平素より大変お世話になっております。
昨シーズン副将を務めました、野田稜雅です。
引退して3週間が経とうとしていますが、いまだに引退した実感が湧きません。
10月に入ったら、また部活始まるのか、なんて思っている自分もいます。
後輩たちは、部活があるけど、自分はない、そうなったらきっと引退したんだなと実感するのだと思っています。
引退ブログということですが、
僕は、偉そうなことを言えるほどの人ではないので、7年間の葉山人生を振り返って、素直に感じたことや、仲間への想いを記していこうと思います。
書き物が相当苦手なので、長文駄文となってしまい大変恐縮ですが、最後までお付き合いいただけますと、幸いです。
僕は、高校一年生の時に、葉山の門を叩きました。
と言っても、当時高校3年生の飯田さんにいきなり手を引っ張られて、葉山の説明をされて気づいたら入部していました。
水泳経験はほとんどありませんでしたが
「海で泳げるの楽しそう」
「葉山部門ってなんかおもろい名前だな」
という超絶薄い理由で入部を決めました。
今思えば、あの時の直感は正しかったなと心の底から感じています。
高校生の時は、色んなことを経験しました。
琵琶湖縦断、二度の完泳、高校主将、コロナ。
楽しいことも、辛いことも経験できて、いい青春だったと思います。
コロナ禍とはいえ、なんとなくやりきった感もありました。
大学では、新しいことをしよう。
そう思っていました。
ラクロスの練習なんかもしていました。
ラクロスの練習をしながら、なぜかいつも葉山のことを考えている自分がいました。
新歓大丈夫なのかな。
部員6人でやっていけるのかな。
2月ごろには、矢沢さんと飯田さんに新歓の手伝いだけさせてほしいと連絡しました。
少し話をしようと食事に連れていってもらい、気がついたら何故か飯田さんと握手をし、翌日には入部していました。
「葉山、まだやり切れてないな。」
「今の葉山、チャンスじゃん。」
何の根拠もありませんが、直感的にそう感じ、もう一度葉山を続ける決意をしました。
やはり飯田さんは、人を惹きつける力があるのだと思います。
この力に何度救われたことか。
感謝してもしきれません。
4人の同期とも出会え、迎えた最初の夏。
もちろん楽しい場面もありましたが、
今振り返ると苦しい記憶の方が、蘇ってきます。
第一遠泳の中止
第二遠泳の洋上ゴール
成功したのは第三遠泳だけ。
竹下も書いていましたが、葉山―大磯の第二遠泳は思い出したくないほど、苦しい遠泳でした。
高校生はコロナによる活動制限で参加すらできず、
泳いでも泳いでも江ノ島には全く近づかないし、
挙句の果てには相模川の増水で、前すらも見えない。
絶望とは、このことを言うのだろうと思いました。
しかし、この時の失敗が後の葉山―伊東に繋がります。それだけ忘れられない遠泳でした。
大学2年になる直前
僕は部活を辞めるつもりでした。
5人だった同期が3人になったり、
自分がやりたいことがわからなくなったり、
部活を続ける理由が分からなくなったり。
てか、葉山って何だよ。
完全に自分が分からなくなっていました。
迷惑をかけないためにも、せめて4月の新歓だけ頑張ってその後に退部しよう。
そう思い、退部のことを話そうと宇佐美コーチに相談しに行きました。
寒空の下、何時間も僕のどうしようもない愚痴に付き合っていただきました。
話をしている中で、宇佐美さんからあることを聞かれました。
「でさ、稜雅は葉山の何が好きだったの?」
咄嗟には出てきませんでした。
宇佐美さんとお話をしていく中で、自分の好きなことを考えました。
出てきた答えは、「遠泳」でした。
その後は、ずっと遠泳の話をしました。遠泳の魅力や、難しいこと、楽しいこと、失敗したこと。やっぱり自分は遠泳が大好きであることを思い出しました。
そして、遠泳の更なる醍醐味を味わうためにもう一度立ち上がる決心をしました。
高校葉山の後輩たちも入ってきて、この夏はとても賑やかで楽しかった記憶があります。
駿河湾横断も成功し、遠泳っていいな、いつか自分もこんな遠泳を成し遂げてみたいと感じるようになりました。
遠泳の虜になったのも、この頃からだったと思います。
実は、この頃から他のことにも挑戦していました。
体育会本部です。
葉山のことをもっと色んな人に知ってもらいたい
