映画探偵室 -1975ページ目

Under the Bald Eagle - 映画「コンドル」の後書き(2)

 国章「The Day After Roswell」(ロズウェル事件以後」,フィリップ・J・コルソ著,1997年)という本がある。元陸軍中佐で,国防総省内の研究開発部に勤務していた(ことになっている)人が退役後に遺言のような形で書いた本である    (「ペンタゴンの陰謀」として中村三千恵氏の抄訳が二見書房から出版されたが,現在絶版。当探偵は英原文のペーパーブックを所有している)。いずれ「陰謀のセオリー」(メル・ギブソン,ジュリア・ロバーツ。監督はリチャード・ドナー )という映画のレビューでもこの本のことを取り上げる積もりでいるが,この本が出版されたのは9.11事件の前であった。多くの情報機関関係者によれば,情報には確実性が薄いとのことだが,私は別の意味で,この本を読んだことが今回の「コンドル」の感想を書くきっかけになった。それは,OSSからCIA,そして現在それに代わり君臨すると言われているNSA(国務省国家安全保障局)が戦後一貫して推し進めてきた「情報戦」とはどのようなものかが「問わず語り」にこの本に書かれているからである。
それは一括りにすれば「情報操作」ということで,「敵」だけでなく一般国民も,そして「自陣」をも操作する,ということに尽きる。その技術はコンピュータの進歩と共に(ハードウェアというよりはソフトウェアの面で特に)飛躍的に発展した。そして今2007年,その又先の未来,つまりこれは非常に危険な諸刃の刃である,という事実が見えて来つつある。私は仕事柄,情報処理関係の翻訳をすることがあるが,ある文書に載っていた米国の戦略を垣間見て,なるほどそうかと実感した。これを推し進めていくと「誰も(自分も敵もという意味)正しい情報を持ったものがいなくなり,また国民全員がマスコミを含め誤誘導情報に汚染される」のだ。最先端の戦略では,暗号の使用や,情報かく乱さえできるだけ控えるように,という指示が出ている。最先端情報技術をむしろ「使うな」という指示が出ているのだ。もはや自分たちが苦労して入手する情報さえ,自分たち自身が撒いた誤誘導情報,その二次情報,三次情報かもしれないから。いってみれば「陰謀だらけ」なのである。私たちの今いる世界はこんな世界であり,アメリカ合衆国のみならず,日本でも情報操作は陰に陽に日々行われている。映画に出てきたニューヨーク・タイムズはシドニー・ポラックの側,つまりリベラルと言われているが,それすら例外ではないだろう。そしてそのような私たちの情報源にはTVや映画さえ含まれることに慄然とせざるを得ない。私たち(当然,私も含め)が持っている情報はすべて何らかの操作の結果かも知れないのだ。際限がないので細かな事実・事件はここでは取り上げない。しかし,ヒギンズの言葉を思い出して欲しい。「今じゃない。その時だ。不足した時だ。暖房がないから部屋の中は寒い。車は動かない。今まで知らなかった飢えを経験する。答えは簡単さ。『手に入れろ』と我々にいうに決まっている」。
こうは決して言わない,という覚悟がある国民がいるだろうか。映画の中のCIAが加害者であるのは無論だが,シドニー・ポラックは,それを強いている国民も被害者ではなく加害者なのだ,と言っている。誰もが無傷,無垢であることはできないのだ。
映画コンドルではCIAの要員は殆どが鳥の名前をコード・ネームとしている。この映画はイラン・コントラ事件やケネディ暗殺事件,湾岸戦争,そして恐らく9.11などにおいても果たしたであろうCIAの「工作」がどんなものだったのかを想像させる。いや,想像を超えるものと想像される。ひょっとすると9.11で摩天楼に突っ込むこともターナーの読んだ筋書きに入っていたのではないか,とさえ疑われる。シドニー・ポラックは映画が(あるいは映画のレベルが)事実であると言っているのではなく,それ以上であることを全員が(探偵も含め)覚悟せよ,と言っているのである。このブログではことさら取り上げなかったが,ヒギンズが「敵」といっている側で同じことやっている,というのも他方では事実ではあろう。イラン・コントラ事件の際の副大統領はパパ・ブッシュであり,パパ・ブッシュは歴代CIA長官の1人である。そしてビン・ラーディンがもともとCIAの援助を受けていたことは様々な資料でも実証されている… 結局何が正しいかはおそらく「誰も」知らないのだ。

