さらば愛しき女よ(5)
手がかり2:落ちぶれダンサー兼歌手
表に出ると少年が「ミスター,ミスター」と言って追いかけてきた。「パパがおじさんに渡したいものがあるって。」
そしてマーロウに訊いた。
「おじさんは警察の人?」
「いや,違うよ。君は何の人?」
「ボクは野球選手だ。」
「そうか,野球選手か。」
渡されたのはジェシー・フローリンの結婚前の名前だった。電話帳に載っているという。その住所を尋ねることにした。
長年手入れなどされていない古い一軒家。虫除けネットの戸口からダンスホール・ミュージックが漏れている。
部屋の中は片づけが全くされていない状態で荒れていた。
「訪ねてくる人などないから…」
女は椅子に座ると話しはじめる。テーブルの上には想い出の品なのだろうか,葉巻のボックスが置いてあった。
「トミーは相変わらず通りの向こうに住んでるの?彼もマイクと同じで落ちぶれたのよ。黒人女と結婚して子供をつくり…
マイクの葬式に来たわ,で何が聞きたいの?」
「ヴェルマ・ヴァレントという女を探している。」
ただじゃ話せないという態度を見せたので,マーロウはトミーから教わった用意のバーボンの瓶を渡した。
急に愛想が良くなったジェシーは瓶を受け取ると早速台所に行ってラッパのみを始める。盛りが過ぎ,落ちぶれて亭主も無くし,アル中になった昔のダンサー。「一緒に呑みながら話そう」
ジェシーはグラスをさっき渡されたマーロウの名刺の上に置いた(注1)。
「ヴェルマね。私も歌と踊りをやってたのよ。聞きたい?」,女が昔を懐かしむように歌う。
I’m blue all day Monday, Thinkin’ of you Sunday, That’s one day when I’m with you, …
マーロウがそれに続いて自らも歌う(注2)。
It seems like I cried all day Tuesday,
I died all day Wednesday, Oh my how I long for you…and then comes Thursday…
ジェシーは咽び泣きをはじめた。
「私は一所懸命やったのよ。ヴェルマよりは上手かったわ,彼女ほど美人じゃなかったけど若いし元気もあったもの…」
「そうだと思うよ。」
「おかしいわね。彼女はマイクの所で働いた唯いつのTramp(流れ女)だった。だからマイクはマットレスのようには使わなかった(He didn’t use like the mattress)(注3)」
「どうして?」
「私の考えでは,マイクはあのビールのトラックのような大男のやくざを恐れていたんだと思うわ。ムース・マロイよ。そうか分かった,あいつが刑務所から出てきたのね?」
「ヴェルマの居所に心当たりはないかい?」
「トミーが教えてくれなかったの?じゃ,わたしから頼んだげる」
ジェシーはすぐに電話を取るとトミーに電話し,マーロウが信用できる男だと説得したようだ。手がかりとなるヴェルマの写真を渡してくれるという。三日月ホテルにとって返し,少年からヴェルマの写真を受け取った。客引き用のブロマイドだった(続く)。
注1:これはマーロウが此処に訪ねて来た,という証拠になる。後の展開上,記憶しておいていただきたい。
2:映画の中の歌及びナレーションがロバート・ミッチャム自身によるかは不明。甘さを含めた魅力的なバリトンである。
3:マットレス(敷き布団)という言葉1つでマイクが女垂らしであったこと,ヴェルマとも関係があったことが分かる。このような慣用句に近い,気の利いた台詞がこの映画ではふんだんに出てくる。
さらば愛しき女よ(4)
探偵の勘が赤い糸を探し当てた:手がかり1.「三日月ホテル」
ジョイントの近くには必ずホテルがある。マーロウにはピンと来るものがあった。そこの主人ならヴェルマを見かけたことがあるだろう。
「フローリン?そりゃ,白人用のジョイントかい?」
こんなときに頼りになるのが,エイブラハム・リンカーンだ。
「このホテルの210号室に昔バンドをやっていた男がいる」
「朝日のあたる」どころか,日も暮れてもう三日月が出ているようなドン底の人々が暮らす「三日月ホテル」。エレベータなど無く,階段は腐りかけてぎシギシ鳴り,暗がりからはゴキブリやネズミが今にも走り出して来そうだ。「こういう場所にはいつも覚悟を決めて立ち入らねばならなかった....」
ドアの前に来ると探偵は紳士として振舞う。「フィリップ・マーロウと言います。私立探偵(Private investigator:民間調査員)です。私は市や,州や連邦政府の方から来た人間ではありません。借金の取立て屋でもない。昔フローリンの所で働いていたそうですね?」(注1)
