2017年10月12日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第76回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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エンマ大王はお見通し 総選挙ファクトチェック開始

 

 8日に行われた党首討論会で、加計学園問題について日本記者クラブ企画委員から質問された際に、安倍首相は「国民はよくファクトチェックをしてほしい」と発言した。首相は朝日新聞を名指しし、衆参両院の閉会中審査に参考人として出席した加戸守行・前愛媛県知事の証言について「次の日には全く(報道)していない」と指摘したのだった。ちなみに、首相の今回の発言をめぐってさっそく“ファクトチェック”が行われ、朝日新聞は7月10日の閉会中審査翌日に加戸氏の発言を掲載していたことが、メディアで報じられた。

 

 22日投開票の総選挙に向け、候補者もその周辺もさまざまな発言を繰り広げている。その言説が事実に基づくかどうかを知ることは、有権者の投票行動に大きく影響する。フェイクニュースという言葉が頻繁に飛び交う今、首相も推奨するファクトチェック、つまり言説や情報の真偽を検証する活動は重要になっている。

 

 先月半ばの本コラムで、ファクトチェック・イニシアティブ(FIJ)という団体に私も関わっていると書いた。これは、協力する団体や個人を募り、ガイドラインを示して、ファクトチェックの概念を広めていくことを目指す団体だ。FIJの初めての活動として、総選挙に関わる言説のファクトチェックのプロジェクトを始めた。

 

 プロジェクトには複数のメディアが参加し、今回の総選挙に関連して事実かどうか疑いのある言説・情報について、自らの責任でファクトチェックを行い、それぞれのサイトで記事を発表する。そのうち、FIJの評価委員がガイドラインに一定程度準拠していると判断すると、FIJのサイトにも掲載される仕組みとなっている。

 

 今回のプロジェクトには、BuzzFeed Japan(古田大輔編集長)、GoHoo(楊井人文編集長)、Japan In―depth(安倍宏行総編集責任、山口一臣・本プロジェクト編集長)、ニュースのタネ(立岩陽一郎編集長)、ポリタス(津田大介編集長)が今のところ参加することになっている。既に、安倍首相や小池百合子東京都知事、松井一郎大阪府知事の発言などを対象にファクトチェックを始めた団体もある。

 

 ファクトチェックが盛んな米国のワシントンポスト紙では、ファクトチェックの結果をウソつきの象徴とされるピノキオの顔で示す。最もウソの度合いが激しければ「4ピノキオ」となる。これにならったのが、大阪を拠点とするニュースのタネ。ウソつきの舌を抜くエンマ大王の顔を使うことになった。

 

 「真っ赤なウソ」の場合には4人のエンマ大王が並ぶ。ちなみにこのエンマ大王は、東京都内の中学校に通う女の子が描いた。ファクトチェックの知名度が増すと同時に、このエンマ大王の顔も知られてほしいものだ。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

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2017年10月5日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第75回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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総選挙でなぜ府議会が休会? 地方の問題が置き去りに

 

 大阪に住んでいる私は、大阪府や大阪市、勤務先の大学がある東大阪市と八尾市など、この地域の地方自治体がどのように運営されていくのか、いつも気になって仕方ない。それと同時に、そういった地方自治体のトップである知事や市長、そして議会でさまざまなことを決めてくれている議員の人たちの仕事ぶりにも注目している。

 

 近頃は首長、議員の人たちがネットで情報発信するケースも多い。たとえばツイッターで発信している内容を見ていると、彼らがいまどんなことを考え、どのような活動をしているのかなどがよくわかるので、そういった情報発信は便利に活用している。

 

 さて、突然降って湧いたような話だった衆議院選挙の投開票日まで、あと2週間余りとなった。彼らがネットで発信する内容にも選挙に関連したものが多くなってきた。言うまでもないが、今回行われるのは国政選挙であって、地方自治体のトップや地方議会のメンバーである彼ら自身の選挙ではない。とはいえ、所属政党から出馬する仲間たちのゆくえが気になってさまざまな活動を行うのは、ある程度やむを得ないこととも言えるだろう。

 

