Cliffhanger
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 東ヨーロッパ 旧ソビエト連邦・ドレチア共和国 カリプル市


 まさか、こんな形で男を抱くことになるとはね。
 首筋から真っ赤な血を噴き上げながらも、まだ微かにぬくもりを残している躯を抱き留め、泥だらけの地面の上へゆっくりと降ろしたところで、エレーナ・サレンコはふとそんなことを考えた。
 降りしきる豪雨の下、長きにわたる戦禍ですっかり荒廃した街の一角で、今しがた成し遂げた殺しの手際の良さに、自然と唇の端が持ち上がる。自分の腕でなにかを達成することの喜びは、誰しも覚えるものなのだろう。
 たとえそれが人殺しであったとしても。たとえそれが、どこかの誰かに植えつけられた、偽りの達成感だったとしても。
 頭から喜びと興奮が消え、虚しさが胸の内に湧きあがってくるのを振り切りつつ、彼女は手早く死体を検分した。右手首を持ち上げて、袖口を軽く捲り上げる。予想していた通り、男の手首には、ナノフスク人民共和国軍のシンボルマークをかたどった刺青が彫られていた。一九九七年に勃発して以降、幾度かの休戦を挟みつつも延々と続いてきたドレチア紛争を戦う軍閥の中で、最も西側諸国に近しい姿勢をとる勢力だ。サレンコが所属しているドレチア解放軍とは長らく対立関係にあり、ドレチア北部で採掘される天然ガス利権を巡って泥沼の報復合戦を繰り広げている。向こうに宣伝屋でも送っているのか、西側諸国のメディアは常にナノフスク軍を持ち上げる。かつて赤き皇帝と呼ばれたヨシフ・スターリンの時代から長きに渡って踏みしたがれ、抑えつけられてきたドレチア人民の怒りが暴れ狂うこの地で、憎しみの連鎖を止められる僅かな希望を背負った自由戦士たち―西側では彼らはそう伝えられているらしい。
 サレンコにしてみれば、見当違いも甚だしい戯言だった。ナノフスク軍の兵士たちも、内心では同じ思いだろう。この国の人間は平和や共存など望んでいない。望んでいるのは勝利―それも敵を一人残らず殺しつくした上での勝利だけだ。殺し合いが続くのは、単に彼らがそれを望んでいるからだ。本当に私たちをかわいそうだと思っているなら、まず一発や二発撃たれてから言ってみろ。目の前に豚野郎がいれば、そいつを殺さずにはいられない私たちの憎しみを受けてから言ってみろ―物心ついた時から、彼女は常にそう思って生きてきた。それは恐らく、これからも変わらない。
 行き場のない怒りを覚えつつも、サレンコは死体の横に転がっていた銃を拾い上げ、ストラップを左肩にかけた。AKS-74U。旧ソ連軍正式アサルトライフルだったAK-74の銃身を短く切り詰めたショートカービンで、狭い場所での取り回しの良さから、主に車両隊員や空挺部隊に使用されているモデルだ。日頃から旧式のAK-47を使っている彼女にはあまり馴染みのない型だったが、特に問題があるとも思えなかった。銃口を向けて引き金を引けば、敵は死ぬ。
「おう、こっちにもいやがったか」
 声の降ってきた方を見上げると、ガレージの屋根の上から伸びる錆びた梯子を、小柄な影が降りてくるところだった。彼女が今しがた拾ったものと同じ銃を肩からぶら下げているところを見ると、どうやら彼も敵兵を一人倒したらしい。
「ひでえ雨だな」
 グセフは路上に降り立つなり、ポンチョのフードに溜まった雨水を払い落とした。飛沫がサレンコの胸元にかかったが、そんなことを気にかけるような男ではない。
「そっちにいたのも、ナノフスクの連中?」
「ああ。この分だと、あと六匹はいやがるな。いちいち探し出して殺すのは骨が折れる」
「ネズミじゃないんだから」
「俺にとってはネズミと同じだ。夜中に人様の縄張りでコソコソ動き回ってやがるんだからな。見つけたら殺してやるのが、正しい人の道ってもんだろ」
