会計進化論。 -2ページ目

税理士資格がなくなる日(注:フィクションです)

(注) これから述べることは、この物語の世界で起こる規制緩和です。したがって、2007年時点では、税理士業界においては、当然ですが、こんな状況にはなっていないことを、あらかじめお断りしますヒヨコ


【未来の規制緩和(注:フィクションです)】

 2003年、バブル後の最安値7,000円台をつけた日経平均株価の裏で、政府はアメリカから突きつけられた「年次改革要望書」を前に頭を悩ませていました。



 そこには、「法律サービスの規制改革」として、税理士、公認会計士、弁護士、司法書士、行政書士、社会保険労務士、不動産鑑定士7士業について、規制緩和を求める提言が書き連ねられていたからでした。



 弁護士については、司法試験の廃止と日本版ロースクールの早期設置を求められていたため、他の資格に先駆けて、2004年に実現しました。しかし、他の6士業も含め、すべてにおいて規制改革を行うためには、関係団体からの反発がかなりあり、政府は二の足を踏んでいました。



 アメリカは2005年度の年次改革要望書で、とうとう7士業の具体的な規制緩和の筋道を提示してきました。政府はそれに従わざるを得ませんでした。2006年3月に閣議決定した「規制緩和推進7カ年計画わんわん」では、2008年から2012年の5年間の間に、7士業に対する規制緩和を行うこととなりました。

 そして、2007年までの委員会の検討により、税理士業界においては、次の4点がトピックスとなりました。

 (1) 独占業務の廃止

 (2) 税理士会への強制加入の廃止

 (3) 電子申告による申告義務

 (4) 給与受給者の確定申告義務



【(1)独占業務の廃止(注:フィクションです)】

ヒヨコ「これって、税理士業界にとっては、天と地がひっくり返ることじゃないで

  すか!」

ハロウィン「そうだね。でも、以前から言われていたことだから、起こっても驚かない

  かなぁ。『ついにきたか』って感じだね」

ヒヨコ「独占業務の3つが、開放されるってことですよね」

ハロウィン「そうだね。税理士資格がなくても、税務申告代理も税務相談もできてし

  まうね」

ヒヨコ「あわわわガーン

ハロウィン「これによって、なんのために税理士になるのか、なんのための税

  理士かが、改めて問われるね」


【(2)税理士会への強制加入の廃止(注:フィクションです)】

ヒヨコ「これはイマイチぴんとこないんですが・・・」

ハロウィン「これやっちゃうと、税理士会としての拘束力というか、影響力というか、

  税理士に対して口出しできなくなっちゃうよねダウン

ヒヨコ「でも、独占業務を廃止したら、裏返しとしてやるしかないですよね」

ハロウィン「税理士会への強制加入を不満に思っている人は、昔からいたからね

  ぇ・・・」



【(3)電子申告による申告義務(注:フィクションです)】

ヒヨコ「紙の申告書はダメってことですか・・・えっ

ハロウィン「これはけっこうきついよ。つい最近までこの業界は紙とペンだったか

  ら、今さら全部ネットを通じてやらないといけないとなると、お手上げ

  の事務所は出てくるんじゃないかな」

ヒヨコ「なるほど」

ハロウィン「まあこれはね、国が電子申告に大量に予算をつぎこんだけど、達成

  率が予想以上に低いもんだから、もう『電子申告義務』にして、これ

  しか受けつけないという制度にしない限りは、申告率を上げるのは無理

  だろうということで、導入したみたいだけどね」

ヒヨコ「なんか、予算つぎこんで上手くいかなかったのを、隠そうとしてません

  か・・・。お尻ペンペンですねプンプン

ハロウィン「まぁ、独占業務を人質に取って電子申告を進めてきたけど、さすがに

  税理士業界も動いてくれないから、とうとう、非税理士に開放したってこ

  とだね。すでに、会計ソフト業界に限らず、IT業界も業務提携や参入の

  準備を始めているよ」



【(4)給与受給者の申告義務(注:フィクションです)】

ヒヨコ「ようするに、年末調整の廃止ですよね」

ハロウィン「そういうことだ」

ヒヨコ「たしか、アメリカは一定収入あればみんな確定申告をするんでしたっ

  け」

ハロウィンTax Returnといって、還付のためにやるね。日本はその代わりに、

  企業とかが代行して、年末調整をやって還付してるね。アメリカの場合

  は、会計事務所ではなくて、なんというのかな、還付申告センター

  たいなのがあって、低所得者層の申告を一挙に引き受けているんだよ」

ヒヨコ「そうなんですかぁ」

ハロウィン「これをやるには、独占業務のままではいけないし、電子申告も稼働率

  を高くする必要があるね」

ヒヨコ「よく考えると、4つともどこかで連動してるんですね」

ハロウィン「そう。だから、過去の歴史を見れば、1つずつ変わるのは難しいし、

  しかし変わるときは一気に変わるのさ」



 というわけで、この物語は、この4つが2008年から2012年までの間に実現されることを想定して、話が進んでいきますので、「そんなバカな・・・」と混乱されないようご注意下さい。


