彼がどのように私を紹介しているか全く想像つきませんが、部員からよく「彼との仲の良し悪し」について尋ねられますので、彼との関係を素直に述べたいと思います。長く書かないと彼が怒りそうなので、少しだけ長くなります。是非、遠慮なく飛ばしてください。
と言いつつも、私も彼と仲が良いのか、悪いのか、分かっていません。高校時代は何度も喧嘩をした(詳細を話すと長くなるので割愛します)一方で、多い時で週4回ベンダー(日吉のタコライス屋さん)に一緒に通い、シュート練習場では泥だらけになりながらもシュートを打ってもらいました。今では、よく彼の渾身のギャグにさめた視線を送り、「いじりにくいキャラ」の彼を、「いじっても良いキャラ」に仕立て上げることができました。今年の夏には、私の実家(宮城)を訪れ、彼の強みである図々しさを存分に発揮しておりました。彼が、私の兄と並んでゲームをしていた時は、異世界にでもいるような、そんな不思議な感覚を味わいました。
ここまで綴っても、彼との関係は全く見えてきません。しかし、私の中でずっと変わらないことが、1つだけあります。それは私にとって彼は、「人生に欠かせない存在」と言うことです。(おそらく誰かしらニヤついてると思いますが、嘘じゃないです)。よく練習で彼に決められては悔しい思いをして、彼の熱いプレーで試合が盛り上がれば、私も鼓舞されてきました。自分の調子が悪くて落ち込んでいる時も、なぜか、ふと目の前に現れて、励ましてくれるのが小島快という人間です。試合中は、私の分厚い防具でも痛いようなシュートを、薄っぺらい防具の彼が身体張り、何度もピンチを救ってくれました。空回りして彼と私のミスで失点することも度々ありますが、今となっては良い思い出です。どんなにチームの状況が悪くても、彼は何かを起こしてくれるだろう。と思える存在です。彼とだったら「如何なる難題でも成し遂げられる」なんて言いたくはありませんが、心の底から思っています。もう照れくさい文章はここまでにします。
「7年間ありがとう。これからも、一瞬でその場が凍りつく寒いギャグと、チームを鼓舞するような唯一無二の熱い守りをよろしくね。」寿暉より
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さーーーーーて、やっと本題に入ります。というか、やっと本題に入れます。好評だった1年目のダイアリーから、3年も経ってしまったのかと思うと、時の流れの早さとともに、酸いも甘いも多くの経験が蘇ります。ラストのダイアリーは、私の何も成し遂げられなかった4年間を、赤裸々に綴りたいと思います。飾った言葉で、カッコよく引退するつもりはありません。辛かった大学4年間、そしてそんな4年間で得ることができた「宝物」について、ちょこっとだけ紹介できればと思います。
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「ありがとう、慶應アイスホッケー部」
7年前。高い木々に囲まれる田舎町で育った私は、高いビルが建ち並ぶ大都会[東京]に上京しました。よく問題を起こしては先生に怒られ、生徒指導室に連れていかれるような少しヤンチャな部分もある少年でした。けれど、学校のテストや模試、陸上部、郊外活動のアイスホッケーでは、誰よりも直向きに取り組み、生真面目な一面もあったように思います。そんな私は、司法試験に合格するため「大学で法学部に入ること」「高校で世代別の日本代表になること」この2つの夢を果たせる環境がある、慶應義塾高校の門をくぐりました。
