先日、手に入れました。
発掘調査されたお墓は深溝松平家第7代松平忠雄。
肥前島原藩主第2代でもあります。
お墓が、台風の影響で傾いたため修復する際、発掘されたようです。
資料写真によれば、みごとな副葬品の数々です。
旧 愛知県額田郡幸田町深溝
この資料を知ったのは某新聞記事から。
ずっと欲しいとは思っていましたが、この地にある歴史資料館でやっと購入できました。
東大教授 鈴木尚氏が書かれた『骨は語る 徳川将軍・大名家の人々』という本を読んでから興味を持っていたので。
深溝松平家の資料を買い求めた後、その近くにある深溝松平家の墓所「本光寺」に寄り、歴代のお殿さまが代々眠る墓所を見学させていただきました。
見学料として、さい銭箱にお札一枚投入させていただきました。
ほんとは300円でいいんですが、小銭は200円しか持っていなかったので^^;
気持ちは、昭和20年に起きた三河地震で土壁が一部崩れてしまっているのを修復するための工事費としての寄付。
墓所に入ってみると、地震により土壁の造りが露わになっていました。
まるで泥を団子にしたようなものが、土壁の中に詰めてあり、その上を化粧壁のように塗ったものが土壁となっているのがわかりました。
修復しないのは、三河地震の爪跡を残すという意味があるのでしょうか。
深溝断層も見てきましたが、逆断層は谷合で露呈されていましたが、土に覆われてわかりにくくなっています。
が、ポールを立ててありますので、その場所だったと特定はできます。
深溝松平家は肥前島原藩を治めていたが、任地で亡くなった場合でも、遺骸は幸田の深溝まで運び、本光寺に埋葬したとのこと。
19代まで眠る墓所とか。
脈々と受け継がれてきた遺志。
古い日本が、幸田には確かに息づいていると思いました。
本光寺参道
本光寺山門
肖影堂(5代忠利公)
深溝松平家第1代~4代の墓
肖影堂(5代忠利公)
願掛け亀
本堂
~19代の墓所への門
第7代 松平忠雄の墓(発掘後修復された状態)
三河地震の影響で壊れた土塀
* 墓所入口の案内板には下記のように記されていました。
・全国にもあまり例の少ない神殿石造り
・深溝松平家の九州島原城での役目に長崎港監視と、九州諸大名
の監視九州探題という)であった。
・代々の殿様が亡くなると、島原本光寺で戒名をつけ、御遺体船
で蒲郡まで運び、行列を整えてここに入られた。
先祖発祥の地に葬ることが家伝であった。
・墓前の平たい石は小判石といわれ、岡崎東方の乙川に産し、
当家由緒の保母小美地区で採られたと推察される。
http://www.kota-kanko.jp/history/fukouzufault.htm
http://www.shimabarajou.jp/
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E6%BA%9D%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%AE%B6