 税理士という資格は形式上は残りますが、中身はなくなったも同然、という設定です。



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【補足】

 2008年から2012年の間には起こる可能性はきわめて低いと思いますが、じゃあ、20年後、30年後はどうかと聞かれたら「こうなってるかもね・・・」と思っていることを書いています。


 税理士という資格を選択する際に、こんなことを考えている方がどれだけいらっしゃるかわかりませんが、「資格があればなんとかなる」というのは、常に今現在のことしか想定されていません。つまり、今の年収が平均でいくらだから儲かる資格だ、なんて考えで選ぶのは、非常に危険だということです。


 ○○年後にその資格が紙になったときに、本当の意味で、「なぜ税理士なのか」と試されるときが来るように思えてなりません。


 その中で、ひよこくんヒヨコはどこへ行くのか、ニワトリ氏ハロウィンは何を考えているのか、ネコミミ氏にゃーはどうやって税理士法人を運営していくのか、あるいは、ユキコ雪うさぎはどこへ向かっていくのか・・・そんなことを、『会計進化論。』では、書いていきたいと思います。

税理士の歴史と規制緩和の波


【税理士の歴史】


 税理士という資格の前身である税務代理士は、1932(昭和17)年に国税庁による許可制という形で、スタートしました。それは「戦争メラメラ」が理由でした。


 1 戦費調達で課税強化して、税制がわけわからない。

 2 税務当局も徴兵で人手が足りない。

 3 納税者に不適切な申告をさせて報酬を得るものもいた。



 現在も税理士会に強制入会させる点や、無償であっても税務申告等を独占業務としているのも、当時の混乱期の名残といえます。そうしなければ、不当な申告にひひを指導する人が、多かったんですね。



 さて、第2次世界大戦が終わると、日本の民主化が進みます。その一環として、1949(昭和24)年にシャウプ博士らが来日し、資格者の質の向上を含んだシャウプ勧告が行われました。それを受けて、1951(昭和26)年、税務代理士法を抜本改革し、新たに税理士法による税理士資格サーチが登場しました。


 税務代理士時代は、税務当局のOB、弁護士、計理士(その後公認会計士に)が税務代理士として活動していましたが、新たに筆記試験メモで合格した者を税理士として資格を付与することにしました。


 これが現在も続く税理士試験制度です。税務当局OBが一定の勤務年数と試験により税理士になれることや、弁護士や公認会計士が税理士協会への登録によって税理士としての独占業務を行えるのは、税務代理士時代の名残なのです。


 また、大学院生には学位による試験科目免除という制度も導入されましたが、試験合格も学位免除も、当時の考えとしては、必要だったのはとりあえず「税務の知識メガネ」だけであり、人員増加を最優先としていたため、最低限のレベルを測る以上のことは行われませんでした(真に重要な良識(倫理観)は、問われません)。


 そのため、理論問題については、「丸暗記」を中心としたものとなっており、現在も試験問題形式に対する不満はあります。なお、その後、学位免除はだいぶたってから見直しがはかられましたが、依然として残っています。


 そういうわけで、現行の税理士制度は、良くも悪くもその歴史の上に成り立っているのです。



【規制緩和の波】


 ところで、税理士という業界は、3つの独占業務ラブラブ!を前提にして、そのビジネスモデルが成り立っています。そのため、それを擁護するような規制が長い間、行われていました。「税理士の常識は、世間の非常識ガーン」といわれることもありますが、ようやく次のようなものについては、規制緩和がはかられました。



 (1) 個人事業者で、支店展開はできない  → 税理士法人

 (2) 広告は事務所名・住所・電話番号だけ → 広告規制緩和

 (3) 報酬に上限があった            → 報酬規制撤廃



 2001(平成13)年に税理士法が改正されたときに、いくつかの改正がされましたが、その中で特筆すべきはこの3点です。



 (1) 個人事業者で、支店展開はできない  → 税理士法人


 このうち、(1)は監査法人が早くからあり、税理士としてもその必要性がだいぶ前から言われていたことでしたが、支店展開により、大手会計事務所がさらに拡大する余地を与えてしまうことは、同業者にとって脅威です。


 しかし、税理士業の事業承継を考えると、個人事務所としては限界があることから、導入されました。そしてふたを開けてみれば、現在の税理士法人のほとんどは支店展開するよりも、親子2人が代表社員となっている同族税理士法人ばかりとなり、当初の不安は杞憂(きゆう)に終わりました(今のところは・・・)。



 (2) 広告は事務所名・住所・電話番号だけ → 広告規制緩和


 また、(2)はインターネットの普及に伴い、ホームページを開設する税理士が増えたことから、さすがに無視することはできませんでした。ただしこの業界でマーケティングの手法を勉強し、活用している方はまだまだ極めて少ないのが現状ですので、これも杞憂に終わっています。