ドアが開き,帽子を取りながら中に入ると,そこは白人の中年男と黒人の奥さんと,そして息子が暮らす部屋だった。
「受付係の話だと,貴方は通りの向こうでバンドをやっていたとか?」
「そう,Tommy Ray & Sun Raysというんだ。レコードも2,3枚出した。聴いたことはないかい?」
「パートは何だったのですか?」, 「トランペットさ」
すこし打ち解けたところでフローリンのファースト・ネームを聞き出し,住所を聞こうとすると直ぐさま答えが返ってきた。
「彼は死んだ」
マーロウは今度は別の角度から聞く。
「彼は結婚していた?」, 「おそらくね」
「フローリン夫人のファースト・ネームは」, 「ジェシー」
トミーの息子がマーロウを気に入ったのか,持っていたボールを嬉しそうにマーロウにパスした。家に訪ねて来る者など本当に久しぶりなのだろう。
「奥さんは今何処に住んでる?」
「それを知って何になるんだ?」
「仕事さ。私の友達がヴェルマ・ヴァレントという女を探している。彼女のことは?昔フローリンで働いていたはずだが?」
「あそこの女達には名前はないよ。」
直ぐには聞き出せないと判断したマーロウは用意した心付けを示してから,こう付け加えた。「何か分かったことがあったら,電話してください」(続く)
注1:マーロウはここでちょっとしたトリックを使っている。フローリンがオーナーの名前だと踏んだのである。探偵の勘は当たっていたのだが...
さらば愛しき女よ(3)
マロイが案内したのは随分昔から黒人街になっている界隈にあるFlorinという名のJoint(注1)だった。店の前では女達が客引きをしている。「好みの場所だ」とマロイは言うが,マーロウはこんな場所にヴェルマがいる筈はないと思う。「昔は働いていたが,もうとっくに引退して,今は黒人女ばっかりさ」と店の者は答えた。トラブルの気配。案の定,若造にインネンをつけられたマロイは切れて一発でそいつをすっ飛ばし,今度は店の主人に「話がある」と言い,店の奥に二人して向かった。マーロウがカウンターで酒を注文しながら待とうとした途端,銃声が奥から聞こえた。急いでマーロウが駆けつけると,拳銃を手にした店の主人が吊り上げられ,首を絞められて死んでいた。「俺はただヴェルマの居場所を知りたかっただけなのに」
しかし,こうなってはもう,マロイの居所を確保した上で,マーロウが1人でヴェルマを探すしかない。「電話するから」と言って去っていくマロイにマーロウは言う:「ヴェルマの本当の名前は何だ?」 後ろ姿のマロイは答える:「ヴェルマ・ヴァレント」
- All I want to konw was where my Velma is.
カウンターのところに戻って見ると,店の中は空っぽになったいた。面倒に巻き込まれたくないと,皆逃げてしまったのだ。「店の主人も,もう気にしなくて済むようになった...」とつぶやいて,カウンタに残されていたさっき注文したままのスコッチ・ウイスキーを飲み干しながら,対策を考えた。そして長年付き合いのあるLieutenant(注2)を呼び出す。35分で現れた刑事部長は様子を見て取るとマーロウに忠告する「エレノア・ルーズベルトの手を煩わせないようにしなければ。」(注3)そしてマーロウにはマロイの居所が分かるまで姿を隠しているようにという。(続く)
注1:Jointは「きれいな言葉」で言った場合の「Touch」と同じで,人々が接触する場,という意味である。もちろん上品な接触の仕方から最終的な接触の仕方まですべてを含む。通常は「安酒場」などと訳されるが,大抵は街の女が客を見つける場所である。
田中小実昌によれば「ロスアンゼルスには明確な境界があり,その線を越えると世界が,そして空気が変わる」という。そのような「界隈」に入ると,匂いが,そして言葉が変わる。
注2:Lieutenantはその国,その地域の警察組織によって地位が異なる。刑事コジャックなどを参考に考えると,ここは「デカ長」あたりが正解なのかも知れない。田中小実昌はこんなところまで確実に調べるため,翻訳の際は必ず現地を必ず訪れたという。
注3:ルーズベルトは共和党であったが,その政策は民主党的でもあった。特に夫人のエレノアはブルジョア出身ではあったが黒人開放運動,人権運動に心血を注いだことで有名である。共和党ではなくて恐妻党である探偵は,最初この部分を「怖い山の神に知られないためには」という意味だと誤解してしまったが,考えて見るまでもなく,マーロウは独身なのであった。

