えを最初に示したのは私と共同研究者のM・アインホルンなのですが、このあたりのことが意外にも世界的にはあまり知られていないのが残念ではあります。

その難問、インフレーション理論が解決!

インフレーションの効能は、このほかにもいろいろあります。

最初の大きな仕事はなんといっても、素粒子よりも小さい初期宇宙を指数関数的膨張によって一人前の宇宙にして、真空の相転移による潜熱を生じさせ、宇宙を火の玉にしたことでしょう。ビッグバン理論では「特異点から始まった宇宙がなぜ火の玉になったか」を、説明することができなかったのです。

それから、初期宇宙には非常に小さな量子ゆらぎしかなかったのですが、これをインフレーションという急激な膨張によって大きく引き伸ばしてやることで、のちに星や銀河や銀河団を構成するタネをつくれることがわかっています。これによってまた一つビッグバン理論の困難、宇宙構造の起源が説明できないという問題を解決したことになります。

「宇宙がなぜ平坦か」という平坦性問題も、インフレーションモデルが解決します。

たとえば、私たちは丸い地球の上に立っている自分をイメージすることはできますが、「地球が丸い」ということを直接的に認識するのはなかなか難しいはずです。自分の体に比べて地球の半径が非常に大きいために、なかなかわからないのです。もし地球の半径が数キロメートルしかなければ、人間にもすぐに丸いことがわかるでしょう。

実は、宇宙も同様なのです。初期の宇宙が曲がっていたとしても、それがインフレーションによって巨大に引き伸ばされれば、人間には曲がっていることがわからなくなってしまうのです。宇宙はもしかしたら、現在でもわずかに曲がっているかもしれません。しかし、宇宙が指数関数的膨張をしてあまりにも巨大になったために、それを観測することができないのです。これで平坦性問題も説明することができます。

このように、ビッグバン理論におけるさまざまな困難が、インフレーション理論によって解決してしまうのです。

現在では多くの研究者によって、インフレーション理論の改良モデルが数えきれないほど提案されていますが、私とグースらが考えた元祖インフレーション理論と呼ばれているものは、このような姿をしています。