さらば愛しき女よ(12)
魔窟からの脱出:
-部屋には煙が充満していた。煙は細いまっすぐな線になって立ち上り,そして細かい透明なビーズのカーテンのように降りている。それは空気にも溶けず,漂わず,動きもしなかった。まるで何千匹もの蜘蛛が織った灰色の巣のようだった。私はそんなにも多くの蜘蛛がどのように協力し合えたのかをしきりに考えようとしていた…
「ようし,マーロウ。お前は身長が6フィート,体重が190ポンドのタフな男だ。打ちのめされ疲れ切ってはいるがまだまだ筋肉は固く,ガラスの顎じゃない。二度尻もちを着き,麻薬は打たれたがまだ2匹のネズミがダンスを踊るほど狂ってはいない。で結局どうする?いつも通りやるだけさ。さあ,本当にタフなところを見せろ。起き上がれ。」(注1)
マーロウはドアを目指して這いずって行く途中で誰か別の人間が部屋の中にいることに気づいた。
悪夢の1つであれと願いながら,ライターの火を近づけてみると,それはトミーだった…
― 彼はもう2度とトランペットを吹くことができなくなっていた。
私は打ちのめされて,ベッドに戻ることにした。ベッドが世界中で最も美しい場所のように感じられたのだ。そのベッドは奴らがキャロル・ロンバード(注2)のところから持ってきたに相違なかった。彼女には柔らかすぎたのだろう -
しかし,ベッドに横たわったマーロウは部屋に近づいてくる足音を聞いて,新たに作戦を立てる。死んだ振りをすることだった。
「おいお前,アンソールさんがお呼びだ。」
マーロウはいきなり男に飛び掛って拳銃を奪い取った。それを手にようやく部屋の外へと出る。
「意識のあるうちにここから脱出しなければ」
もつれる足を必死に動かしてなんとかバルコニーのような所に出てみると,この建物が植民地時代の古い館であり,それをそのまま改築せずに「最も古い職業」のために使っていることに気づく。幾つかのドアをそっと開けてみると,そこには魔窟の風景があった。別のドアの向こうからも女の病的な笑い声や,すすり泣きの声が聞こえている…
マーロウはフランシスの部屋を探し当て,中で金を勘定していたフランシスに銃を突きつけて事情を探る。しかし,フランシスはムース・マロイについても,マリオットについても知らん振りをした。マーロウが拳銃の意味を改めて教えて,聞き出そうとした矢先に,売春婦の1人が「娘さんが男とベッドに入っている」と知らせに来た。フランシスはマーロウの制止も聞かずすっとんで行き,ベッドインしている娘を引きずり出して殴りつける。
「God Dam Tramp! (この売女!)」(注3)
泣き叫ぶ娘と揉みあうフランシスに,相手の男(シルベスタ・スタローン)が発砲した。フランシスは何発も弾を受けて即死した。
思いがけない展開に,館は騒然となり,中にいた者達もいっせいに逃げ出した。マーロウもそれにまぎれてようやく脱出に成功した。
安全な場所は1つしかなかった。マーロウは夜の街を必死で歩きとおし,ジョージーに助けを求めた。部屋の中に倒れこんで来たマーロウにジョージーは言う。
「マーロウ,まるでジョー・ルイス(注4)と10ラウンドまで闘ったみたいじゃないか。」
「ディマジオはやったかい?」
「もちろんさ。」(続く)
注1:“OK, Marlowe, You are a tough guy, Six feet of iron man, 190 pounds stripped and with your face washed. Hard muscles and no glass jaw. You can take it. You’ve been sat down twice, You’ve been shot full of hop, until you’re as crazy as two waltzing mice. Now what does all that amount to? Routine. Now let's see you do something really tough, like getting up.”
注2:キャロル・ロンバード
ハリウッドのセクシー女優。後にクラーク・ゲーブルの妻となった。
注3:前にジェシーはヴェルマ・ヴァレントを「流れ女」と呼んだが,Trampは女性に使った場合は最下層の売春婦を意味するものである。
注4:ジョー・ルイスは当時のへヴィー級チャンピオンである。


