こんにちは、Keikoです。

 

Story of Life 私の人生 

前回の記事はこちら 第76話:リハビリ生活

 

今日は、リハビリ生活当時の私生活について、お話をしようと思います。

 

リハビリ生活をしていた1年少しの間に、本当に沢山の出会いと学びがあり、皆さんにサポートしていただいたお陰で、社会復帰を果たすことが出来ました。

一方私生活の方も、この1年間で、本当に色々なことがありました。

 

まずは、母との月山登山のお話です。

この年の梅雨明けに近い頃、母から突然「月山に登リたいから、一緒に行かないか」と誘われました。

登山といえば、中学時代の林間学校が最後だったし、行ってみたいという気持ちもあったのですが、何しろ「ブランク」が長すぎて、不安もかなりあり…

ただ、東北新幹線に乗ってみたかったこと、手術後の体力回復度を知りたかったこと、母が珍しく誘ってきたことに対する「興味」みたいなものもあり、8月のお盆前に行くことになりました。

旅費は、母が全部出してくれると言い、全て手配をしてくれることになりました。

いつもと違うことに違和感を覚えつつも、有り難く母の申し出を受け入れることにしました。

 

さて、梅雨が明け、8月になり、2泊3日の旅の始まりの日がやってきました。

当時、新幹線は大宮始発だったから、朝7時前に上野駅から「リレー号」に乗り大宮まで行き、そこから新幹線に乗換です。

初めて乗る東北新幹線、終点の仙台まで、車窓の景色に大興奮の私達親子(爆)

 

 

仙台から山形までは在来線で行き、バスを乗り継いで、私達親子には似つかわしくない「おしゃれなペンション」に、夕方到着しました。

夕飯は、これまたおしゃれなフレンチで、とてもおいしかったけれど、かなり緊張して食べた記憶があります(笑)

 

 

ペンションの方に、月山の登山ルートについて詳しく教えてもらい、志津口からリフトを使うコースを選択することにしました。

慣れた人で片道3時間半くらい、登山道は割と整備されているけれど、夏場は濃霧で見晴らしはあまり良くないとのことで、休憩含めて往復8時間を想定しました。

お弁当を作ってもらえることになり、朝7時に出発してリフト乗り場まで、宿の車で送ってもらうことになりました。

母は、独身時代に登山を趣味としていたため、装備についてはかなり調べて準備した模様で、宿の方からも「これだけしっかりしていれば大丈夫」とお墨付きをいただきました。

 

翌朝は5時半に起床して支度をし、少し早めの朝食を食べて出発しました。

生憎、天気は曇り模様。リフトでスキー場を上り、そこから登山開始となりました。

途中はずーっと濃霧で、合羽を着ないとびしょ濡れ状態。

標高が上がると、気温もかなり下がってきて、立ち止まると寒かったです。

登山コースの中では、かなり楽な方だけど、途中かなり急勾配で足元が悪い箇所があり、視界が良くないから本当に怖かったです。

それでも、山頂まで4時間弱で到着出来ました。

月山神社でお祓いをしていただき、作ってもらったお弁当を頂きました。

神主さんにお話を伺ったところ、完全な晴天は夏の間で3日程度しかないとのこと。

濃霧で山頂からの景色が見えないことがとても残念だったけれど、日本百名山の1つを制覇できたことに感動しました。

また、手術後初めての登山でも、息切れもせず、具合が悪くなることもなかったことで、「完全復活」に近づいたという自信にも繋がったと思います。

 

 

帰りは、元来た道を戻りました。

途中、湯殿山から来たグループと遭遇して、少しお話しました。

母と「いっそ出羽三山を縦走すれば良かった」と、話しながら下山しました。

往復8時間弱、ほぼ想定通りで往復出来たので、母と2人で達成感に浸りました。

宿に戻り、釣りたての岩魚を焼いて頂きました。

とても美味しかった!

お風呂にゆっくり浸かり、美味しい夕飯を頂き、早々に寝落ちした2人。

翌日は、筋肉痛がすごかった!