高校時代 ー 結論から言うと、この2つの夢であり目標は、叶えることができませんでした。学校の勉強は、中学の頃とは違い、簡単に点数は取れませんでした。いや素直に話すと、地頭の足りない私にとって、圧倒的な勉強不足でした。定期テストが終わった日から、次のテストの漢字の勉強をした時もあります。言い訳なんてしたくありませんが、全力を尽くした結果、法学部に進むことはできませんでした。一方でアイスホッケーでは、全国大会という大舞台になると、急に自分のプレーができなくなるのが私でした。早稲田実業高校との試合で、格下相手ながら、相手主将の集大成となる千金打を決められたのは今でも鮮明に思い出せます。無論、世代別の日本代表なんて、口に出して言うことすら、恥ずかしく思える高校時代でした。そんな私は、大学ではもっと高いレベルで揉まれたいと、学生とプロという新たなデュアルキャリアを果たせる某プロチームに入団希望を出しました。今、体育会に入っている時点で結果はお察しできると思いますが、大学卒業してからでも良いのでは。と当たり前の返答をいただいた記憶があります。そして敷かれたレールを進むように、體育會アイスホッケー部、そして経済学部に進むことになりました。
大学1年目 ー 「氷の上で活躍する選手たちを、ベンチから眺める日々だったなぁ」、なんてことを思い出します。当時ゴールを守っていたのは、42年ぶりの早慶戦勝利の立役者で、レジェンド的存在だった副将の木村初穂さんでした。当たり前だけど、何の実績もない私にとっては、どう頑張っても届かない存在でした。だからこそ、氷上以外では誰にも負けたくない、なんて思いながら部活動に励みました。試合に潜む恐ろしさも知らず、ただ試合に出て活躍するイメージだけが頭の中にありました。「怖いもの知らず」。今の自分にとって、1番欠けているチャレンジャー精神が、私にはありました。そして迎えたリーグ戦、公式戦初先発も経験することができました。偶然にも調子が良かったこともあり、冬の早慶戦では先発することができました。しかし、調子の良さとは反比例し、8試合公式戦の出場機会をもらうも「1勝もすることができなかった」のが大学1年目でした。
大学2年目 ー 大怪我、コロナ罹患、不祥事、リーグ降格、インフルエンザ大流行、恐らく大学4年間で味わうことができる災難はすべてこの年に味わった気がします。新チームが始動して間もない春大会で、コロナに罹患して2回戦欠場。復帰して出場した早慶戦では半月板を損傷。翌月には、病室で手術の後遺症と闘う日々を送りました。ようやく復帰できると4ヶ月ぶりの公式戦に心躍らせるも、不祥事による自粛期間経験。謹慎期間が明け、シーズン途中からの参戦となった秋リーグでは、僅差での負けが続き、まさかの十数年ぶりのリーグ降格。その後のインカレでは、直前に僻地の岡谷で猛練習を行うも、その合宿で蔓延したインフルエンザによってインカレ初戦は何人もの欠場者が出ました。結果、あっという間に終わったのが2年目でした。自分でコントロールできる部分もできない部分も、「すべてが噛み合わない」大学2年目となりました。
大学3年目 ー この年は、今になっても申し訳なさが残り、一個上の四年生に合わせる顔がなくなる1年になりました。当時の四年生はスローガンで「Change as one」を掲げ、このスローガンのもと昨年のような悲劇が起こらないようなチーム作りを体現してくれました。私自身も、そんな生まれ変わったチームを作ってくれた四年生のために、「何としてでも勝ちたい」と、本気でそう思えるチームでした。だからこそ、《リーグ戦、あと一歩で昇格できなかった》なんていう言葉が、大がつくほど嫌いです。「あと一歩」にさせたのも、「昇格できなかった」のも、すべて私の気持ちの弱さだと、身に沁みて感じていたからです。リーグの昇格がかかるファイナルリーグでの話です。立ち上がりの上手くいかない今とは違い、3ピリまでは勝敗が分からない展開が続いていました。しかしそんな痺れる試合展開の中、3ピリにコロッと失点してしまっていたのが、紛れもなく私でした。今思い出しても、胸が針で刺されるように痛みつけられる経験をしました。「あと一歩で…なんて言われる3年目」となりました。
