後醍醐天皇導きの稲荷


大和国吉野郡
奈良県吉野郡吉野町吉野山2498
(住所は「金峯山寺」のもの)
(P無し、寺の東側に仮停めし足早参拝しました)

■祭神
稲荷神


「金峯山寺蔵王堂」という仏教施設の手前傍らに鎮座する社。
◎吉野町作成の社頭案内板には以下のようにあります。「北朝方との対立が激しくなって、やむをえずひそかに京都の花山院を脱出された後醍醐天皇は、延元元年(1333年)吉野山の行宮にお着きになることができました。途中夜道に迷われたとき、とある稲荷社の前で『むば玉の 清き闇路に 迷うなり 我にかさなむ 三つのともし火』とお詠みになると、ひとむらの紅い雲が現れて、吉野への臨幸の道を照らしてお導きをし、その雲は金の御岳(吉野山)の上で消え失せたといいます。(吉野拾遺)その稲荷を勧請したのがこの「導きの稲荷」です」と。
◎これによると、「京都の花山院」から「吉野山の行宮」のどこかで、稲荷社を拝したと。また文面の総合的な判断から、そして「金の御嶽の上で消え失せた」とあることから、おそらくは吉野辺りの稲荷社であろうと推されます。勧請元の稲荷社については伝わっていません。
◎大和国添下郡の源九郎稲荷神社が当社から勧請されたという説があります。そちらの社は吉野町菜摘に鎮座していたのを、豊臣秀頼公が現社地に移転遷座させたとのこと。「吉野街道」を下り、「吉野川」を10kmほど遡った辺り。
ところが「象川」沿いを北西に下ると、「吉野川」を200~300m遡るのみ。源義経や静御前もこの道を通ったとされ、天武天皇ゆかりの桜木神社も鎮座しており、おそらくこの道を通ったのであろうと想像されます。
以上から後醍醐天皇が歌を詠んだ稲荷社、そして稲荷神が勧請された稲荷社というのは、源九郎稲荷神社の元社だったのかもしれません。


この石段は金峯山寺という仏教施設へ向かうためのもの。