 しかしながら、驚いたし疑問にも感じるのは、総選挙終了まで大阪府議会が休会となったことである。府議会の議会運営委員会で議会日程の変更が提案され、これに維新と公明が賛成。自民は反対したが衆院選中の休会が決まった。日程変更の理由は明らかにはされなかったが、背景に衆院選があったのは誰の目にも明らかだったという。

 

 本来、国政と地方は全く別物である。国政で扱う分野と地方議会が扱うそれとは内容も次元も別という理由がまずあるが、それに加えて、地方自治や地方分権の趣旨からいっても別物でなくてはならないはずだ。国で憲法改正や安全保障の議論をしても、地方では住民サービスや地域の活性化など地方固有の問題を扱うものなのだ。したがって、大阪府議会のように衆院選の日程により一時的にせよ議会が休会するのは本末転倒というほかはない。これでは地方議会などは国の下請け、地方議員は国会議員やその候補者のもとで下働きをする人にしか過ぎなくなってしまうではないか。

 

 私は日本に住んでいる。と同時に、大阪府内にも居所を構えている。国の選挙も大切だが、多くの大阪府民と同様に私にとって地元も同じくらいに大切なのだ。

 

 今月10日から始まる選挙戦で地方議員が国政選挙に駆り出される事情はわかる。党勢の拡大のためには仕方がないのかもしれない。ただ、地元で選ばれた議員なら、せめて最低限の務めとして議会くらいはまともに機能させてはどうなのか。「地方が大事」と言いながら、地方をおざなりにしている地方議員がいるとしたら、住民にとっては迷惑なだけである。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

 

 

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2017年9月28日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第74回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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たかがトイレ、されどトイレ 旅の快適さを鉄道の駅にも

 

 子どもの頃に小学校の遠足でバスに乗ると、サービスエリアやドライブインでトイレ休憩を取ることがあった。出発時刻に遅れないように注意を受けてからトイレに向かう。だが、たどりついた女性トイレには外まで続く長蛇の列。もし乗り遅れて置き去りにされたらどうしよう。でも、トイレには行っておきたい。ひやひやしながら長い列が前に進むのを待つ。そんなことがよくあった。時には、あの緊張感が嫌で、次のトイレ休憩までがまんしておこうかと考えることもあった。

 

 だが、数十年たった今、ドライブの際にトイレを長々と待つことは少なくなった。私が子どもだった頃より自家用車の保有台数が大きく増えたことは間違いない。にもかかわらず、待たずに済むようになったのは、女性トイレの数が大幅に増設されたからである。だから今では落ち着いた気持ちでドライブを楽しむことができる。

 

 私が時々演劇を見に行くある劇場も、トイレが充実している。長い列ができていても、またたく間に前に進み、自分の番がまわってくる。数十メートルはあろうかと思われる廊下の両脇に50近くにのぼる個室が並んでいるからだ。おまけに個室のドアの上のところには、遠くから見て空室かどうかがわかるマークがはっきりとついているから、使われていない個室を待つような非効率な事態も起きない。

 

 だが、一方で頻繁に長蛇の列ができて、しかもそれがなかなか前に進まない場所もある。そのひとつが鉄道の大きな駅である。たとえば、私が東京に里帰りする際に利用する新大阪駅。何カ所か大きめな女子トイレがあるのだが、外まで続く行列を目にすることが多い。私が使おうとした際には新幹線の出発時刻に間に合わないことが心配で諦め、車内に乗り込むまで待つことが多い。小規模な駅では乗降客数も少ないのでそういった問題は起きづらいが、中長距離の列車が発着し通勤通学客や観光客でごった返す大きな駅では、新大阪駅に限らず「トイレ問題」を抱えているところが多いだろう。

 

 今、外国人観光客がかつてないほど多くなっており、観光面での日本の発展が期待されている。そういった中で、生理的欲求をきちんと満たせるインフラも重要だ。小さなことに思えるかも知れないが、快適さは旅の楽しみを決める大きな要素のひとつである。

 