他の部活のことを知ってみたい
と思い、志願しました。
本部で活躍されていた小林さんの影響も大きかったです。葉山の活動も頑張りながら、体育会全体を盛り上げるために活動している姿に憧れていました。
部活や本部のメンバーには、数えきれないほどの迷惑をかけてしまいましたが、本部活動を通じて沢山の仲間に出会え、沢山の刺激を受けました。
本部での経験は、
僕の体育会生活を語る上で無くてはならないものになったし、
大きな財産となりました。
本部員の皆、体育会生の皆ありがとう。
遠泳の話が出始めたのも、大2の終わり頃でした。
確か、春合宿だったと思います。
三木と前田と自分達の遠泳について話していた時に、三木が
「遠泳って『遠くに泳ぐ』って書くやん。だから、より遠くを目指したい。」
と言い始めました。
やっぱりこいつは脳筋だと思いました。
でも、なぜかそれと同時にとてもワクワクしたし、めちゃくちゃいいじゃんと肯定していました。
他にも、慶應義塾や、體育會の理念の話をしました。
その中でも、大事にしたいと話していたのが、
「練習ハ不可能ヲ可能ニス」
という言葉でした。
體育會生として、この言葉を信じていたし、自分たちも体現してみせたいと強く感じていました。
そこで、出てきたのが
「同一泳者による過去最長」×「新海域」
です。
限りなく不可能に近かったかもしれない。
夢物語だったかもしれません。
けれど、史上最高にワクワクしたし、必ず自分たちでこの遠泳を成し遂げると信じていました。
大3の夏も上手くいかないことばかりでした。
2年連続の長時間リタイア。
「あー、自分って泳ぐの向いていなんだな」
勝手に自分を正当化していました。
2年目は涙すら出ませんでした。
だから、自分達の代では、選手は諦めて学生責任者として指揮船に乗ろうと思っていました。
でもなぜか、幹部決めMTGの時には、「部運営も頑張りたいし、第一遠泳も完泳したい。」と言っていました。
今考えれば、欲張りで自分勝手だったと思います。
第一遠泳を完泳する実力もないくせに、大口を叩いてばかりでした。
それなのに、副将を拝命しました。
正直驚きました。
初めはこの役割の重要性について、あまり理解できておらず同期とも揉めました。
新シーズンが始まる前日には、同期で大喧嘩をしました。
今思えば、完全に僕が悪かったと思います。ごめんね。
でも、あれがあったから副将としての自覚が芽生えたし、ラスト一年死ぬ気でぶつかってみようと思うことが出来ました。
そして、葉山生活7年目のラストシーズンが始まります。
遠泳に対するワクワクが消えることはありませんでしたが、
泳力面での不安や、計画面での不安に押しつぶされそうな毎日でした。
ヘルニアにはなるし、第一遠泳長時間は2年連続でリタイア。
だけど、計画しているのは65km。
口では絶対完泳すると言っていたものの、内心本当に怖かった。
この不安に打ち勝つためにやることは、一つでした。
練習するしかありませんでした。
一つ一つを全力で
愚直に
昨日よりも速く
結果にこだわって。
ただただ、それだけでした。
いたって当たり前のことだけど、
この当たり前をいかにこだわるか。
泳力面では、少しずつ練習の成果が目に見えてきて、毎日が楽しかったです。
一方で、部運営や遠泳計画は、常に背水の陣でした。
「ここが正念場。」
何度言われたことでしょう。
一つ壁を乗り越えたと思えば
さらに高い壁が立ちはだかる。
その連続でした。
冷静に振り返れば反省点だらけで、
壁を乗り越えるどころか無理やりぶち壊して、
何とか前に進んだこともありました。
これが正しかったかどうかは、わかりませんが、
最上級生4人で必死に闘って、もがき続けた日々は青春そのものでした。
第一遠泳の実施に至るまでには、ここには書けないような事件も沢山ありましたが、
ついに“その時”を迎えます。
この2日間は、人生史上最も濃い48時間でした。
泳者
サポート
コーチの皆様
應援指導部の皆
船頭の北村さん
地元漁協の皆様
OBや保護者の方々をはじめとする応援してくださった皆様
全員の想いが一つになった瞬間でした。
一つでも歯車がずれれば、止まっていたかもしれない。
まさに総力戦でした。
8月9日17時28分。