El Condor Pasa - 映画「コンドル」の後書き

エピローグ1:アメリカの市民,アメリカの男と女,そしてアメリカという超国家


「追憶」:バーバラストレイサンド,1973年)
追憶 シドニー・ポラックは「男と女」のうち「男」をロバート・レッドフォーッドにし,それぞれの女優と組ませたシチュエーションで,「追憶」(1973年)に引き続いてこの映画「コンドルの3日間」を作り,そして約10年後の1985年に「愛と哀しみの果て」を作ったことになる。ラストの2つの映画の間には10年の空白があることになるが,その間にシドニー・ポラックは様々なバッシングを受けたと言われている。それ故か「愛と哀しみの果て」の主人公はアメリカ人ではなく,話は完全にラブ・ストーリーになっている。この映画の良さはやはりロバート・レッドフォーッドの熱烈なファンである塩野七生さんのエッセーに描かれているので,ここではあまり触れない。一言で言ってしまえば,個人という単位と,男と女の関係,そしてその関係が巨大な力の前(最後の「愛と哀しみの果て」では「運命」ということになるだろうか)でどうなっていくのか?という物語である。


映画「コンドル」では男と女のどちらも,二人でこの先歩んでいければ,できればそうしたいと願ったはずだが,「敵」の危険さ,巨大さを考えれば,心を偽ってでも相手の安全を願うことで,結局は別れて行く。しかし,と探偵は思うのだ。ラストシーンではターナーは一応無事だった。彼の戦い方は今後いわゆる「平和運動」に変わっていくだろう。一方,キャシーの相手はもともとバカな男のようだったので,遅かれ早かれキャシーはターナーの元に戻るだろう。すると,物語は前の映画「追憶」に戻ることになるのである。

シドニー・ポラックになり代わって言えば「どのような力であろうと,男女の愛に勝るものなく,またそうあるべきだ」ということになる。そのように出逢った女のことをワタシは「運命の女」と呼ぶことにしている。だから,男には必ず運命の女がいるはずであり,それが時間が経つと通常は「オバはん」になるだけの話なのだ。

                                                            

                        (愛と哀しみの果て:メリルストリープ,1985年)                                                             
Out of africa

 アメリカには2つの顔がある。個人レベルでは良きアメリカ合衆国市民という面であり,政治・経済のレベルではアメリカという超国家である。なぜワタシが超国家というかは,第二次世界大戦後の体制を決定し,国連を創設する際のアメリカの意図(ヤルタ会談,ポツダム会談等)が,自国の「合衆国」という考えを世界に拡大して,「他の国家群を指導する国家」に自分がなることにあったからである。しかし,誰がそんなことを望んだのか。そして,それを遂行することは何を意味するか,そして遂行していけばどうなるか,を象徴する1つの映画が,この先当探偵室で取り上げる予定の「陰謀のセオリー」である。ここに到ると,男女の愛さえも陰謀にまみれていく。そしてこのような風景はかつて何度も見たことがある。(ジョージ・オーウェルの「1984年」:リチャード・バートン)や「寒い国から帰ったスパイ:リチャード・バートン,クレア・ブルーム,1965年)など,など。この映画は男と女,国家,そして「情報」(言葉)の意味を問いかける映画の1つである。                           

                                     
                                                  

コンドル(26)