「私は、できれば触らずに済ませたいけど」
「やめとけ。近づいたら実は生きてたってオチだぜ。殺す時はキチンと喉を抉り取ってやらなきゃな」
「怒らせるつもりはないけど、それってイサエヴァの教えだよね」
「うるせえ」
 苛立たしげに、グセフはAKの銃身に懐中電灯をくくりつけた。
「俺は役に立つ教えは素直に実践する男なんだ。それが例えあのクソババの教えでもな。おまえだってそうだろ」
「まあね」
 アレクセイ・イリイッチ・グセフ。通称アリョーシャ。
 スラヴ人としては小柄な体格ながら、その実ドレチア解放軍中で最も凶悪な人殺しとして悪名を轟かせているこの男と知り合って、もう五年以上が経つ。短気この上なく、些細なことですぐ癇癪を爆発させては暴力に訴える気性から仲間内でも恐れられ、かつ忌み嫌われている男だ。サレンコの知る限りでも、グセフが殺した"敵"の中には明らかに非戦闘員と思わしき者や、死んだ後に喉を執拗に刺された形跡を残す者が大勢いた。わざわざ喉だけを狙って何度も刺しているのだから、どう弁護しても好き好んで死体を嬲ったとしか言いようがない。まともな人間のすることではなかった。
 だがおかしなことに、そんな殺人狂のような男とサレンコは不思議とうまが合った。理由は彼女自身にもわからない。恐らくグセフも同じだろう。一番の友人が、必ずしも性格が似通っているとは限らないものだ。
 グセフは泥だらけの地面を懐中電灯で照らした。遠目からでは水たまりが点々としているようにしか見えないが、目を凝らすとその中に幾つもの直線が平行に刻まれているのがはっきりとわかる。先ほど殺した敵兵の足跡だ。それは彼女たちがいる場所から南へと、緩やかで大きな弧を描いていた。時折西側を向いて立ち止まった形跡があることからも、この辺りを哨戒していたのは明白だ。つまりこの足跡の東側、遠くとも半径五十メートルの範囲内に仲間がいる。理由はわからないが、この一帯に留まらざるをえない用事があるらしい。
 グセフがサレンコを見た。彼女は頷くと自身も銃を構え、おおよその目星をつけた方向へと進んでいった。ドレチア解放軍とナノフスク人民共和国軍は勢力圏が隣接しているが、このカリプル市内中央を貫く運河が境界線となっており、彼らが偶発的にこちらに侵入するようなアクシデントなど起こるはずがない。こんな土砂降りの深夜にわざわざ見張りを置いて居座っている辺り、どうせろくでもない意図があるに決まっている。
 銃を構え、いつでも撃てるよう引き金に指をかけつつ、二人は慎重に歩を進めた。晴天ならこの時間でも武器商人や売春婦、麻薬売りといった連中がうろついている通りだが、この大雨のせいで、今は全くと言っていいほど人の気配がない。
 それ故に、待ち伏せが怖い。いくら戦下にあるとはいえ、人通りの多い地域で銃を撃ちまくれば、必然的に非戦闘員も巻き込むことになる。西側諸国へ正当性を主張し続けているナノフスク軍にとっては、できる限り避けたい事態だ。だが今は、その心配をする必要がない。
 "ダー・ガ・ヴェー"
 と、電気の切れたネオンサインを掲げている建物の入り口から、頭の禿げあがった髭面の男がゆっくりと姿を現した。神経質そうに周囲を見まわしている。明らかに何かを恐れている様子だ。その視線がこちらに振れると同時に、グセフが銃口を男の額へと向けた。
「動くな。動いたら脳みそが飛び散るぞ」
 男の顔が恐怖に凍りついた。微かな嫌悪感や侮蔑も混じっている。この国でサレンコやグセフのような人間を見る大人は、皆一度は必ず、こんな表情を浮かべる。
「何か見たって面だな。何を見た。五秒以内に答えねえと、明日の朝にはおまえの臓物が店に並ぶことになるぞ。三…二…」
「見慣れない連中だ。誰か、黒い布袋を被せられた奴を引きずっていた」
「どっちに行った」