沢山の方々の声援を受け、泳者12名がゴールである宇佐美海水浴場に到着し、第一遠泳は全員完泳で成功しました。
この景色をたどり着くまでの道のりは、65kmという数字以上に長いものでした。
本当に長く、逃げてしまいたいと思ったことも何度もありました。
楽しいことより、辛いことの方が多かったと思います。
でも、
あの日の葛藤も、
あの日の挫折も、
あの日も絶望さえも、
全てがこの日のために、
この瞬間のためにあったのでしょう。
地に足がついた瞬間、今までの全てが込み上げてきて、涙が止まりませんでした。
第三遠泳も、第二遠泳も全泳者完泳。
全遠泳全泳者完泳。
ついに成し遂げました。
諦めなくて良かった。
7年間、もがき続けて良かった。
葉山部門の一員になれて、良かった。
長くなってしましましたが、最後に7年間の感謝を伝えさせてください。
鈴木先生・監督・コーチ・OBOGの皆様
7年間本当にお世話になりました。
生意気なクソガキで扱いづらかったと思います。沢山ご迷惑もおかけしました。
それでも、最後まで支えてくださり、本当にありがとうございました。皆様のご支援のおかげで、やりたいことを全てやり切ることが出来ました。
島影さん、江川さん
合宿を楽しむことが出来たのは、お二人のおかげです。館山は、僕にとって第二の故郷です。きっと夏になると、館山に戻りたくなると思うので、その時はまたよろしくお願いします。
松本さん
高校一年生の頃、あなたと出会えたことが僕の葉山の原点です。
「やりたいことをやればいい。」
この言葉にいつも支えられて、前に進むことが出来ています。くだらないことも、相談事も語り合える兄であり、恩人であり、一生の師匠です。これからも変わらず生意気ですが、よろしくお願いします。
宇佐美さん
どんなに道を踏み外しても、支えてくださりありがとうございました。葉山人として、體育會者として、人として憧れています。宇佐美さんを超えたいという思いで必死に部活と本部に向き合い続けました。宇佐美さんの叱咤激励があったからこそ、葉山も本部も120%で頑張ることが出来ました。まだまだ学ぶことが多いので、これからもよろしくお願いいたします。
後輩たち
「出る杭は打たれる」
でも、それでいいと思う。
打たれてみないと分からないことだってあるし、打たれてはじめて強くなれると思う。
自分たちの信念を強く持って、やりたいことを実現するためにもがき続けてみてください。
そしていつか、打たれても負けないだけの杭になってください。
みんなと一緒に部活できて良かった。
心からありがとう。
一番近くのOBとして、皆のことを応援しています。これからの葉山に栄光あれ。
同期
濃すぎた4年間だったね。
辛いことばかりで、ぶつかってばかりだったけど、最高の景色を4人で見ることが出来て良かった。
そして、ワガママな僕を見捨てずにいてくれてありがとう。
この4人じゃなければ、最後まで泳ぎ続けられなかったと思います。
早く「克ッ」飲みに行こ。
家族
1番迷惑をかけたのは家族のみんなでしょう。どんな時でも一番の理解者でいてくれて、やりたいことを尊重してくれてありがとう。最後の遠泳に駆けつけてくれた時は、本当に嬉しかったです。これからもさらに迷惑をかけることになるけど、一生よろしくお願いします。
“轍さえもない道をただ進め”
僕が駆け抜けてきたこの7年間で、どんな轍ができたのでしょうか。
きっと綺麗なものではないでしょう。
ガタガタで、何度も行き先を変えていることだと思います。
前に進まないどころか、後ろに押し戻されることすらありました。
それでも
泥臭く、がむしゃらにもがき続けた経験は
不細工かもしれないけれど
轍として残っています。
その轍に後悔はありません。
僕がこの葉山部門を選び、闘い続けた証だから。
引退ブログ、ラストを飾るのは、主将の三木絃士朗です。
昔、「お前が嫌いだ」という手紙を書いたことがあったよね。
(本文は、そんな内容ではないけどな!)
嫌いなこともあったけど、間違いなく絃士朗が同期で良かった。
絃士朗が主将で良かった。
心の底から尊敬しているし、信頼しています。
僕が知っている中で、間違いなく一番熱い漢です。
ラストよろしくな。
葉山に出会えて、良かった。
これまでの全てにありがとう。
2024年度慶應義塾體育會水泳部葉山部門
副将 野田稜雅