大学4年目 ー さぁ、やっと4年目。1番濃い一年かと思いきや、1番薄っぺらい1年間になりました。立派な実績である「1部A昇格」そんな文字だけが、私の目の前に立ち、まるで私を影に追いやっている気がします。恥ずかしながら、ラストシーズンにして、「1番結果が出せなかった年」となりました。先日、武司コーチに「今シーズン、百点満点の試合はあったのか。」と聞かれた時、頭が真っ白になりました。真っ白になったというより、百点満点の試合を必死に探そうとしても、真っ白の中に何もなかった、、そんな感覚です。この返答に困ってしまった私の姿が、今シーズンのすべての答えです。絶対に負けてはいけない秋リーグ“青山学院戦”の開始5分、私は暗闇に葬られるように、ベンチに引き揚げていきました。これは、死ぬまで忘れることのない出来事となると思います。「副将」なんて一丁前な肩書きを、身に纏う存在ではなかった、こんなセリフが毎日のように頭の中を行き交いました。「守護神」なんて建前だけの言葉を、鵜呑みにできなくなりました。私が思い描いていた、「副将であり守護神」にはかけ離れた結果となりました。しかし調子の悪い私を救ってくれたのが、今年のチームでした。「チームに1番迷惑をかけ、そして1番救われた」ラストシーズンになりました。
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目が痛くなるほど長くなってしまいました(書いていても目が痛くなります)が、上記で述べたすべてが「飾らない等身大の自分」です。書いている最中、もっとポジティブに書こうなんて思いましたが、ネガティヴもポジティブもありません。ただ素直に、事実と私の実績を長々と述べさせていただきました。
そんな実績も結果も残せなかった私ですが、たった一つだけ「大切な宝」が1番近くに残りました。それは「私を支えてくれる人たち」です。こんなに辛かった4年間でしたが、私には支えてくれる人がいたからこそ、日々笑って、楽しく過ごすことができました。
「こんなにも素晴らしい人たちが、周りにいること」
これが私が果たせた、「4年間の最高の功績」になります。
最後に、私を支えてくれた方々に感謝を述べたいと思います。少し休憩を挟んで、見ていただけますと幸いです。
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一個上の先輩方 へ
昨年、大変お世話になったにも関わらず、なにも感謝を伝えることができず、ずっと心残りがありました。本当にこの代の先輩方には、誰よりもお世話になり、誰よりもありがたみを感じています。だからこそ、リーグ戦や大事な試合で勝利を届けることができなくて、申し訳ない気持ちがありました。卒業した今年度も、当たり前のように応援席に横並びで座っている姿を見ると、毎回私の気持ちも鼓舞されてきました。OB方の威圧感が漂う応援席で、なぜかそこだけは和やかな雰囲気が漂っていました。今かよ!って泰成さんあたりに突っ込まれてしまいそうですが、長い間とてもお世話になりました。これからも、僕のことを子犬のようにサモエド犬のように可愛がってください。よろしくお願いします。
同期へ
まずは、自分でも扱いきれない僕のことを、優しく扱ってくれてありがとう。特に塾高からのメンバーは、7年間だるい絡みや誘いに付き合ってくれた回数も多いと思います。僕はこの同期に囲まれて、本当に幸せでした。何もかもが新鮮で強いチームと戦える楽しさを知った1年目。色々あったのに気づいたらリーグ降格を経験して、あっという間に終わっていた2年目。巻き返しを図ろうとしたものの、あと一歩で昇格に届かなかった3年目。同期全員が核となって、リーグ昇格を決めた4年目。こんな4年間を、この同期で過ごせたことは一生の宝物です。同期旅行には、絶対に行きます。この場で断言します。あと、卒業しても、同期で飲み会とかいっぱいしたいです。その時にはもう一度、普段は交わりのない、川島と振津の抱擁を見てみたいものです。
後輩へ
話すと長く、そしてミーティング中に座り出す人もいる中、何かと真剣に話を聞いてくれてありがとう。こうして卒業を目の前にすると、寂しいなんて言葉で収まらないくらい寂しい気持ちになります。今いる同期や後輩は、社会に出ると違う場所で、違うフィールドで活躍することになると思います。そう思うと、今そんな素晴らしい人達が1つのチームに集まって、同じ目標に向かって、自己犠牲を伴いながら部活に励んでいるということが、どれだけ幸せで価値のある経験かということを身に沁みて感じることができると思います。