 (3) 報酬に上限があった            → 報酬規制撤廃


 (3)は規制緩和か?と不思議に思うかもしれません。もともとの趣旨は、納税者が不当な支払を請求されないようにということでしたが、逆に言えば、どんなに質の高いサービスを行ったとしても、どこかに限界はあるということです。競争原理から言えば、ネックになる制度でした。


 ビッグ4などの税理士法人は、顧問料方式ではなく、弁護士のように時間に応じて課金するタイムチャージ方式をとっていますが、今のところは、この規制が撤廃されても、顧問料方式のままで、しかもその金額は年々安価になっていますので、あまり関係ないといったほうが正しいのかもしれません。



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【補足】

 独占業務がなくなっても、税理士になってくれますか?


 それが、『会計進化論。』の裏テーマです。

2007年「年金選挙」の結末(注:フィクションです)

(注) これから述べることは、この物語の世界で起こる規制緩和です。したがって、2007年時点では、日本においては、当然ですが、こんな状況にはなっていないことを、あらかじめお断りします。

【徴税構造の変化】

 議院内閣制をとっている日本にとって、時の内閣の政策が、政権を握る与党の選挙に影響を与えることは、日常茶飯事です。

 2007年の選挙のテーマは、ずばり「年金」でした。

 マスコミや野党は、ここぞとばかりに「消えた年金出費」について責任の追及を行い、内閣支持率は日に日に低下していきました。そして、与党は特に明確な根拠も示せないまま、夏の参議院議員選挙に突入してしまいました・・・。

 特に今回の選挙は、別名「年金選挙」と呼ばれ、社会保険庁について次のように明確に公約が分かれました。


*与党*

  厚生労働省のもとにある社会保険庁を「独立行政法人化」し、民間会社への業務委託を積極的に行うという政府案をそのまま党の公約とし、今までの官庁からの独立を明言する。


*野党*

 与党は独立行政法人化と言っているが、結局、国の息のかかった機関を作るだけで、実質は何の代わりもない。それよりも、社会保険庁と国税庁を歳入庁として合併させ、徴集コストを削減し、また、「運営」と「徴集」を切り離すために、歳入庁は金融庁等と同様に内閣総理大臣の管轄下(つまり、内閣府内に設置)し、総理が責任を持つことを主張しました。

 当初は、社会保険庁を解体し、民間会社への業務委託を積極的に行う与党案が劣勢を跳ね返す材料になるかと思われましたが、実は細かく見てみると、社会保険庁の現職員は独立行政法人に全員再雇用シラーされたり、民間業者の選定方法も不透明な部分むっが多く、他の閣僚の相次ぐ不祥事などもあいまって、与党が大惨敗となりました。

 そして野党第一党が参議院全体で過半数を占め、衆議院と参議院が逆転する与野党ねじれ現象が起こってしまいました。直前の衆参両院が与党であったときは、無理矢理、法案を通していましたが、今度はそうもいきません。

 早速、次の2つの方針が決定され、来年度の通常国会で法制化されることになりました。

 (1) 社会保険庁と国税庁を統合し「歳入庁¥」へ

 (2) 国民総背番号制度メモの導入


【(1)社保庁と国税庁を統合し「歳入庁」へ(注:フィクションです)】

ヒヨコ「野党案がそのまま法制化されたんですね」

ハロウィン「昔から議論はあったからね。この案はアメリカの内国歳入庁(IRS)

  とは異なり、財務省内ではなくて、内閣府に置くというのが最大の違

  いだね。もちろん、税と年金の両方を扱うのも大きな違いだけど、歳入

  の入り口を、財務省から引き剥がすのは、大きな意味をもつね」

ヒヨコ「大蔵省から金融庁を引き離して、今度は財務省から国税庁ですか」

ハロウィン「そうだね。いくら財務官僚でも、徴税権力をとられたら力は半減ショック!

