武節城跡へ行ったとき、史実を調べてありました。
そのせいなのか、気が重く、何度も何度も道に迷い、一時間ほど迷って、ようやく見つけたお城跡でした。
寒狭川沿いにある国道257号線沿いに建つ田峯郵便局の反対側から登っていくのですが、車一台がようやく通れるような細い坂道。
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&gl=jp&sig=fbw&ie=UTF-8&q=%E6%AE%B5%E5%B6%BA%E9%83%B5%E4%BE%BF%E5%B1%80&fb=1&cid=15993869160224968396&ei=OV0uU-AehuCQBezLgcgH&ved=0CAkQ5xg
かなりの勾配ですし、蛇行した道を登るのは大変でした
まぁ、ドライバーは後退りしない家族だったので無事に往復できましたが
長篠の戦いで敗走する者(武田勝頼ら)には標高が高いですし、かなり苦しい坂道だったと思います。
私にとっては、登城するのを拒絶されているような感じさえ受けましたね。
なので、心理的には、すでに郵便局前あたりが堀切状態
さて、前しか見えない家族の運手、どんどこどんどこと先へ先へと進みます。
絶壁沿いを走行するわけですから、こちらはヒヤヒヤ
ようやく開けた場所に出たと思ったら、こんな高いところに集落が
もしかしたら、昔からずっとここに住んでおられる方々の集落なのかも。
あたりは静岡県に来たかのように茶畑ばかり。
そして、ようやく田峯城跡駐車場(曲輪跡だと思いますが)を発見
案内図を見る。
曲輪跡があちこちにあるようです。
駐車場(曲輪跡)から見る本丸の切岸は絶壁で、お堀も深かったのでゾッととしました。
竹藪でなかったらもっと深さを実感したことでしょう。
曲輪と空堀が幾重にもある山側の様相も、かつては凹凸が激しいものだったと思います。反対側は渓谷です
天然の要塞でした
それなのに、なんとなく居心地のよい感じがする城域でした。
作手亀山城もそうだったんですが、なんとなく長閑な感じがあるんですよね。
それにしても、これだけ堅牢な要塞をもってしても田峯菅沼城を絶やしてしまう「人の心(恨み)」
田峯城跡石碑
田峯城縄張図
駐車場から本丸を見る
模擬主殿が建っていました。史実を忠実に再現した建物ではないようですが、立派なお館です。
駐車場(曲輪跡)から堀を渡る橋。この写真向かって右側へいくとお堀と切岸が絶壁のように深くなっています。
登城路右手側の切岸
駐車場(曲輪跡)からお城跡とは反対側の山々を望む。手前のお堀跡に民家が
登城路左手側の表曲輪 現在は茶畑になっています。静岡県に来たような錯覚を覚えました
登城路右手側の無名曲輪。この曲輪は特別な名前がついていたわけではないようです。
登城路左手側の表曲輪と切岸
表曲輪の上段にある井戸曲輪。掘った井戸ではなく天水を溜める貯水槽のようなものがあったようです。
模擬本丸主殿を見上げる。夕陽にあたってきれいです。
本丸への登城途中にあった大木
本丸主殿。入場料が必要ですし、午後5時を過ぎていたので閉門された後でした。
ちょっと柵の間から覗いてパチリ
奥に「田峯城址」の石碑が見えます。
本丸から下の曲輪を見下ろしたところ
蔵屋敷
畷曲輪 :狭い面積の曲輪であることをあらわす「畷」の字が使われています。
道寿曲輪(五代城主菅沼定忠とともに長篠の戦いに出陣した家老、城所道寿の屋敷跡。この城所道寿は、長篠の戦いで定忠とともに敗走し、この田峯城に帰還したが、入場を拒絶され、1年後、定忠とともにリベンジに戻る人物。かつ、田峯田楽を導入した人物でもある。)※
菅沼定忠は、武田勝頼と家臣数名とこの家老とともに長篠の戦いで敗走して、この自分の城である田峯城に戻った。
ところが、オジである定直(定忠がまだ幼いとき殺されるのを救って育てた)は徳川方につくべしと考えていたので、武田方につく定忠らを閉門して締めだしてしまった。
我が家が田峯城跡に訪れたときも、午後5時過ぎで閉門されていて中に入れませんでしたからね・・・。
あまり行きたくない場所だったので、「じゃ、帰ろう」なんてさっさと帰ってこれましたが、あの城だけが目的で行った場合は悔いが残ってしかたなかったと思います。
敗者の立場としてみたら、それはそれは、はらわたが煮えくりかえることだったと思われます。
その後、川沿いを走り、設楽町役場を抜け、田口を抜け、武節に入った我が家。
途中には段戸山があり、のどかな高原がありました。
途中の民家は、まだまだ昔の風情を残したままだったので、古来の意識はそれほど変わってはいないように思います。
城について知りたかったら、その土地の見識ある古老の方とお話をしなければ真意はつかめませんね。
田峯城跡の場合、お手入れがとてもきれいにしてありましたし、あたりの畑や民家の様子も整然としていました。
きちんとした民意を感じます。
また、城跡を大事にしているということで、菅沼家を大事に思う気持ちも大きいのだと思いました。
戦乱さえなければ、善政をしいた田峯菅沼家なのではないかと思います。
参考)
http://www15.ocn.ne.jp/~yawa/menew/mikawa/shiseki/higashi/damine.j/damine.j.html
http://www.shitara-trail.jp/history/daminejo/
http://sitarakankou.on.arena.ne.jp/castle.damine.htm
http://www.youtube.com/watch?v=b0VK_tIq6cI
※ 田峯田楽について
http://www.google.co.jp/gwt/x?gl=JP&u=http://sitarakankou.on.arena.ne.jp/daminedengaku.htm&hl=ja-JP&ei=21FKU7rYBcKolAWS5YDQDw&wsc=tb&ct=pg1&whp=30
愛知県北設楽郡設楽町田峯にある田峯観音は、文明2年(1470)田峯に城を築いた「菅沼三郎左衛門貞吉信濃守定信」が城鎮護の為京都より本尊十一面観世音菩薩を勧請した事に始まる。この田峯観音祭礼のため、永録2年(1559)田峯城の城代家老「城所道寿」により導入されたのが、重要無形民俗文化財に指定され、現在伝承されている田峯田楽である。
(設楽町観光協会HPより抜粋)