「あっちだ。五分ほど前」
 東の方へ、男は顔をしゃくった。その方角へとサレンコは目を凝らした。この雨と泥だ。五分もあれば、足跡などとうに洗い流されている。この男が嘘を言っているか否かを判断する材料はない。
「人数は」
「五人。一人はあんたらが来た方へ」
「どうする」肩越しに、グセフがサレンコに訊ねた。
「弾の無駄」
 彼女はやや語気を強めてそう言った。危険を冒してでも男が示した場所を探すという点で、既に二人の意思は共通している。一致していないのは、この髭面のルンペンを見逃すか、それとも口封じに殺すかだ。そしてグセフは、明らかに男を殺したがっている。長年の付き合いで、彼が何を思っているかは手に取るようにわかるのだ。
 三秒ほどの沈黙を経て、ようやくグセフが不機嫌そうに銃口を下げた。
「戻ってろ。日が昇るまで出てくるんじゃねえぞ」
 男がそそくさと入っていくのを押しやりながら、二人は先を進んだ。
「やっぱりおまえは女だな」
 グセフが、こちらへのそのそと体を寄せた。
「どういう意味?」
「肝心な時に、人に中身のねえ情が移る」
 サレンコはじろりとグセフを見た。聞き捨てならない暴言だ。日頃誰に何を言われようと一々気に掛けるたちではないが、自分の現実的な判断を貶されることだけは我慢ならない。
「根に持ってるなら、戻って撃ち殺してくればいい。私は私の意見を言っただけ。殺すかどうかを判断したのはあんたでしょう」
 さすがに言いすぎたと思ったのか、グセフはやや肩をすぼめた。ここで素直に謝れるなら、この男ももう少し人に好かれるのだが、生憎彼にそんな謙虚さはない。ないから、
「嫌な奴だな、おまえ」とつぶやいた。
「あんた、自分がいい奴だとでも思ってたの?」
「まさか。でもおまえよりはマシだ」 
 サレンコは鼻を鳴らした。「やっぱりあんたは男だよ」
「どういう意味だ」
「自分が大好きで、聞きたい話しか聞かな―」
 彼女は言葉を切った。体を寄せている倉庫のトタン壁を通して、ロシア語の会話が聞こえてくる。その様子を見たグセフがすかさず彼女の後ろへ回り、死角をカバーする。
 トタン壁越しに耳を澄ましつつ、サレンコはグセフを見て頷いた。聞こえてくるのは確かにロシア語の会話だが、軟音の発音が妙に硬い。ドレチアにやってくる外国人が話すロシア語に多い特徴だ。
「俺がやっていいか?」既に扉の取っ手に手をかけているサレンコの後ろに張りつきながら、グセフが耳元で囁いた。
「どうぞ」
 言うなり、サレンコは錆びた金属扉を一気に引き開け、大股に倉庫の中へと踏み込んだ。
 奥行き二十メートル、幅十五メートルほどの空間に、すっかり錆びついた機械部品や工具が雑然と散らばっている。天井から古ぼけた水銀灯が二つぶら下がっているが、ひどく汚れているせいで、外の闇夜よりはやや明るいという程度でしかない。どこかに貯水槽でもあるのか、むっとするような腐臭が鼻をついた。そんな薄暗い空間の中央、水銀灯の光がかろうじて届いている所に、黒い布袋を頭に被せられた人間が膝立ちで座っていた。そのまわりを四人の武装した男たちが囲んでいる。
 扉の開く音に振り返った彼らの視線が、サレンコの姿を捉えた。続いて、ぎょっとした表情が浮かぶ。困惑と言った方が正しいかもしれない。そこまで経ったところでようやく、彼らはサレンコが肩から提げている銃に気づいた。
 だがその瞬間、彼女の背後の闇から滑り出てきたグセフが、一瞬の躊躇もなく発砲を開始した。轟音と共に銃口から次々に飛び出す弾丸が、完全に不意を突かれた敵の体をなぎ倒していく。かろうじて即死を免れた一人も、続けざまにサレンコが放った銃弾に頭を撃ち抜かれ、肉塊となって崩れ落ちた。時間にして三秒も経たない間に起こった、小さな殺戮だった。
「なってねえ連中だな」