  るともいうしね。まだ議論はされていないみたいだけど、税理士と社会

  保労務士の競業関係が気になるところだね。これは昔からよくも

  めてたけど、議論が再発するだろうね」

ヒヨコ「弁護士は法科大学院で増やしているし、公認会計士も試験が簡素化

  されましたし、資格の再編が起こるということなんでしょうか・・・ガーン



【(2) 国民総背番号制度の導入(注:フィクションです)】

ヒヨコ「あれ? こんなの選挙の時は何も言ってませんでしたよ」

ハロウィン「年金問題の中で、5,000万件の年金記録問題があったよね。これと

  同時期に、FX外国為替証拠金取引)をめぐる脱税事件があっ

  て、インターネット取引による金融商品に関わる脱税行為が問題になっ

  たことは覚えているかな」

ヒヨコ「ああ、ありましたね。FXは、株価上がるときはいいですけど、下がると

  きは悲惨みたいですけどね」

ハロウィン「仲介業者に対する取引書類の提出義務を税制改正に盛り込むだけで

  はどうも足らないということで、納税者総背番号制の導入を検討してい

  たら、年金記録問題とあわせて、記録メモの重要性が1つのポイントに

  なって、1人1つの背番号を導入して税も年金も漏れがない体制をつくろ

  うということになったんだね」

ヒヨコ「あ、でも、歳入庁への合併にも、うまく合いますね」
ハロウィン「プライバシーの問題とかいろいろあるけど、公務員の削減など、いくつ

  かの点でメリットはあるということで、野党もここぞとばかりに導入をすす

  めたんだよ」
ヒヨコ「う~ん。本当にうまくいくのかな・・・ガーン

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【補足】

 なお、現実の日本では、皆様も新聞などでご存知の通り、社会保険庁改革関連法案が今年の6月30日に可決され、2010年1月から、公的年金部門を社会保険庁から分離させ、「日本年金機構」という特殊法人を作ることになっています。


社会保険庁:社会保険庁改革関連法案について

 http://www.sia.go.jp/top/kaikaku/kaikaku05.html


 歳入庁も国民総背番号制も、しばらくは、無理なんじゃないなかなぁ、と思っています。ただし、自分が生きている間にできないとは思いませんが・・・。



【参考文献】

 解説委員室ブログ:NHKブログ|時論公論「生まれ変わるか社会保険庁」

 http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/100/2924.html



【第6期】 ニワトリ所長時代~安定期~


【第6期】 ニワトリ所長時代~安定期~

 組織改革とサクラ会計との提携もあり、最初の5年間で地盤を安定させたニワトリ会計グループは、徐々にかつての勢いを取り戻していきました。



ハロウィン「・・・」


 ニワトリ氏は、1日のほとんどを所長室で過ごしていました。そして何かをひらめくと、一気に行動して、新しい事業に取り掛かったり、顧問先の開拓を指示したりと、戦略を練るニコニコことが主となりました。


 そしていよいよ、税理士法改正により、税理士法人が設立できるようになると、ニワトリ会計事務所から、税理士法人コケコッコーへと組織変更をしました。名称を税理士法人ニワトリではなく、税理士法人コケコッコー晴れとしたのは、シャモ氏との約束でもありました。



 税理士法人コケコッコーという名称は、「日本の夜明け朝陽を意味しています。当時、所内で新しい税理士法人名を募集したところ、現3代目所長のネコミミにゃー氏が、『テラの夜明け』という番組に感銘を受けて、こんなことを言いました。



にゃー「先代が亡くなってから、いろいろありましたが、それでもニワトリ所長

  の下、私たちは、さまざまな問題に立ち向かってきました」



にゃー『この世の中には、明けない夜はない』、のです。日本の夜明けは、

  コケコッコーという鳴き声ではじまります。初心を忘れないために

  も、そして未来を信じ、多くの企業の成長を助けるという志を体現する

  ためにも、税理士法人コケコッコーこそ、私たちにふさわしい名前だと

  思います」



 ニワトリ氏をはじめ、混乱期を乗り越えた社員たちは、その言葉に(=´;ω;`=)を流しました。明けない夜はない・・・それは、シャモ氏が一人で会計事務所を立ち上げたときに、胸に秘めていた言葉でもありました。



 2007年3月に、ニワトリ氏が期限を決めていた15年目のその日がやってきました。


ハロウィン「かねてからの約束どおり、本日をもって、私は所長を辞すことにな

  りますが、もはや私がいなくても、みなさんなら大丈夫でしょう。新し

  い所長であるネコミミにゃーさんを、みなさんで支えてください」



 そして、ニワトリ氏の旅が、始まりました。吸収合併の話がなくなったあとも西京市にとどまるように提案したのは、自分が新しい体制の税理士法人にいるのを好ましく思わなかったからでした。そのため、しばらくは、戻らないつもりでした。



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【補足】

 なるほど、こんな背景があったのですね。・・・と書きながら、一番驚いているのは自分です。実際には、15年で経営者が変わるなんて、ありえるのでしょうか。ニワトリ氏がどれだけの準備をしたのかは、これだけでは伝わりませんが、ニワトリ氏のように、所長になった時点ですでに事業承継を考えているというのは、もしかしたら珍しいことなのかもしれません。


 さて、3代目所長にネコミミ氏が就任し、新体制でスタートとなりました。

【第5期】 ニワトリ所長時代~黎明期~


【第5期】 ニワトリ所長時代~黎明期~

 シャモ氏の後を継いだニワトリ氏ハロウィンが所長になると、古参の職員のほとんどが退社し、全盛期には100名いた従業員は、気づけば55名までほぼ半減してしまいました。ニワトリ所長時代から残っていたのは、トメさんカメと十数人くらいで、ほかの40名程は、ニワトリ氏が入社した以降に入った従業員ばかりでした。


 退社した古参の職員の中には、退職金の他に、それまでの顧客を引き継いで独立した者もいて、関与先数も同時に激減しました。ニワトリ会計事務所、始まっていて以来の危機でした。



