子どものころのかくれんぼで、
あまりに隠れるのがうまかったので、
だれにも見つからないまま時が経ち、
そのまま見つかっていません…
みたいなこと、あるわけありませんよね。
ホラー話ならまだしも、
実際にそんなことあるわけない。
なぜかといえば、最初に決めたルールを、
そこにいる人の都合に合わせて変えるから。
絶対に見つからないように
隠れるルールだったとしても、
どこで終わりにするかを
決めていなかったとしても、
いい加減なところで終わりにするのが、
かくれんぼという遊びですよね。
子どもは暗くなるまでに家に帰ります。
カラスが鳴こうが鳴くまいが帰ります。
それがルールとして
定まっていようがいるまいが、
いい加減なところで帰るんです。
ルール、規則というのは、
どうしてそのルールになっているのかを、
よく考えて適用する必要があります。
決められたルールを破ることは、
いけないことだけれど、たとえば
そのかくれんぼのルールなんかだったら、
ある程度は破られることまでもが、
(ルールとして約束はされていないけれど)
「そういうもの」として認識されている。
もしそこに、
原理主義的な参加者が入ってきて、
「かくれんぼの終了についての取り決めが
存在しないのだから、鬼は最後まで
かくれた子を探し続けるべきだし、
子どもたちは見つかるまで隠れ続けるべき」
なんてことを言い出したら、困りますよね。
世に中に、
「こうするべきだ」ということは、
たくさんあると思います。
「そうしたほうがいい」ということもある。
ことばで決められていることも、
そうでないことも含めて、
「正しいのはこうだ」という考え方は、
もちろんあるのだと思います。
だけど、人の考えや、やることなすこと、
そしてことばというものは、
固定されるものじゃない。
「光の当て方でこうも見える」という
ふわっとしたところがあると思うんです。
正義、公平、平和、平等、隣人愛、
みんないいことだと思います。
それが人をしあわせにするかぎり。
今日も「わくわく海賊団」に来てくださってありがとうございます。
人を傷つける"いいこと"に、
人は意外と敏感だと思います。