 道路における変化は、利用客の動きをよく調べた結果だろう。道路の運営会社にできることが、鉄道会社にできないわけはない。鉄道の駅は近頃買い物や食事のスペースが質量ともに充実してきた。だが、それだけでは利用客のニーズに応えきれていないし、十分な魅力があるとは言えない。まずは、鉄道会社の人たちには大型駅のトイレに並ぶ女性たちの列を実際に観察して、どうすればもっと快適な旅となるのか考えてほしい。あの“緊張感”はもう要らない。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

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2017年9月21日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第73回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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拝啓 大阪市長・吉村洋文さま 人は理屈だけでは動きません

 

 大型の台風18号が近畿地方に迫っていた17日、大阪市の吉村洋文市長が岸和田市の「だんじり祭り」を見学し、おまけに飲酒していたという話がツイッターなどで問題になっている。土砂崩れや浸水など全国で大きな被害が出ているのに、「大阪市のトップがのんきに祭りに出かけて良いのか」などといった批判が数多く散見された。

 

 もっとも、当の吉村市長はこれに対して、同じくツイッターで「違う」と弁明した。いわく、祭りを見学したのは事実。ただ、それは以前から著名デザイナーの誘いを受けていたからで、飲酒は乾杯でとどめ、予定を1時間半繰り上げて自宅に戻って待機。祭りの見学中も後も、大阪市役所に設けられた警戒本部と連絡を取り合える体制を整えていたという。

 

 吉村市長の主張は一応、理屈は通っている。一般的に大阪市の危機管理のトップは危機管理監というお役人であって、市長ではない。したがって、大阪によほど甚大な被害でも出ない限り、市長の出番はない。酒を飲もうが祭りを楽しもうが、あるいは大イビキをかいて居眠りしようが、一切の指揮は危機管理監や副市長に任せておけばいい。

 

 ただ、吉村市長の言い分は理屈としては決して間違っていないとしても、市民から大阪市の未来や安全を任せられたリーダーの振る舞いとしては、いささか疑問符が付く。

 

 そもそもリーダーに求められる資質の一つに、「この人なら安心して任せられる」「この人についていけば大丈夫だ」といった、安心感や安定感があるように思う。政治家にしてもビジネスマンにしても、古くは武将にしても、部下や有権者、家来、領地の農民などから慕われたリーダーには人に安心感を与える資質があり、そんな安心感があるからこそ下の者たちものびのびと仕事をこなし、安定した経営や政治を行えるのだろう。逆に言えば、「この人に任せて大丈夫なのか」と疑いを抱かせるようなリーダーはリーダーには向かない。

 

 幸いなことに、台風18号は結果として大阪に大きな被害は出さなかった。だが、被害の可能性が数パーセントでもあった以上、吉村市長には大阪市のリーダーとして役所に駆けつけ、いつでも危機に備えているというドンと構えた姿勢を市民に見せても良かったのではないか。

 

 危機管理の仕事は一義的に市長の役目ではないにしても、そんな理屈を超えた市長の姿があれば大阪市民は安心できるのだ。これは台風だけではなく、いま問題になっている北朝鮮のミサイルでも同じだろう。人は理屈だけで動くのではない。安心感や信頼感、情けや怒りといった感情に左右される部分が多い。

 

 吉村さん、こんなメンドくさくてビミョーだけどとっても大切な気持ち、わかってくださいませんか。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

2017年9月14日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第72回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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フェイクニュース横行の社会 求められるファクトチェック

 

 「ポスト真実の時代」という言葉をよく耳にする。「ポスト真実」はオックスフォード英語辞典が2016年を象徴する「今年の単語」に選んでおり、「世論形成において、客観的事実が、感情や個人的信念に訴えるものより影響力を持たない状況」を意味する。自分が信じたいことのみを自分の中に取り入れる傾向の強まりを反映している。

 

 また、「フェイクニュース」という言葉もよく聞く。ネット上にはデマを意図的に流すニュースサイトもある。だが一方で、客観的な真実であっても、自分が支持していない政治家の発言や嫌いな報道機関の情報ならば「フェイクニュース」と決めつけるケースも多い。

 