 ニワトリ氏は、この緊急事態に慌てませんでした。

ハロウィン「むしろこれは、新しいことをするチャンスだ」

 まずはそれまであった(有)ニワトリ経営管理を、トメさんカメを代表取締役とする(株)経営管理サービスへと組織変更・名称変更しました。そして、トメさんに権限を与え、月次処理を始めるとするルーティーンワークを、できる限りこの会社に外注して、それまで属人的だった業務を切り離す試みを行っていきました。


 トメさんは従業員第1号だったとはいえ、それまで男性上位だった事務所内では、さして目立ったポジションについていませんでした。しかしトメさんは技術以上に、人を動かす力に長けていました。過去にグループで働いて、結婚などで退職したメンバーをパートタイマーとして採用し、月次処理等を下支えしていきました。



カメ「ほっほっほ。腕が鳴るねぇ」


 ニワトリ会計グループは、それまで顧問先から伝票を回収して、外部に入力業務を委託していました。ニワトリ氏は所長就任前から「自前でできないか」とトメさんや若手に声をかけ、事務所だけですべてを完結する方法を研究していましたが、古参の幹部職員からその導入を反対されていたのでした。


 ニワトリ氏は、サクラ会計桜というソフトウェアを出していたサクラ会計株式会社と提携して、「顧問先企業の自計化」と「自前の記帳代行システム」を共同開発していきました。そして、ニワトリ会計事務所が費用を負担して、会計ソフトの導入を行いました。自計化とは、企業が自社内で経理職員を雇用して、帳簿書類を作成できる状態を言います。記帳代行とは、帳簿書類を会計事務所などにアウトソーシングして作ってもらうことを言います。


 いずれの方法をとったとしても、顧問先と会計事務所のやり取りだけで済みますし、役割をはっきりさせたため、以前よりも少ない人数で対応できるようになりました。これにより、一時期危険な状態にあったニワトリ会計事務所も、なんとか持ち直すことができました。



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【補足】

 一度導入した会計ソフトを変えるというのは、なかなか難しいものがあります(「デファクトスタンダード」というやつです)。ニワトリ会計事務所では、サクラ会計を顧問先すべてに導入することによって、手間を減らすことに成功しましたが、現実には会計ソフトを統一することはなかなかできないように思います。


 しかし会計事務所のスタッフと企業などの経理担当者の仕事の「線引き」をきちんとしなければ、そこには無駄が生じます。あまり大改革ではないように思われるかもしれませんが、ニワトリ会計事務所が自計化と記帳代行を徹底させてルーティンワークを切り離したことは、大きな成果だったのでした。


【第4期】 シャモ所長時代~混乱期~


【第4期】 シャモ所長時代~混乱期~


 1985(昭和60)年のプラザ合意が引き金となってはじまったと言われるバブル景気は、株や土地への過剰な投機を生み、「土地は必ず値上がりする」という土地神話ロケットまで生まれました。しかし平成に入ると、日本はバブル崩壊叫びを迎えました。


 ニワトリ会計事務所の顧問先の中にも、本業以外で失敗したり、親会社と連鎖倒産する企業が増え、また、顧問契約自体を解除されるなど、少なからずその影響を受けました。


 高度経済成長期から、バブル景気の税理士に期待されていたことといえば、「節税対策」が中心でした。物は仕入れれば、特に工夫をしなくても売れる時代でした。「いかに利益を残すか」、そのために、知恵をしぼるのが当然だと思われていたのです。そのため、不要な投資が行われていました。


 しかしバブル崩壊が終わった後、冷静に考えてみれば、真に企業に必要だったのは、企業を継続(ゴーイング・コンサーン)していくエンジンである資本の部を厚くしていくための「内部留保」であり、税理士は財務的なアドバイスを行うべきだったのかもしれません。


 こんなときに、悪いことは重なるもので、シャモ氏が当時流行したインフルエンザをきっかけに急逝ダウンし、ニワトリ会計事務所は世代交代を迫られました。シャモ氏は、生前、ニワトリ氏を呼び、こんな話をしていました。


にわとり ニワトリ 鶏「ニワトリくん、私が今いなくなれば、きっと創業時からのメンバー

  の大半は辞めてしまうだろう」


 所長が入院中、グループ内では、古くからいるメンバーと、新しいメンバーとの間で、意見の対立が生まれていました。所長代理として動いていたニワトリ氏は、シャモ氏の存在の大きさを、改めて感じずにはいられませんでした。



