オリンピックが終わり
不規則睡眠からの脱出のとき。

昨夜やってきた孫は真っ赤な顔と腕❗️

海遊びでもないのに
長時間太陽に晒されたようです。

焼けると赤くなるのは母親(娘)由来、
私はいきなり黒くなるタチです。


とりあえず水風呂に入り

友人たちと食事は済ませたと
ごはんもナシで

早々に寝みました。

その間もお喋りは止まりませんでしたが。



私も此処で睡眠リズムを修正すべく
彼の後を追うように床に就き

今朝はふたり揃って午前5時起きです。


というわけで
昨夜用意のごはんは
朝ごはんに転じました。

柔らかく煮込んだ豚角煮。



魚久の銀だらとホッケ。

ほうれん草と白木耳入りのかき卵汁、

オマケは冷凍そら豆です。




6時半に迎えに来てくれた友人のクルマで孫が出かけると

いつもの日課を済ませて
私も朝ごはん。


 

角煮に添えた青梗菜はクタクタに

肉も卵も味がよくしみていいおかずになります。




グリーンアスパラガスは胡麻醤油かけにしました。

グリーンアスパラガスは娘の大好物なのに

孫は夏野菜全般が苦手。

トマトソースはいいけれど生のトマトも食べません。




もっとも彼の年まで
生魚もネギも豚肉も…
食べられないものだらけだった超偏食の私からすると
まだまだ彼も変わる余地がありそうですね。

そんなけいあゆのお昼ごはんは


こんな一皿。



山盛りのベビーリーフにトマト、玉ねぎ、マッシュルーム、ワカメ、そして大ぶりのカニカマをのせました。

本当はアボカドも加えたかったのですが

まだ硬すぎてカボチャ並に包丁が入らず諦めました。



それでも山葵ドレッシングのおかげで
たっぷりの野菜が摂れて満足です。



もちろんご飯もパンもナシで

朝ごはんの野菜不足を埋め合わせました。




うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ



TVのニュースをつけると

日航機事故から39年…と言っていました。


事故のことなど知らない世代が育っています。


私は事故のすぐあと

祖母に会うため

小学生の娘と日航機でふるさとに飛んだので


その記憶が時に鮮明に甦るのですか、


そのモノトーンの残像は

数年前友人の誘いで群馬県上野村を訪ねて

より一層鮮明になりました。



其処は哀しいほど美しい場処、


犠牲者とその家族にとって

せめてそういう場処であってよかった

と思える場処でした。







事故現場で取材する記者を主人公にした本や

それを映像化した作品もありますね。







遺族のお一人の

「遺族も歳を取って亡くなった方もいる、でも生きている限り忘れない」

というコメントに


時を経ても消えない悲しみを

あの哀しくも美しい場処が丸ごと包んでくれるといいな

と思ったりしました。



うさぎうさぎうさぎうさぎうさぎうさぎ



孫は

昨日より遅くなるかも

と言って出かけました。


冷たい飲みものと冷やしタオルを用意して



こちらは冷房を強冷にして

のんびり読書などして

㊗️を過ごします。


ふるさとで夏の日々を過ごすK先輩からは

写真が送られて来ました。


私の高校一年時と三年時の担任だった国語教師の

お嬢さんと

蕎麦屋で偶然会ったとのこと。



もちろん今は中年女性ですが


先生に手を引かれて文化祭に来た彼女

当時は幼稚園児くらい。


「先生の子どもとは思えない❗️カワイイ❣️」


と私たちが言うと

ご機嫌な先生は

『万葉集』から採った彼女の名前を披露されました。



その名は菜摘子さん❤️


先生は

雄略天皇の長歌から

その名を採ったのだとご自慢でした。



籠もよみ籠持ちふくしもよみぶくし持ちこの丘に菜摘ます児

家聞かな名告らさね

そらみつ大和の国はおしなべてわれこそ居れ

しきなべてわれこそませ

われこそは告らめ家をも名をも



現代語訳


籠(かご)よ、美しい籠を持ち、掘串(ふくし)よ、美しい掘串を手に、この丘に菜を摘む娘よ。あなたはどこの家の娘か。名は何という。そらみつ大和の国は、すべてわたしが従えているのだ。すべてわたしが支配しているのだ。わたしこそ明かそう。家がらも、わが名も。



天皇は

自らを大和の国を領(し)る者だと言い

彼女にその名を問います。


天皇から家と名を問われるというのは

いわゆる求婚の謂、

正式にお召しがあるのを待つことになります。


当時16歳

そんな経緯で

天皇からのお召しを待ち続けた彼女、


天皇から声をかけられた以上

なみいる縁談も退け退けて


待ち続けて

遂に80歳になった


と言われています。

天皇は歌まで詠みながら

彼女の存在を忘れて過ごされたのですね。



もちろんその名は

菜摘子さんではなく

引田部赤猪子(ひきたべのあかいこ)さんでした。



さて先生は

そんな"菜摘ます児"の運命を知って名付けられたのでしょうか?



我が菜摘子さんは

どこか先生の面影に通じる明るい笑顔でした。




その国語教師はとうに故人。


私がS新聞に連載したコラムに

ご意見を頂戴したのが最後のやりとりになりました。







<本日の古文>


取り上げたのは『万葉集』の長歌、

雄略天皇の御製です。



原文はご存知、万葉仮名で書かれており

上代文学門外漢の私には

読めたり読めなかったり

甚だ心許ないところです。


(ちなみに

大学入試古文には

『万葉集』はほとんど出ません。)



万葉仮名


籠毛與美籠母乳布久思毛與美夫君志持此岳尒菜採須兒家吉閑名告沙根虚見津山跡乃國者押奈戸手吾許曽居師吉名倍手吾己曽座我許曽者告目家呼毛名雄母



訓みくだし


こもよみこもちふくしもよみぶくしもちこのをかになつますこいへきかななのらさねそらみつやまとのくにはおしなべてわれこそをれしきなべてわれこそませわれこそはのらめいへをもなをも



今日のように仮名交じりの読みが可能になったのには

千年もの間

多くの歌人や学者たちの解読の苦労があってのこと。


あの清少納言の父

清原元輔は歌人として高名で

梨壺の五人として『後撰和歌集』の撰に当たったばかりではなく

天皇の命で

『万葉集』の読解にも携わったと言われています。