 上機嫌に腐臭と硝煙に鼻をひくつかせながら、グセフは空になった弾倉を放り捨てた。「疑わしきは殺しとけ、だぜ」
 サレンコはそれには耳を貸さず、死体をまたいで倉庫の中央で倒れている捕虜へと近づいていった。どうやら相棒の雑な掃射に巻き込まれたらしく、上着の右肩口と脇腹に穴が開いている。命に別状はないようだが、早急に手当てを施す必要がありそうだ。
 尤も、彼女にそんなことをしようという善意はなかった。もしここで死ぬなら、それまでの命だったということだ。
 彼女は男の傍らにしゃがみ込み、ロシア訛りの強い英語で声をかけた。
「あんた、私が何を話しているか、わかる?」
 男が頷く。いつでも刺し殺せるよう、ポケットから取り出したナイフを左手で構え、サレンコは慎重に右手で布袋を引っ張り上げた。
 彼女は困惑した。表れたのは、やや癖のかかった黒髪に、鼻筋が通った細面の若い男だ。二重まぶたの眼はたれ目気味でどこか愛嬌があり、不揃いな無精ひげさえきちんと剃ればハンサムと言っていい顔立ちだ。だが、それらの美点を全て帳消しにするほどに、ひどく顔色が悪い。というより、血の気がまるでなかった。今後ろでグセフが漁っている死体ですら、この男に比べればまだ血色がいいと言えるだろう。
 そんなサレンコの胸中を察したのか、男が口を開いた。
「助けてくれてありがとう。できれば感謝の気持ちを伝えたいんだが、生憎私の知っているロシア語はこれだけなんだ。申し訳ないが、英語で話させてくれ」
 ばつの悪い表情で、サレンコは横を向いた。正直なところ、所持品を漁って、あわよくば闇市で小遣い稼ぎに売り払うつもりで近づいたのだ。流石にそれを口に出せるほど面の皮は厚くなかったが、かと言って恥じるような倫理観は持ち合わせていない。ないなりに、
「あんた、大丈夫なの?」と、尋ねることにした。拗ねている。
 男はゆっくりと上体を起こした。上半身を撃ち抜かれているにも関わらず、事もなげに振舞うその仕草に、彼女は一層不信感を募らせた。痛みを感じている素振りすら見えない。
「この状況を大丈夫だと言い張れるなら、私もこの国の風習に慣れてきたんだろうな」そう言いながら彼はサレンコに背中を向け、両手首を拘束している縄を揺すった。
「すまないが、これを解いてくれるか。私がここで死ぬと、まずいだろう?」
「あまりベラベラ喋ると殺されるよ、あんた」彼女は眉間に青筋を立てた。こういう人間は大嫌いだ。上辺は快活で口がたち、こちらに誠意を向けているようでいて、その実全く選択の余地を与えない人間を前にすると、理性をかなぐり捨ててまで八つ裂きにしてやりたいほどの殺意を覚える。
 それは、他ならぬ育ての親がそんな人間だからだ。自分にこんな人生を押しつけたナズリ・イサエヴァを思い起こさせる物言いをする人間は、それだけで抑え難い敵意を掻き立てるに十分だった。
 左手で結び目を切りながらも、自然と右手が、銃のグリップへ伸びていく。何を気にする必要がある?元はと言えば、こいつをここに連れ込んだのはナノフスクの連中だ。私がこいつを憂さ晴らしに殺したところで、後でどうとでも言い訳はできる。この偉そうな豚野郎を殺して、自分が今いる現実を思い知らせてやれば、例え一時とは言えど、どれほど気が晴れることか―
「変な気は起こすなよ、レーナ」
 背後から、不意に声が突き刺さった。我に返ると同時に、倉庫の屋根に叩きつける雨音が戻ってくる。先ほどまでの異様な昂揚感は消え失せ、冷たい戸惑いだけが、胸の底に澱のように残った。
 サレンコは背後を振り返った。思っていた通り、グセフは遺体の傍にしゃがみ込み、一人一人頭部を露わにしては、丁寧にナイフで喉元を抉り取っていた。夕食でも作っているかのような手つきでそれを続けながら、彼は言葉を継いだ。
「外国人だろ」
「わかってる」