ハロウィン「・・・」

にわとり ニワトリ 鶏「それでも所長になる覚悟はあるかい?」
ハロウィン「もちろんです。・・・実は、1つ考えがあります」

にわとり ニワトリ 鶏「考え?」

ハロウィン15年間で、私は所長の座を退きます」

にわとり ニワトリ 鶏「・・・」
ハロウィン「会計事務所は、シャモ所長の流した汗と血の結晶です。しかし所

  長がご指摘くださっているとおり、今の状況では、古参の職員の大

  半は辞めることと思います」

にわとり ニワトリ 鶏「そうだな。・・・そうか、それで15年間で退くのか」

ハロウィン「はい。1年目から事業承継を1つの目的にして、運営していきま

  す。それから、いつかこの業界にも、公認会計士の監査法人と同

  じような税理士による法人が誕生するときがくることと思います。

  そのときには、法人化し、名称変更もしたいと思います」

にわとり ニワトリ 鶏「・・・わかった。私は・・・君が後継者で本当に良かった。君は君の

  道を行きなさい」

 おりしもその日は、新しい新幹線500系のぞみの車両が、那古野市を、初めて駆け抜けた日でした。ひとつの時代が、始まろうとしていました。



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【補足】

 個人的には、士業の最大の課題は、事業承継だと考えています。税理士法人ができるまでの個人事務所というのは、所長をボスにする完全なピラミッドです。そして拡大する事務所であればあるほど、所長には、カリスマ性が付与されていきます。それが強みでもあり、アキレス腱でもあります。シャモ所長もその例外ではなく、カリスマ性があったがゆえに、ニワトリ氏に対して十分な事業承継を行うことができませんでした。ニワトリ氏はそれを間近で見てきたために、個人のカリスマ性ではなく、組織としての事務所運営を目指して2代目を引き継ぐことになったのでした・・・。



 さて、2007年7月から新しい車両のN700系が登場しましたが、のぞみが登場したのは、1992年3月14日のことです(東京~新大阪間)。この物語でいう15年間は、1992年~2007年の間をさしています。ちなみに、「名古屋飛ばし」という言葉は、こののぞみのうち一部で、名古屋を通過して止まらないことから生まれた言葉です。

【第3期】 シャモ所長時代~成熟期~


【第3期】 シャモ所長時代~成熟期~

 ニワトリ会計グループは、順風満帆・・・と言いたいところですが、この頃からシャモ氏にわとり ニワトリ 鶏は、後継者問題に頭を悩ませていました。自分の子供たちは娘が3人で、長女鳥と次女鳥はすでに結婚していましたが、夫たちはそれぞれ別の会社を経営していました。三女鳥は大学院の経済学研究科で論文を書いていました。



鳥「お父様。今度ご紹介したい人がいるんですよ」


 そんな話をするもの珍しいと思っていたら、その後、家に連れてきたのは、その後の2代目所長となったニワトリ氏ハロウィンでした。ニワトリ氏は当時、税理士試験を勉強しながら大学院生として勉学に励んでいました。



ハロウィン「ぜひとも私を、養子にしてください」

にわとり ニワトリ 鶏「ニワトリさん、それはとてもありがたい」

ハロウィン「・・・」

にわとり ニワトリ 鶏「しかし、君は君の道を行きなさい

ハロウィン「わかりました」



 ニワトリ氏は、シャモ所長の人柄に触れ、ぜひとも養子にしてくださいと頼んだほどでした。会計事務所の名前・・・恩師の名前と同じ「ニワトリ」だったのは、何かの縁だとシャモ氏は思ったものでした。


 結局、養子にはしませんでしたが、その後、大学院を卒業してから、科目免除(会計2科目)を含めて税理士試験に合格したニワトリ氏は、ニワトリ会計事務所に入所し、1から実務の勉強を始めました。



ハロウィン「・・・すみません・・・」
カメ「どうしたらこうなるんだろうねぇ」


 どうも決算書や申告書を作らせると、誤ったものが出てくることが多く、いつもトメさんに怒られるどころか呆れられていました。会計2科目を免除したのも、この辺の事情があったようです・・・。



カメ「それでも税理士かい」

ハロウィン「・・・すみません・・・」

 
 しかしニワトリ氏は、営業をやらせたら右に出るものはいませんでした。会計事務所では、「生命保険の販売」も大きな収益源です。ニワトリ氏は、計算の得意なアルバイト職員と組んで、積極的に提案をし、次から次に契約をとってきました。税理士という資格もこのときは役に立ち、保険契約とあわせて顧問契約を取ることも少なくありませんでした。


 法人の節税商品として生命保険は使われていましたが、ニワトリ氏は「節税目的で売るのも大切だが、生命保険の本来の安心も売らねばハロウィン」と思っていましたので、経営者だけでなく、その従業員やその家族にも積極的に提案をしたり相談を受けたりしていました。


 FP(ファイナンシャルプランナー)という資格も、ほとんど認知されていなかったため、ニワトリ氏はその資格のことを知りませんでしたが、今思えば、アルバイト職員にライフプラン表を手書きで作らせたほどで、同じようなことをしていたんだなと当時のことをときどき思い出します。



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【補足】

 それにしても、数字が苦手な税理士なんているのか、と不思議に思うところですが、どうもニワトリ氏は苦手なようです。それにしても、なんでまた税理士になろうとしたのか・・・。ちなみに、奥様鳥が美人だということは所内では有名です。