良くも悪くも部活動というのは、半強制的に目標を与えられ、半強制的にトレーニングに励みます。社会人になってからは、一生経験することない出来事が、體育會にはぎっしりと詰まっています。血を吐くような辛い陸トレ、ウエイトはもちろん経験することはないでしょう。合宿中、破裂しそうな脚の状態で、練習や試合に励むことも、社会に出てからはありません。誰かの部屋に集まって、腹を抱えて笑い、夜通し語り合うこともないでしょう。深夜練習後に、ウエイトルームに集まって、たわいもない会話をして、気づいたら日の出を迎えているなんてこともありません。友達や家族が応援に来て、満員の会場でアイスホッケーすることもないでしょう。
つまりは、部活動の一瞬一瞬が、これから一生経験することない瞬間だということです。だからこそ、その一瞬一瞬を、隣にいる仲間と一緒に、泣いて、笑って、一緒に噛みしめて行ってほしいと思います。本当にこんなに優しくて、おもしろい後輩たちに囲まれて、幸せでした。
圭之介へ
高校の時から約6年間、プライベートでもホッケーでも、大変お世話になりました。わざわざ君宛にメッセージを書くということは、伝えたいことがあるからです。
「ごめんなさい」
これを見て、「今更かよ」って思っている圭之介を、容易に想像できます。毎回のように失点しては、ベンチで身体をほぐす圭之介を見ていると、本当に申し訳なくなります。いつも良いとこだけを持って行って、圭之介には辛い場面でバトンタッチすることが多かったと思います。けど、去年の専修戦、今年の青学戦のように、誰よりも異彩を放ちながら、当たり前のようにセーブしている圭之介を見てると、先輩でありながらどこか憧れの気持ちもありました。「こんなキーパーになりたい」と。圭之介に勝っている部分は、顔のデカさと、身体のデカさくらいだと思います。圭之介はきっと、なんでこんなキーパーが試合に出るんだ。と少しは思っていると思います。いや、新年早々、本人を目の前に、メンタルを抉ってくる君だから、おそらく確実に思っていると思います。そんな可愛くない一面もあるけど、圭之介がいなかったら間違いなく今の自分はないと心の底から思います。練習で圭之介のスケーティングを見ては、すぐにパクリ、時には防具やバックまで借りて、君のプレーを吸収しました。こんな面倒くさい先輩でありながら、ずっと横並びで一緒に着替えて、くだらない会話をするのも毎回の練習の楽しみでした。残す一戦、ラスト、一緒に頑張ろうね。
立島君へ
君には、当たり前ですが、メッセージを残します。ホネと呼ばれていた高校時代から、今となっては立派な体格になりました。ウエイトルームで毎回「俺身体でかくね?」って聞いてくる君ですが、もっと成長してほしいという気持ちを込めて「なんなら小さくなってる」なんて返しをしたのを覚えています。去年まではウエイトに誘っても渋がることが多かったけど、今年は自分からウエイトに誘ってくるようになり、これ以上の喜びはありません。一緒に住んでいたこともあり、バイト先も一緒で、練習の行き帰りの車も同じで、大学時代の楽しかった思い出には、全部君がいました。きっと、この文章に書いてある文を復唱して、馬鹿にされる未来も見えていますが、立島なしには人生語ることができません。来年から、ウエイトのモチベーションがより高くなってボディビルダーみたいになってしまったら、君に「エルプリモ」という称号を与えたいと思います。本当にたくさんの幸せをありがとうございました。
武司さん、信雄さんへ
お二方のもとで、プレーできて、アイスホッケーのおもしろさに改めて気付かされるきっかけとなりました。信雄さんは、いつも愛のあるいじりをしながらも、試合中は誰よりも僕の心に寄り添ってくれました。信雄さんに届けることができた専修戦の勝利は、いつもより何倍も嬉しかったです。もう信雄さんの「よし!かずき!いくぞ!→集中ポーズ」を聞けなくなると思うと、本当に引退するのが辛くなります。4年間、Big Winを届けることができず申し訳ない気持ちもありますが、信雄さんの信念のようなものは完全に学べました。これから学んだ信念を忘れずに、何事にもチャレンジしていきたいと思います。ありがとうございました。