 こうした状況下で「ファクトチェック」、つまり言説や情報の真偽を検証する活動の重要性が注目されている。マスコミ報道を検証するウェブサイトの運営・管理などを行っている非営利型の一般社団法人日本報道検証機構の楊井人文氏によると、ファクトチェックには、真偽が不明な情報源の信ぴょう性を検証するものと、政治家などの公人の言説を検証するものがあるという。諸外国では動きが活発化しており、報道機関がファクトチェックを行うケースもあれば、第三者機関が行う場合もある。

 

 だが、日本で今のところ目に入るのは、朝日新聞が昨秋から数回掲載したファクトチェック記事程度だ。そういった状況の中で、楊井氏ら数人が6月にファクトチェック・イニシアティブ・ジャパン(FIJ)という団体を立ち上げた。協力する団体や個人を募り、ガイドラインを示して、ファクトチェックの概念を広めていくのだという。

 

 実は私も先月からFIJの活動に参加し、先週は政治に関するファクトチェックについて考える研究会に東京で出席した。研究会には朝日新聞政治部の国会担当でファクトチェック記事にも関わってきた南彰記者が講師として参加した。

 

 南記者によると、朝日の試みは読者に好評で、「ジャーナリズムがやるべきことをやっている」といった声が寄せられているという。ただし、南記者は課題として、速報性を持たせられるか、基準を示して透明性を担保できるか、特設サイトを置いて可視化させられるかといった点を挙げた。

 

 また、他の報道機関や第三者機関も加わることが欠かせないと私は考えている。冒頭に書いたように自分が嫌いな政治家や報道機関が流した情報は「フェイクニュース」と断じる傾向が強まる中では、政治的な考え方の違いとは異なる次元で真実をあぶり出し、その上で政治に対する自分の方向性を見定めることが欠かせない。「ファクトチェックは政権批判の道具ではない。意見のよしあしではなく、事実に基づいているかをチェックするという原則が大事」と語る南記者の意見に私も賛同する。この活動が良い形で広がるよう私も貢献したいと考えている。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

2017年9月7日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第71回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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“独身税”批判はなぜ起きたか 記者と読者にも必要な冷静な眼

 

 目立つ言葉を見ると何か言いたくなるのは人の性かもしれない。だが、近頃はひとつのキーワードに過剰反応する風潮もある。たとえば政治家の発言やテレビのCMに「不適切だ」と騒ぎ立て、政治家が頭を下げ、CMが中止に追い込まれることをよく見聞きする。中には事実誤認や偏見、思い込みでひどい発言を連発する政治家がいたり、「社会への配慮がない」と思うCMも見受けられる。不適切な発言やCMに文句を言うのは私たちの権利であるし、健全な社会を作るためには必要な作業でもある。

 

 だが、一方で「どうしてこれが?」と首をひねるケースもある。中には、“炎上”させるためだけに過剰反応していたり、議論よりも相手を屈服させて謝罪させることを第一の目的としている場合もある。言葉が発せられた背景などを知ろうとせず、たったひとつのキーワードを反射的にとらえて過剰反応する社会は未熟なのではないだろうか。

 

 さて数日前、ある地方紙を読んでいて私の目に留まったのは「独身税」という言葉だった。ある市役所で、「子育て中の女性でつくる『ママ課』」と財務省の主計官の意見交換会が開かれ、「ママ課メンバーは『独身税』の創設や医療費削減に関する思いを伝えた」と書かれていたのだ。メンバーが「結婚し子を育てると生活水準が下がる。独身者に負担をお願いできないか」と主計官に尋ねたのだという。

 

 この「独身税」というキーワードを見て、独身者がいるから既婚者の「生活水準が下がる」のか、家計が苦しい人が多いとされているシングルペアレントも独身税を課されるのか、結婚が「できない」性的少数者(LGBTなど)も課税されるのかなど、さまざまな疑問が私の心に渦巻いた。

 

 私がこのように反応したのは、地方都市のひとつが「独身税」という新たな税制度を提案したように読めたからだった。こう受け止めたのは私だけではなく、この市役所にも苦情や意見が相次いだのだという。

 

 だが、それほど大げさな話ではなかったらしい。翌日の続報を見ると「ママ課」は「市の正式な課とは異なり、プロジェクトの名称」に過ぎないこと、「参加者の1人が日頃の思いを話しただけで、市が独身税を提案したわけではない」こと等が書かれていたのだ。