 彼女は苦笑した。殺した人間の喉を戦利品代わりに抉り取り、つい先ほど外国人を乱射に巻き込んだことを棚に上げている男に宥められた自分が、滑稽でならなかったのだ。わざわざ相棒に言われるまでもない。敵対勢力のテリトリーに外国人を連れ込んで惨殺し、その罪をなすりつけるという謀略は、この国ではそう珍しいことではなかった。国境近辺で西側のジャーナリストを殺めた軍閥が、最終的に隣国の空爆を招いて壊滅の憂き目に遭ったという事件が起こって以来、国内の武装集団の多くは、何があろうと外国人の非戦闘員に危害を加えてはならないと、日頃から自軍の兵士たちにきつく言い含めている。その一方で、そんな愚行がもたらす破滅的な結末が敵対勢力に起こることを期待する者がいるのも、また事実なのだ。
 "現実を見ない奴は、必ず負ける"
 "一時の感情に流される奴も、必ず負ける"
 "死にたくないなら、今ある現実から目を離してはならない"
 物事ついて以来、憎らしい育ての親に嫌というほど言い聞かされてきた教えを、サレンコは心の中で暗唱した。ようやく落ち着きを取り戻して男の方へと向き直り、声をかけようとしたところで、彼女は自分の目を疑った。
 男の姿は、影も形も消えていた。縄の切れ端と黒い布袋が、まるで彼女を嘲笑うかのように、ただ床に散らばっている。
「おい、あいつはどこに行った」
 異変に気づいたグセフがやってきた。銃口で倉庫の奥をなぞりながら、怪訝な表情を浮かべている。
「消えた」しゃがみこんで縄の切れ端を手に取ったところで、サレンコはようやくそう言った。目の前にある現実を説明するには、それしか言葉が見つからなかった。
「走って逃げたわけじゃねえよな。そんな音は全然しなかった」
「あんたもそう思う?」
「目を離した隙に走って逃げた野郎に気づかないほどの馬鹿になったなんて思いたくねえだろ、おまえも」
「だね」
 生返事を返しながら縄を投げ捨て、肩に提げていた銃を取ろうとしたところで、彼女は顔をしかめた。先程まで縄を掴んでいた右手の掌が、黒く汚れている。何度かズボンで強く拭ったが、全く落ちる気配がなかった。後で水洗いするしかないだろう。
 溜息をつきつつも無線機を取り、本隊へ後始末のための増援を要請した後、サレンコはグセフを見た。「行こう」
「気持ち悪い夜だな」彼女の右手をじっと見つめつつ、グセフはぼそりと呟いた。
 サレンコは思わず破顔した。こんな男でも目の前で奇妙な出来事が続くと、それなりには不安を募らせるものらしい。
「あんたよりはましでしょう」
「うるせえ」グセフは気色ばんだ。一段と雨脚の強くなった外へと向かう足が、自然と早まる。
「ところで、おまえさっき何を言おうとしたんだ」
「何が」こらえようとはしているが、ついにやにやと微笑してしまう。この子供っぽい所こそが、彼女がグセフを嫌いになれない一番の理由だった。たとえ先ほど、あれだけ丹念に抉り取っていた喉を持ち帰りもせずに放り捨てているような男でも。
「とぼけんな。ここに来る直前だ。俺のことを馬鹿にしようとしただろ」
「別に。自分が大好きで、聞きたい話しか聞かなくて、やりたいことしかやらないあんたは、実に男らしいって言おうとしただけだよ」
「やっぱり嫌な奴だな、おまえ」
「いい奴よりはいい」
「そりゃそうだ。いい奴なんざ、ここじゃすぐ殺されるか売春婦になるって決まってるもんだぜ。嫌な大人にならなきゃな」
 ブーツの踵が泥に沈み込み、冷たい大粒の雨が額を流れ落ち始めると、サレンコは空を仰いだ。何やら薄汚れた気分だったので、衣服を通して全身に染み込んでいく雨が心地よい。
 それでも、心のどこかに引っかかった小さな不安は拭えなかった。それはまるで、小銃を提げた十五歳の少女の掌に黒くこびりついた、硝酸銀の残り香のようでもあった。

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