お釈迦様は、人生を考えまくって、
その当時、流行っていた苦行(なぜ、流行ったかは、割愛。)
をしていた。
悟りたい!
でも、悟れない!
こんな事をしても、無理やーん!!!
と、気づいたので、やーめた!
となった。
ガリガリになっていたので、
優しい女から、飯食えよ!
と、ツッコまれて、
牛乳の粥をもらって、喰って、
菩提樹の下で、
中道の精神の下、ただ、ボーッとしていた。
「はっ!人生は考えものじゃなくて、
体感する現実だ!」
と、気づいたか?は、知らんけど、
「体感する現実を、幸せにする為に、
そーいや、やってたんだっけか?」
と、腑に落ちたか?は知らんけど、
そんな訳で、考えるのをやめた。
ただ、座る。
自分とは何か???なんか、
やめたーーー。
お釈迦様は、「はっ!俺は馬鹿だ!!!」
と、気づく。
つまり、無知さを知らない自分だったと気づいた。
そもそも仏教とは、
もっと昔のインドの奥義書という哲学書を基に、
お釈迦様は、それを再現したくて、
右往左往してたものだった。
その哲学書とは、現実=内面の精神世界が、
反映されてるよ〜〜ん♫
というもの。
つまり、現実を極楽にも、地獄にも、
普通の日常生活にもするのは、
あなた次第よ〜ん。
というものだった。
彼は、母親が産まれた後に、
亡くなったというので、
親の愛を、母性愛を知らない。
から、渇愛地獄にいた。
ずっと、苦しい現実世界に、いた。
お金があっても、しゃあないし、
女が幾らいたって、本物の愛じゃないし、
幾ら良い暮らしをしてたって、
いづれ死ぬじゃーーん!
と、思いながら、育ってたのだった。
んだから、たまたま見つけた僧侶みて、
「あ!良いやーーん♪」
と、新しい世界へ、飛び出したのだった。
そんな訳で、
ボーーっとしていたお釈迦様は、
頭働かせすぎてたわ!
マジ、狂ってたわ!!!
どうかしてたぜ!!!!!
と、理解した。
んで、気づいた。
目が覚めた❗❗❗
俺が、俺だった❗❗❗❗❗
何もかも、命のお陰で、俺生きてるよ❗❗❗❗❗
母ちゃん、産んでくれて、有り難う❗
と。
つまり、仏教とは、
外側と戦って、
自分が獲得して生きるのを、
お勧めしないで、
内面を無にすることで、
生きてるだけで丸儲け🎵
と、わかる事で、
外側の世界も、HAPPYに感じるし、
それは、内面世界が、本物の愛が、
自分に宿ってた❗❗❗
と、心で知るだけの事だ。
それが、自分が体感する現実に成る。
それが、古代インドのヴェーダが、
ヤージュニャヴァルキヤ
が、伝えたかった事。
頭を空っぽにして、
心を無にしたら、
煩悩の総てが飛び出した空っぽの宝箱には、
何が残ってたのか???
それは、僕の口で伝えても、
伝わる事がない。
あなたも、僕のように、
死ぬ程、自分が、何者か???
生きるとは、何か???
狂う程に、悩みまくったなら、
ただのこんな心境だったと、
穏やかで安らいだ気持ちで、
ただ、皆と同じ様に、
自分の為に、得するように、生きていくだけだと、
そう思いながら、一服するだけなんだ。
ーー終わりー