さらば愛しき女よ(4)
探偵の勘が赤い糸を探し当てた:手がかり1.「三日月ホテル」
ジョイントの近くには必ずホテルがある。マーロウにはピンと来るものがあった。そこの主人ならヴェルマを見かけたことがあるだろう。
「フローリン?そりゃ,白人用のジョイントかい?」
こんなときに頼りになるのが,エイブラハム・リンカーンだ。
「このホテルの210号室に昔バンドをやっていた男がいる」
「朝日のあたる」どころか,日も暮れてもう三日月が出ているようなドン底の人々が暮らす「三日月ホテル」。エレベータなど無く,階段は腐りかけてぎシギシ鳴り,暗がりからはゴキブリやネズミが今にも走り出して来そうだ。「こういう場所にはいつも覚悟を決めて立ち入らねばならなかった....」
ドアの前に来ると探偵は紳士として振舞う。「フィリップ・マーロウと言います。私立探偵(Private investigator:民間調査員)です。私は市や,州や連邦政府の方から来た人間ではありません。借金の取立て屋でもない。昔フローリンの所で働いていたそうですね?」(注1)
ドアが開き,帽子を取りながら中に入ると,そこは白人の中年男と黒人の奥さんと,そして息子が暮らす部屋だった。
「受付係の話だと,貴方は通りの向こうでバンドをやっていたとか?」
「そう,Tommy Ray & Sun Raysというんだ。レコードも2,3枚出した。聴いたことはないかい?」
「パートは何だったのですか?」, 「トランペットさ」
すこし打ち解けたところでフローリンのファースト・ネームを聞き出し,住所を聞こうとすると直ぐさま答えが返ってきた。
「彼は死んだ」
マーロウは今度は別の角度から聞く。
「彼は結婚していた?」, 「おそらくね」
「フローリン夫人のファースト・ネームは」, 「ジェシー」
トミーの息子がマーロウを気に入ったのか,持っていたボールを嬉しそうにマーロウにパスした。家に訪ねて来る者など本当に久しぶりなのだろう。
「奥さんは今何処に住んでる?」
「それを知って何になるんだ?」
「仕事さ。私の友達がヴェルマ・ヴァレントという女を探している。彼女のことは?昔フローリンで働いていたはずだが?」
「あそこの女達には名前はないよ。」
直ぐには聞き出せないと判断したマーロウは用意した心付けを示してから,こう付け加えた。「何か分かったことがあったら,電話してください」(続く)
注1:マーロウはここでちょっとしたトリックを使っている。フローリンがオーナーの名前だと踏んだのである。探偵の勘は当たっていたのだが...