新井崎神社の鳥居越しに仰ぐ「冠島」「沓島」。中央が「冠島」。




◆ 丹後の原像
【50.「丹後史料叢書」 ~「丹後風土記殘缺」 13】




今回より「凡海郷」を。

テンション、ダダ上がり↑↑↑



すみません…
一人で盛り上がっております…。


私にとって丹後と言えば

二島が含まれるのが「凡海郷」。
この二島で「凡海郷」の9割くらいのイメージ。

二島を拝するために
何度も何度も遥々と丹後を訪れているようなもの。二島を目にすると「丹後に帰って来た~!」と。

まさしく「丹後の原像」と言えるような所。



殘缺の記述はあちらこちらで目に触れるものの、原文を目にするのはおよそ10年ぶり?自身で訳するのはもちろん初めてのこと。

単独で「冠島」「沓島」を紹介する記事を上げねばならないですね。


「冠島」


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【読み下し文】
凡海郷

凡海郷は往昔 此の田造郷萬代濱を去ること四十三里 [三字虫食い] 三拾五里二步 四面皆海に屬し壹之大島也 以て其の凡海と稱する所以は [三字虫食い] 曰く往昔 天下を治めしし大穴持命と少彦名命 此の地に到りて坐せし時に當たり [七字虫食い] 海中 [三字虫食い] の小島を引き集めし時に [三字虫食い] 凡そ枯れ以て壱島に成りき故に凡海と云ふ [三字虫食い] 大寳元年三月己亥 地震三日已まず此の里一夜にして蒼 [四字虫食い] 纔に郷中高山二峯 立神岩を興し海上に出づ 今 常世島と號く 亦た俗に男島女島と稱す 島毎に神祠有り祭りし所 天火明神 日子郎女神を興す也 此れは海部直竝びに凡海連等以て祖神を齋也 [以下八行虫食い]


【大意】
凡海郷

「凡海郷」は往昔、「田造郷」(48話目を参照)萬代浜から43里、●●●から35里2歩離れた所、海に囲まれた「壹之大島」(「一ノ宮」的な表現か)です。「凡海」と称される所以は古老(?)曰く、天下を治めていた大穴持命と少彦名命(この二柱は虫食い部分を想像したもの)がこの地に来た時、海中の小島を引き集めていた時(国引き)、●●●が枯れ一つの島に成ったため凡海と言います。大宝元年(701年)三月己亥の日に地震が起き3日間やまずこの里が一夜にして蒼海原に。わずかに高山二峰が立神岩となり海上に出現、「常世島」と名付けました。俗に「男島・女島」と称されます。両島に神祠が有り、天火明神と日子郎女神が祀られています。海部直・凡海連等が斎祀る祖神です。(以下八行虫食い)


【補足】
◎そもそも「凡海」の読みって?
これまで勝手に「おほしあま」と読んでいましたが、よくよく調べてみるも読みを示す資料は見当たらないのです…。

なぜそう読んでいるのか…考えられるのは、白絲濱神社の宮司(海部直の子孫、笶原神社を兼務)、もしくは絹巻神社の宮司がそう呼んでいたからかも。丹後を詳しく知る方のうち、この話題についてお話を伺ったのはこのお二方のみ。正解は分かりません。

◎この文面を見る限り「凡海郷」は、「冠島」「沓島」の二島に限定されるが如くの記し方がなされていますが、この後に郷内の「志託」という地が取り上げられています(次回の記事に掲載します)。こちらは内陸部。幾分かは内陸を含んでいることが分かります。

「冠島」「沓島」は大宝元年の地震によって形成されたと記されています。続紀には「大寳元年…丹波國地震三日」と。
この地震の津波は凄まじかったようで、若狭湾より12.8km、標高60mの内陸部に鎮座する荒塩神社の鳥居前にまで達したとの伝承有り。干塩稲荷神社など同様の伝承が各地に見られ、史実であったと思われます。

◎大宝地震(丹波國地震)は史実としても、これが原因で「冠島」「沓島」が出来上がったのかどうかはまた別のこと。「丹後風土記」殘缺の写本は江戸時代のものとされ、多少の脚色が施されている可能性も。

◎「大宝元年(701年)三月己亥の日」ですが…続記からの引用でしょうか。その他資料により日付はまちまち。グレゴリオ歴やらユリウス歴やらありますが…どうやら3月26日のようです。

「冠島」「沓島」の「両島に神祠が有り、天火明神と日子郎女神が祀られています」とあります。第41回目の記事において、加佐郡内35座の中に「凡海坐息津島社」と「凡海息津島瀨坐日子社」というのがみえます。この二社のこととして差し支えないかと。現在は老人嶋神社と恵比須神社が鎮座しているようですが、なにぶん特例を除き渡航不可、禁足地なのでよく分かりません。

籠神社の創建は、天火明命二十七世孫の海部千嶋が、熊野郡海士(あま)から與謝郡府中に移住した養老五年(717年)と見られます。

この時以降に「凡海坐息津島社」と「凡海息津島瀨坐日子社」それぞれに、天火明神と日子郎女神が鎮められ奉斎が始まったと思われます。

本来は「冠島」には太古より豊受大神が鎮まっていたと考えています。ところが殘缺の地震によって成ったという記述を信用するなら、地震以降に「立神岩」に対しての信仰が開始したということになります。


「冠島」を御神体としていると思われる新井崎神社



36.「丹後史料叢書」 ~緒言 1 37.~緒言 2 38.「丹後風土記殘缺」1 39. 2 40. 3 41. 4 42.5 43.6 44.7 45.8 46.9 47.10 48.11 49.12