 

 ひとつのキーワードを見て、その背景を知らないまま反応したことを、私自身も反省している。だが、最初の記事で「独身税」が市の総意ではなく個人的な意見であることを書いておくべきだったのだ。「独身税」というインパクトの強い言葉を耳にした記者が「これは記事になりやすい」と考えたのかもしれないが、補足の取材や説明は欠かせない。

 

 インターネットの発達もあって、情報の拡散はかつてないほど速く幅広い。そんな時代にあって、情報を発信する側も受信する側も細心の注意が求められると感じる事例だった。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

2017年8月31日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第70回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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自然の静寂破る不快な“騒音” 楽器演奏もTPOわきまえて

 

 標高1400メートルのキャンプ場は気温20度前後。雲行きが怪しげなので急いでテントを張って中に入ると、すぐ雨が降り始めた。テントに当たるポツポツという単調な雨音を聞きながら寝転んで本を読んでいるうちにいつの間にか眠っていたが、隣接する牧場で草を食(は)んでいる牛たちの鳴き声で目が覚めた。

 

 いつの間にか雨は上がり、あたりを真っ白く覆っていた霧も晴れた。彼方(かなた)の山々に沈もうとする太陽を眺めつつ、火をおこしにかかった。少し赤らんだ炭に耳を近づけるとかすかなカチカチという音が聞こえ、火がおきたことがわかる。火の上に置いた網に肉を載せると、最初はジュージューいっていたのが焦げ始めるとパチパチと音が変わった。

 

 太陽が沈み一番星を見つけたと思ったら、またたく間に満天の星空が広がる。秋の虫の声がか細く響く中で天の川を眺めた。

 

 と、その時、急にギターの音が聞こえた。あわてて見回すと、10メートルほど離れた隣のテントにいる男性が歌いながら弾いている。妻らしき女性を前に、数十年前に流行(はや)ったフォークソング、演歌などを次々に弾き語りしていく。まあそれほど下手ではなく、そこそこうまい。だが、ポイントはそこではない。私は彼の“コンサート”を聞くためにその高原に来たのではない。日頃は人工的な音があふれている都会からしばし離れ、自然が生み出すかすかな音だけが聞こえる静けさの中に身を置けることを楽しみに、猛暑の大阪を抜け出して来たはずだったのだ。それなのに…。高原にあるその広々としたキャンプ場で憩っている人々の大半はおそらく私と同じ心境だったのではないだろうか。

 

 “開演”から数十分、いくつかのテントであかりが消える頃になってもギターが止(や)む気配はない。キャンプ場を歩いてみると少なくとも100メートル四方には響いており、ついに私の友人が「音が響くし、そろそろやめてくれませんか」と頼んだ。演奏中止を快諾してはくれたが、「迷惑だからやめてくれ」という隠されたメッセージはどうやら伝わっていなかったようで、当日も翌朝も謝罪らしき言葉は一言もなかった。本人としては水をさされた気分だったのだろうか。でも、いくらなつかしい曲を歌っても、他のテントから誰も近づいて来なかった時点で、自分は「歓迎されざるミュージシャン」であることを察するべきだったのに、その鈍感さには驚くばかりだ。

 

 そのキャンプ場には子どもや若者もいたが、大騒ぎをするテントは皆無。たったひとりの鈍感な人のために、静寂が破られたことは残念だ。私が再び彼に遭遇する可能性は限りなく低いだろうが、他にも被害が広がらないうちに、彼が周りの人の気持ちにもう少し敏感になってほしいと願うばかりだ。音を愛するならば、音に対する他の人たちの気持ちにも敏感になれるはずだ。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

2017年8月24日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第69回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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“喧嘩両成敗”では解決しない 強者と弱者の非対称性は日本にも

 

 米南部で発生した白人至上主義などを掲げる団体とこれに抗議する市民グループとの激しい衝突について、トランプ大統領は「双方に責任がある」とし、抗議した市民グループも非難した。白人至上主義や人種差別を明確に否定しなかった大統領に対し、共和党からも批判の声が強まり、主要企業経営者が名前を連ねる二つの大統領諮問機関では辞任が相次いだ。