翌朝のニューヨークの街角。クリスマスが近いため人通りも多い中,ガード下の交差点でヒギンズが何かを待っている。
向かい側の歩道には,すっきりとした笑顔のターナーがヒギンズの方を見ているが,すぐには声をかけない…まるでジョベアの言った「ある春浅い,日差しのあたたかな1日」のような光景である。その言葉どおり,ヒギンズの傍に目立つ青い高級車が到着した。それを見届けたターナーは笑顔のまま,大声で呼ぶ。
「ヒギンズ!」
ヒギンズも笑みを隠さず横断歩道を人ごみを掻き分けるように近寄ってきた。ターナーから離れた位置にサンタクロースが立っている…渡り終えたヒギンズが親切そうに言う。
ヒギンズ:「どこにいた?心配したぞ。」
ターナー:「迎えの車か?」
ヒギンズ:「ああ,心配ない。質問するだけだ。」
ターナーは分かっている。
ターナー:「ヒギンズ,断っておくが俺はポケットに45口径を持っている。」
ヒギンズは急に警戒心を露にした顔になった。
ターナー:「一緒に歩いてもらおう。」
ヒギンズ:「どっちへ?」
ターナー:「西だ。ゆっくり2~3歩先を歩け。」
そして車が後をつけてくることを確認した。
ターナーが「車を行かせろ」と迫ると,ヒギンズはおとなしくそれに従い,車に先に行くよう合図した。
歩きながらヒギンズに質問する:「中東へ侵入するのか?」
ヒギンズ:「まさか」
ターナー:「答えろ。侵略するのか?」
ヒギンズはターナーの方を振り返って強く言う。
「いや絶対しない。What if (もし実行したらどうなる?必要な金と人員は?政府転覆の他の手段はないか?)という仮想ゲームだ。」
まだ余裕のある表情のターナー。
ヒギンズ:「これが狙いだ」
聞いているターナーは分かっているよ,という表情でうなずく。そして言った「歩け。」
ターナーはどこかへ案内するつもりのようだ。歩きながらなお質問する。
「アトウッドがゲームの域を超えて実行しかけたのか?」
ヒギンズ:「提案しても賛成が得られないと彼も知っていたはずだ。」
ターナー:「私が偶然発見しなかったらどうなった?まわりは聞いていない。言えよ。」
ヒギンズ:「わからん。だが計画そのものは完璧だ。おそらく成功しただろう。」
ターナー:「何という神経だ。単なる計画なら何をやってもいいとでも?」
ヒギンズ:「ちがう。これは純粋な経済学だ。今は石油だけだが,10~15年後には食料やプルトニウムも不足する。遅かれ早かれ。そうしたら国民は我々に何を望む?」
ターナー:「聞いてみろ」
ヒギンズ:「今じゃない。その時だ。不足した時だ。暖房がないから部屋の中は寒い。車は動かない。今まで知らなかった飢えを経験する。答えは簡単さ。『手に入れろ』と我々にいうに決まっている
ターナーは納得できない,という顔をする。
「それが根拠か?それで7人も殺させたのか?」
ヒギンズ:「カンパニーの命令じゃな…]
ターナー:「アトウッドか,アトウッドが全部やったというのか?            
       でもあんたの同僚だし,あんたが殺したも同然だ。こんなゲームがあるものか!」
ヒギンズ:「その通りだ。しかし同じ事を敵側もやっている。君を野放しにはできない。」
ターナーは脅しに屈しない。
「家に帰ってみろ,ニュースがあるぞ。周りを見ろ。ニュースはここから全国に伝わる。これは特ダネだ。」
ヒギンズが改めて辺りを見ると,そこはニューヨーク・タイムズ本社ビルの前だった。
ヒギンズ:「何をしたんだ?」
ターナー:「あんた達のゲームをすっかり話したのさ。」
首を振りながら呆然とするヒギンズ:「バカめ,なんて事をしたんだ。想像以上の損害を国家に与えるぞ」
ターナー:「そうなった方がいいんだ」。そしてターナーは向こうへ歩き出した。
歩みよりはもはや不可能だと悟ったヒギンズは去り行くターナーの背中に言う。
「君は孤独になるぞ。不幸な結末だ。」
ターナー:「覚悟の上だ。」
ヒギンズ:「おい,ターナー。」
振り返ったターナーにヒギンズが自信を持って言う。
「印刷はされんぞ。記事にならなければ君は犬死だ。」
ターナー:「印刷されるさ。」
ヒギンズ:「どうしてそれが分かる?」
ヒギンズはやはり先手を打っていたのだ(とターナーは考えただろうが,本当はあの本部長の赤電話だったことを読者は想起して欲しい。OSSは「オッス」どころではないのだ:探偵の最後のダジャレ)。絶望に突き落とされたターナーの傍で救世軍が募金のキャンペーンを行っている(プラカードには「ライトハウス団」と書いてある)。間の抜けたような唱歌隊の歌がなぜか悲劇的な雰囲気に変わり,その向こうを街の人ごみに消えていくターナーがストップ・モーションになる(完)。