武司さんには、僕が送迎を始めてからの3年間、深夜練習後のラーメンに連れて行っていただき、そのほかのプライベートでもよく食事に連れて行っていただきました。個人的には、春の早慶戦前に連れていってくださったココスが1番の思い出です。アイスホッケーに対して、何もかも後ろ向きになっていた私の背中を押していただき、どうしようもなかった自分のプレーを取り戻すことができました。その他にもここで書いてしまったら、収まりきれないくらい支えていただき、この4年間の體育會生活がより一層色鮮やかなものになったと感じています。卒業後も、一緒にラーメンをすすりたいです。本当にご馳走様でした。そしてありがとうございました。これからも、よろしくお願いいたします。
家族へ
22年間、何不自由なく、こんなに大きく育ててくれてありがとう。
にいちゃんには、悪いことも良いこともすべて教えてもらいました。地元に帰って遊ぶ人がいない時や、ふらふらとこっちに来た時に、よく色んなところに連れて行ってくれてありがとう。春に帰った時に「新潟行くぞ」って急に言われた時は、本当に頭がぶっ飛んでるって思ったけど、めっちゃ楽しくて良い思い出になりました。次はどこに連れて行ってくれるのかな。楽しみにしてます。
母さんは、よく「で・ん・わ・に・で・ん・わ」ってLINEを送ってきました。いつも電話してくる時間に寝てしまっているのは、本当に申し訳ないって思ってます。けどめっちゃ寂しくなったら電話したくなるのも、母さんです。母さんに電話をかけると、毎度のことのように長電話になっちゃいます。母さんもよく暇な時に、遊びに付き合ってくれて感謝してます。そして何より、ホッケーや塾で毎日のように送迎してくれて、ほかほかのご飯を食べさせてくれてありがとう。次帰った時も、ご馳走をよろしくお願いします。あとちゃんとヨガもサボらないで行ってください。
父さんは、よく小学生の頃から、2人で色んなところに行って、家族の中でも一緒に過ごすことが多かったなあって思います。自転車で色んなところに行ったり、釣りに行ったり、にいちゃんの試合に遠くまで一緒に応援に行ったり、こういう経験があるからこそ、今になっても訪れたことのない色々な場所に行きたくなります。よく練習に行く車の中で、ミスチルの曲を一緒に歌っていたのも鮮明に思い出せます。対向車線にいた車の運転手に笑われたこともありましたが、ミスチルの「gift」を聴くと、昔の思い出がいつになっても一瞬で思い出せます。兄弟2人で関東にいた時期に、さすがに寂しくなってメダカを大量に飼い始めた時は、さすがに心配になりました。あのメダカたちは、今は何万匹になっているのか、帰省した時のプチ楽しみになってます。
青瑚へ
とうとう、ダイアリーも1年間辛い場面でも鼓舞し続けてくれた、主将の君にバトンタッチします。まずは責任の重い主将という役割がある中で、毎試合のように得点してチームを鼓舞して、1部A昇格の景色を見せてくれてありがとう。4年間、青瑚の得点には1番救われていました。得点した後に、「頼んだぞ」なんて君から言われたら、どんなに調子が悪くても、死ぬ気でその得点を守る気になれました。よく1年生の時から、試合が終わるとすぐに集合して、「今日の試合は〜だった。」なんて語り合って、今になっても一緒に飲みに行っては「今のチームは〜だよね」なんて語り合っています。こんな日々があったからこそ4年間どんなに苦しくても乗り越えることができたなって思います。青瑚が主将のチームじゃなかったら、、、、なんて考えると、とても冷や汗をかいてしまうくらい、主将の存在は大きかったです。青瑚のもとでプレーすることができたことは、何にも代えることができない大切な宝物です。小6からの付き合いも、次の試合で本当に最後になるね。