 

 今回の発言の最大の問題点は、差別と反差別を同列に並べて論じた部分である。そもそも歴史的に差別主義者は暴力や権力を使って被差別者を抑圧してきており、差別者と被差別者は決して対等ではない。強者と弱者の関係であり、そこに非対称性があるのである。米国における黒人解放のための闘いの歴史は古く、そうした経緯を経て勝ち取った“自由の国”である自国を米国民は誇りとしているはずだ。それだけに、多くの米国人が白人至上主義に対して怒るのは当たり前の話で、それをいわば“どっちもどっち論”で片付けようとした大統領は、むしろ白人至上主義者の側についていると、議会も国民も、そして財界も見放したというわけだろう。

 

 一方、日本では、この“どっちもどっち論”がいまだに幅を利かせている。その一例が、昨年沖縄県東村の米軍ヘリパッド移設工事で、警備中の大阪府警の警察官が抗議する人たちに「土人」「シナ人」などと発言した時の松井一郎大阪府知事の対応だった。ツイッターで「表現が不適切だとしても、大阪府警の警官が一生懸命命令に従い職務を遂行していたのがわかりました。出張ご苦労様」と書き込んで“炎上”した。後になって、知事は「警察官の表現は不適切」としながらも、「相手もむちゃくちゃ言っている」と述べて、発言を撤回しないとした。

 

 こうした“どっちもどっち論”は一見、公正で大人の対応のようなイメージだが、抑圧する側の圧倒的な力には触れておらず、結果として強者を擁護している。国家や政治家など圧倒的な力を持つ者を、批判したり反対運動を起こすのは、限られた力しか持たない市民の小さな声の発露である。それを「あいつも悪いがオマエも悪い」という論で片付けるのは冷静な思考の放棄でしかない。

 

 このように誤った“どっちもどっち”といった喧嘩(けんか)両成敗の考え方が現れてきた時に、本来大きな役割を果たすべきなのがジャーナリズムである。そもそも何が問題の発端なのか、誰が本当に悪いのかを考えないといけないのに、今のメディアは“どっちもどっち論”をただそのまま報道しがちだ。これでは、分析・評論・批判というジャーナリズムの仕事を放棄することになってしまう。

 

 米国で起こった問題を海の向こうの話として漫然と眺めるのではなく、メディアや私たちは日本の身近な問題でもあることをあらためて知るべきである。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

2017年8月17日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第68回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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席の譲り合いに潜む思惑 ケガの功名で人間ウオッチ

 

 恥ずかしながら、私は下り階段が苦手で大人になってからもよく転ぶ。ここ数年間だけを見ても、バスで料金を払って降りようとした時にステップを踏み外して道路に落ちたし、下りエスカレーターで歩いていたら数段滑り落ちたこともあった。以後はエスカレーターでは決して歩かないようになったが。

 

 そして、最近では自宅マンションの外階段を踏み外して数段落ちた。幸いにして骨折はしていなかったものの、さまざまな箇所を打撲した上に足首を捻挫した。かなり大きな湿布を貼ってネット状の包帯でとめることになった。

 

 ところで、私はフェイスブックに日常生活での出来事を書き込んでいる。恥をさらすようだが、今回のケガについても書き込んだところ、普段の書き込みに対してよりも多くの反応が届き、沈みがちだった気持ちが励まされた。

 

 仕事を休むほどのケガではなかったので、通常通り電車通勤を続けた。両足に大きな包帯をしている私を見たら、席を譲ってくれる人がいるかもしれないと思ったりしたのだが、その状態だった数週間、席を譲られることは一度もなかった。だからと言ってそれを非難したり無理やり席を譲るよう強制しようとは全く思わなかった。むしろ、SNS上では友人に対する優しい言葉をかける一方で、電車の中では無関心というこの状況に興味がわいた。電車の中で私の前に座っていた人たちだって、おそらくはSNSで友人のケガを知れば、ちゅうちょなくお見舞いの言葉をかける人がほとんどだろう。

 