【第2期】 シャモ所長時代~拡大期~


【第2期】 シャモ所長時代~拡大期~

 ニワトリ会計事務所は、1970年代から1980年代にかけて、着実に成長していきました。時代は、オイルショックを経て、個人事業者が次々に法人成りしていった頃でもありました。


 あるときからシャモ氏は、税務会計部門のスタッフに、「月次監査訪問」を義務付けるようにしました。それまでは、決算申告時期に訪問して、申告期限の直前に利益と税額を伝えていましたが、電卓も1人1台ずつ会社で支給し、できる限り毎月不明点を減らし、決算時期の業務の集中を避けるようにしました。



 その後も、ニワトリ会計事務所はシャモ所長の人柄の下に従業員が集まり、一時期には、最大で従業員75名の会計事務所(グループ全体で100名)となりました。税理士業務以外の記帳代行や給与計算は、新しく設立した(有)ニワトリ経営管理で行っていました(当時の代表取締役は、番頭さんと呼ばれたベテラン職員がなっていました)。


にわとり ニワトリ 鶏「よし、社会保険労務士を集めて労務部門を作ろう!」

にわとり ニワトリ 鶏「よし、医療法人の設立を進めていくぞ!」

にわとり ニワトリ 鶏司法書士も必要だ! スムーズな登記サービスを行おう」



 ニワトリ会計事務所の顧客は、中小企業と個人事業者でした。彼らのニーズに1つ1つ答えるためには、会計事務所の規模の拡大は必然でした。一ヶ所ですべてのニーズを満たすために、次々に人員が増えていきました。


 医療でたとえると、町の診療所から、総合病院化をするようなものでした。内科の看板を掲げてはじめたのが、眼科や耳鼻咽喉科を増やし、さらには外科や産婦人科などを併設し、次々に医師や看護師を増やしていくことで、そこに行けばどのような症状にも対応できます。

 東京と異なり、地方都市では、専門家(有資格者)を集め、「地域密着」と「ワンストップサービス」を提供するのが、会計事務所の主流となり、その流れは今も続いています。


 もともと、税理士をはじめとする士業は、独占業務(税理士は税務代理・税務書類の作成・税務相談)という、法的に守られた業務を行う業種ですが、あくまでも人が行うサービス業の一種です。収益を上げるためには、顧客を増やし、人海戦術で対応することで収益を確保するという拡大戦略が当時からの主たる1つのビジネスモデルでした。典型的な労働集約型ビジネスでした。


にわとり ニワトリ 鶏「しかし、いずれ拡大が止まるときがくる・・・」


 関与先に訪問するのが業務の中心であることから、ある一定地域を超えて関与先を増やすことはまれです(=増やしても時間とコストに見合わないため増やせない)。そのため、気づけばまるで徳川幕府の藩のように、各エリアごとに主要な会計事務所が台頭していきました。


 1988年当時、ニワトリ会計事務所は、那古野エリアにおいてナンバー3の実力をもつ会計事務所に成長していました。


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【補足】

 当然ですが、東京にも大規模な会計事務所は存在します。業界トップの会計事務所も、東京にあります(ただし、何をもってトップとするかは異論があるかもしれませんが、全体的なバランスでここは1番だという意味がとしておきます)。ただここで話になっているのは、「じゃあ、東京以外は?」ということですが、上述のとおり、江戸幕府の「藩体制(しかも幕末)」ではないかと私は考えています。


 各エリアごとに大規模会計事務所があり、地域ナンバー1を競っていますが、その地域を出ることは非常にまれなことです。ただし、今現在は確かにそうですが、これからも本当に「藩」のままでいられるのか、それとも、黒船(独占業務の開放、電子申告の義務化、サラリーマン等の確定申告義務など)がやってきて、藩体制の崩壊が起こるのか、どうなんだろう、と考えているところです。


ある受験生の憂鬱

 ニワトリ氏とひよこくんが西京市に来たほぼ同時期に、一人の女性が専門学校の教室の片隅で、ため息をついていました。


 彼女の名前は、ユキコ雪うさぎ

 生まれは東北地方ですが、高校のときに引越して以来、両親とともに那古野市に住んでいました。


 彼女は大学には進学せずに、専門学校に通って、税理士試験に挑戦していました。最初の4科目まではなんとか取得することができましたが、最後の1科目で足踏み足あとをしていました。


雪うさぎ「はぁ・・・」


 問題を解く手が止まり、またため息をもらしました。今年の試験が終わったら、どこかへ就職するか、アルバイトをしなければなりません。



雪うさぎ「それにしても、なんで自分は勉強しているのかな・・・」


 勉強しなければならないのはわかっていました。でも彼女には、試験の先にあるはずの、「目標が、明確ではありませんでした。税理士をすすめてくれたのは、両親でした。女性も資格があればなんとかなるだろうといって、彼女も大学で遊ぶよりもいいだろうと思って、通うことにしたのでした。



