田老町に学ぶ津波防災 | ワシントン通信 3.0~地方公務員から転身した国際公務員のblog

田老町に学ぶ津波防災


 今回の夏休み中、是非とも三陸海岸を旅してみようと前々から思っていました。きっかけは、昨年読んだ吉村昭氏の「三陸海岸大津波」という本でした(右上)。この本に、田老町という人口5千人に満たない町のことが何度も出てきます。田老町は、過去に津波の大被害を受けたことで、世界に類を見ない津波防潮堤を築き上げ、今では津波防災の先進地になっているそうなのです。その町を自分の足で歩き、その防潮堤を自分の目で見てみたかった。田老町は、宮古からローカル線で北へ約20分走ったところにありました。まずは、全長約2.5キロ、高さ10メートルを越える巨大防潮堤から紹介しましょう(↓)




 どうですか。この町は、まるで要塞に囲まれたような町なのです。海側に面した防潮堤の上部は、津波の威力を少しでも和らげるためか、このように(↓)凹型になっていました。


 吉村氏の「三陸海岸大津波」によれば、三陸海岸は津波被害を最も受けやすい地形なのだそうです。三陸リアス式海岸の鋸の歯状に切り込んだ湾の海底は、湾口から奥に入るに従って急に浅くなっていて、このような湾を津波が襲うと、海水が湾口から奥に進むにつれて急速に膨れ上がり凄まじい大津波になるとのこと。田老町もまた、津波が威力を増す小さく切り込んだ湾の奥にできた町でした。

 明治以来、三陸沿岸部を襲った大津波は四度

 1.明治29年の三陸大津波
 
2.昭和8年の三陸大津波
 
3.昭和35年のチリ地震大津波
 
4.昭和43年の十勝沖地震大津波


 田老町は、明治29年に1859人、昭和8年には911人もの死者を出し、いずれも壊滅的な大被害を受けました。しかしながら、この二度の大津波の教訓をもとに津波防災体制の整備が進み、昭和35年と昭和43年の津波では被害を最小限に食い止めることができたそうです。



 現在の田老町には、津波防潮堤の他にも、28ヶ所の緊急避難場所と16ヶ所の二次避難施設、津波避難路(↑)、防潮林、防災無線、津波防災情報システムなどなどが整備されているのです。ソフト面でも、住民による自主防災組織の育成、町をあげての津波避難訓練、つなみ紙芝居や津波防災カルタを使った防災教育などにも力を入れているそうです。


 なお、この田老町はごく最近、宮古市に吸収合併されたと聞きました。合併によって、防災体制がどう変わったのかという点も興味深いですね。


 さて、田老町の旧町役場の前に、「津波防災の町宣言」を刻んだ記念碑(↑)が建っていました。宣言文を読んでみると、以下のような一節があったのです。

「私たちは、津波被害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、津波被害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、文明と共に移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代へと手渡していきます」

 スリランカやモルディブの津波復興に関わった自分としては、田老町が積み重ねた津波防災の英知は、国境を越えて伝えていかなければならないものだと痛感しました。