 それからは、電車の中で私の周りにいる人たちをじっと観察してみた。すると、私のケガそのものに気づいている人がどうやらほとんどいないということに私は気づいたのだ。多くの人たちがスマートフォンに目を落としたり、音楽に聞き入って目をつぶったりしている。どんな人が周りにいるか気づかないのも仕方ないのかもしれないという結論に至った。

 

 だが、百数十人の大学生が受講している私の講義で、この話をしたところ、異なる見解がいくつも出てきた。自分はいつも席を譲るようにしているという学生もいれば、席を譲ろうとする自分を見る他人の目が気になって「恥ずかしい」という気持ちを持つ学生、席を譲ったら断られて気まずさを味わって譲ることをためらうようになった学生もいた。また、「電車の中では自分以外は赤の他人であって、むしろ“モノ”の状態であるのではないか」という考えを披露してくれる学生もいた。さらに、高齢者など“席を譲られてもおかしくない”存在の人たちの厚かましさを嫌悪する声も上がった。「義務であってはならず、自分の意思で譲るべきだろう」という考えだ。

 

 私の不注意なケガから始まった今回の人間ウオッチ。たかが座席、されど座席。さまざまな思惑が入り乱れ、一筋縄ではいかないものである。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)

2017年8月10日付の大阪日日新聞に、週刊コラム「金井啓子の現代進行形」第67回分が掲載されました。 本紙のホームページにも掲載されています。

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政治家はロボットなのか? 都民Fの大半が調査に答えず

 

 小池百合子東京都知事が立ち上げた地域政党「都民ファーストの会」(以下、都民ファースト)に注目が集まっている。ただし、良い意味での注目ではない。「あれ?」と、ちょっと首をかしげたくなるような注目なのだ。

 

 都民ファーストは7月の東京都議選で圧勝し、自民党を抜いて都議会第一党に躍り出た。当選した55人の都議の大半は新人だが、長らく自民党の支配に置かれていた都議会を改革してもらいたいと、多くの都民が都民ファーストに票を投じたはずだ。都議たちも、その期待に応える覚悟はあっただろう。

 

 ところで、8月6日の毎日新聞によると、同紙が安倍政権の評価や憲法改正の賛否について都議127人にアンケートをしたところ、都民ファーストだけがほぼ全員、無回答。しかも、その理由が「都政に専念するため」と、どの都議も判で押したような同じ回答を寄せたのだという。

 毎日新聞によると、いずれも都民ファースト本部から示された模範回答を丸写ししたらしく、「自由な発言が許されない雰囲気がある」といった所属都議たちの声も紹介していた。

 

 政治家という仕事は独立性の高いものだと私は思っていた。たとえ自民党や民進党、公明党や共産党などの政党に属していても、一人一人の政治家は自身の信念に従って政治を行い、夢や理想を語る仕事だと思ってきた。

 

 政治家は選挙を戦い、有権者から1票を投じられて当選したのだ。有権者の期待に応えるためにも、個々の政治家はしっかりとした政治理念を持ち、自らの言葉で政治を語る必要がある。

 

 もちろん政党に属していれば、その政党が掲げる公約や目標を達成するため、政治家個人の発言や思いに制限がかけられることはあるだろう。だからといって、政党が所属する政治家の口をふさいで良いものではない。

 

 政治は数が勝負なのは確かだ。だからといって政治家が自由に発言することとは矛盾しない。なぜなら、自由な討論や批判によって政策も磨かれるからだ。民主主義社会にとって政治家は独立性のある仕事だからこそ、自由な発言を担保しなければならない。上の言うがまま個々の政治家が押し黙ったままでは独裁国家と変わらない。

 

 都民ファーストはまだヨチヨチ歩きの政党とはいえ、これでは先が思いやられる。指令塔は同党の本部。都議は本部の指令に反応するだけのマシンにすぎず、まるでロボットである。このたび「日本ファーストの会」が設立され、国政進出を考えているようだが、国政でもロボットを大量生産するようでは国民もたまったものではない。

 

 都民はロボットに政治を任せたのではない。独立した政治家に託したことを都民ファーストも忘れないでほしい。

 

 (近畿大学総合社会学部教授)