宿でお昼前くらいまでのんびり過ごし、バスで山形まで。

お昼を食べて、ずんだ餅や玉こんにゃくをお土産に買って、東京に戻りました。

 

思い返してみれば、この時母は55歳。

今の私の年齢より少し若いとはいえ、普段運動らしいことはしていなかったから、体力的には大変だっただろうなぁと思います。

また母は、この年の冬あたりから体調が悪いと言い出し、翌年の春に「末期に近い直腸癌」と診断され、人工肛門を付けることになります。

結果として、手術後3年で他界しましたから、後にも先にも、これが母と2人の最初で最後の登山となりました。

もしかすると、私を月山に誘った時点で、どこかしら体調の変化を感じていたのかも知れません。

母の闘病時代については、後日詳しくお話ししようと思います。

 

さて、お付き合いしていた彼についてもお話ししないといけませんね。

彼は、3月に国家試験を受験して、無事に臨床検査技師養成所を卒業しました。

4月から、筑波学園都市にある検査センターに検査技師として就職が決まり、卒業と同時に引越ししていきました。

なかなか会うことは出来ないとはいえ、今まで同じ沿線に住んでいましたが、かなり遠くなってしまいました。

 

この年は、つくば万博が開催されたこともあり、交通の便はかなり改善されましたが、それでも常磐線の土浦からバスで40分のところ、しかもバスは1時間に2本しかない!家から片道3時間以上掛かりました。

私の方は、事務局のお手伝いしかすることが無かったから、毎週1度は事務局の仕事が終わってから筑波に向かい、数日一緒に過ごして東京に戻るという感じで往復していました。

彼が仕事に行っている間は、掃除や洗濯をしたり、近所のスーパーに買い物に行って食事を作ったり、万博公園に散歩に行ったりして過ごしていたから「通い妻」状態だったかも知れません(笑)

 

万博が終わり秋になった頃、万博関係者が使用していた宿舎が、賃貸住宅になるということが分かり、冗談抜きで引越しを考え始めていたのですが…

10月になり22歳の誕生日の時、彼から2つ話がありました。

1つは、高齢のお母さんが弱ってきているので、富山に戻るつもりで転職活動を始めたということ。仕事が決まり次第、富山に帰るという決断をしたということ。

もう1つは、結婚して富山に一緒に来て欲しいということでした。

誕生日の「告白」だから、プロポーズといえばそうなのかも知れないのだけど…

確かに双方の親公認で、3年半付き合ってきたから「結婚」するかも知れないとは思っていたものの、「仕事が決まり次第、富山に付いていく」は、全くの想定外で、晴天の霹靂状態(驚)

彼のことは大好きだし、嬉しいといえば、嬉しいのだけど、私も一人っ子。

自分の両親のことも考えなければならないし、その場で返事をすることが出来ず、「少し考える時間が欲しい」と告げました。

 

結論を先に言ってしまうと、彼は12月に富山での仕事先が決まり、年末に引越しして、翌年の1月から富山での生活をスタートしました。

その時点で、母の病状が良くなかったこともあり、結果的に私が出した結論は「結婚はしたいけれど、親を置いて富山には行けない」でした。

決して「仲良し親子」では無いし、その後かなり「酷いこと」をしてしまったけれど、それでも東京(関東)を離れるという決断は出来ませんでした。

誕生日から2ヶ月半悩みに悩んだ結論を、彼は受け入れてくれました。

 

彼が東京を離れる日、上野まで見送りに行きましたが、私は最後まで泣き続けたことを覚えています。

嫌いになって別れた訳ではないし、もう「2度と恋愛は出来ない」と思いました。

そして「このまま、ずーっと一人で生きていくんだ」という決意のようなものが生まれていました。

もしあの時、結婚して富山に行っていたら、私の人生はどうなっていたのだろう?

 

 

余談ですが、彼はその後良き伴侶を見つけて結婚し、お子さんも生まれ、富山で幸せに暮らしています。

お互いに別の道を歩む結果となりましたが、彼と一緒に過ごした4年弱の日々は、私にとって、生死も掛かった一番辛かった頃です。

そんな私を、ずっと側で支え続けてくれた彼のことは、本当に大好きだったし、今でも感謝の気持ちしかありません。

この時、私の中では「青春の1ページ」の幕が下ろされたのでした。

 

〜続く

 

今日はここまでです。

次回は、第78話:青天の霹靂〜母の病 に続きます。

 

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

またお会いしましょう♪