雪うさぎ「税理士になって・・・それから、私はどうするんだろう・・・」


 もちろん、税理士がどういう職業なのか、知らないわけではありませんでした。しかし、彼女は会計事務所で働いたことがあるわけでもないので、本当の意味での業務は知りません。あくまでも専門学校が流す情報や、インターネットなどで見つかるイメージに過ぎなかったのでした。


 

 彼女の周囲には、独立開業がしたい、コンサルタントになりたいと夢を語る者もいました。しかし彼女にとってそれらは、イメージの良さ収入面の良さでしかなく、彼女の積極的な動機にはなりそうにありませんでした。しかしそうすると、自分は税理士になって何をするのだろう・・・。目標がある自分の周囲にいる受験生がうらやましく思えました。



 ときどき襲ってくる不安で、手が止まります。周囲からは、「まずは受かってからで、その後のことはまた考えたらいい」と言われますが、その思いはますます強くなっていました。


雪うさぎ「はぁ・・・・。税理士試験の先には、何があるんだろ・・・



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【補足】

 こういうことを考え始めたら、本当に勉強の手が止まってしまいますので、お気をつけください(汗) しかしこのブログは、そんな疑問から始まってなんとか更新が続いています。そしてすでに始まっている物語の行方は、その答えになるかどうかはわかりません。しかし、主人公たちキャラクターを通して、「試行錯誤」している姿が伝われば、目的は果たせるものと思われます。あくまでも、私の頭の中での仮想実験です。


 一応、TACNEWSに連載されていた『女子大生会計士の事件簿』のように、会計業界(ただし監査ではありませんが)に身を置く主人公たちではありますが、残念ながら私自身に文才があるとは思えませんし、マーケティング的なことも何も考えていませんので、物語が冗長的だったり独りよがりだったりする点は切にご容赦ください。最初に謝っておきますガーン


【第1期】 シャモ所長時代~黎明期~

 どんな人や物にも歴史があるように、会計事務所という組織にも、それぞれ固有の歴史があることでしょう。ひよこくんは、ニワトリ氏からその歴史を聞いていました。



【第1期】 シャモ所長時代~黎明期~

 1970年、先代所長であるシャモ氏にわとり ニワトリ 鶏は郷里の那古野市で開業しました。


 事務所といっても、自宅を改造したものでしたので、1階の10畳ほどのスペースに机を2脚置いて、タイピストだった妻と二人での開業でした。それでも、目立つように事務所の前には、「ニワトリ会計事務所」と大きな字で書かれた看板を掲げました。


ハロウィンニワトリという名前は、当時の恩師の名前をいただいたものだった

  そうだよ」


 開業当時は、週休7日・・・つまり、関与先はゼロだったため、シャモ氏は毎日那古野市内の大学図書館で、税務会計関係の論文を読む生活をしていました。シャモ氏は法学部出身で、友人たちは半ば当然のように、弁護士や検事になったり、金融機関や成長著しい企業に就職していきましたが、会計学にも興味をもっていたため、税理士を志すこととなりました。



 そんなある夏の日、事務所の看板を見た近所の町工場の主人が、尋ねてきました。


マリオ「表の看板を見たんだけど・・・」


 これにより、ようやく会計事務所としての業務を本格的にスタートしました。シャモ氏の働きぶりを見た町工場の主人は、次々に新しい関与先を紹介してくれて、その年の内に、関与先は10件ほどになっていました。



 当初はシャモ氏と妻の二人でやり取りをしていましたが、やがて関与先数が増加してくると、職員の採用をはじめました。当時は今のように小型のパソコンや会計ソフトは当然なく、小型電卓もありませんでしたので、試算表が一発でできるなんてことはまれでした。


 1960年代に登場した電卓は、当初は20~30kgもして、今の電卓しか知らない人からすれば想像もできないような卓上計算機でした。1970年代からようやく急激な価格競争が始まり、小型が進んでいきましたが、シャモ氏が開業してしばらくは、そろばんが主流でした。


 当然、職員の条件は、「そろばんに習熟し、字がキレイな者歓迎」といったものでした。たいていの会計事務所では、そろばんに習熟したベテラン職員が、試算表を合わせるために徹夜で玉をぱちぱちはじいて計算をしていたのが普通でした。


 一番最初に来てくれたのは、隣近所にある団子屋お団子の娘さんでした。彼女はとてもお茶をたてるのが上手でしたが、さすが商売人の娘です・・・それ以上にそろばんの計算が速く、字もキレイでした。関与先になった団子屋の主人が、末の娘をぜひともと紹介してくれたからでした。


 彼女は途中、結婚と出産で何度か実家に戻りましたが、今でも(株)経営管理サービスの代表取締役として、暇があれば自分でお茶を立てています。



ねこへび「あれ、トメさん、ひなたぼっこですか?」

カメ「まぁね、昔のことを思い出してたんだよお茶



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