「離愁」(3)
冒頭,シムノン原作「クーデルクの情夫」(日本での題名は「片道切符」,映画タイトルは「帰らざる夜明け」(アランドロン主演)の音楽も担当したフィリップ・サルドによる哀切な調べに乗せて,ドイツ軍の爆撃に晒される町や村と,焼け出されて続々と避難する人々のモノクロのドキュメント・フィルムが流れる。
そしてカラー映像による物語が始まる。(ここからは原作を知った上での私の独断なので,ネタばれを懸念する読者は先に進んでもらってかまわない。)
主人公を演じるトランティニヤンはうってつけの俳優である。どこが?何を考えているかが今ひとつ外から分からないような,どこか醒めたところがあるからである。仕事がらいつでも聞いているラジオでドイツ軍の侵入を知り,爆撃から避難するため臨月を迎えている妻を連れて家を出なければならないというのに,どこか今ひとつ乗り気ではなく,また密かにこの時,つまり思い切って何かに踏み出す時を待っていたかのようでもある。この辺は微妙で感じる人には感じる,という程度にしておこう。しかし,彼が「避難するよ」と家族に説明した時の娘の質問,「ドイツ軍て手を切り落とすの」には,明らかに彼が抱えているもう一つの問題が暗示されている。誰がそんなことを教えたのか?
車だけでなく荷馬車や徒歩でありったけの財産を持って,正装して駅を目指す人々や着のみ着のままの人々の行列。そしてごったがえす駅で妊娠していることを理由に何とか妻と子供を上流階級向けの一等客車に押し込むと,自分は唯一余裕のあった一般庶民用の最後尾の貨車に席を確保した。そこには,妻の面倒を見て貰っていた知り合いの町医者がいち早く酒場女連れで待っていた。そしてもう一人,貨車の隅に座っていた見知らぬ黒服の女。運命の女となるロミー・シュナイダーの姿に先ほどの音楽とドキュメンタリー・フィルムがカット・バックする。彼は一目でその運命の女の背景を察したのだった。
物語は列車の進行に沿ってこのような内面を持つ男と曰くのありそうな美しい女の心の揺れを描いて行く。まるで何処までも破滅に向かって進むように。
列車は走り出した。原題である「列車」は,シムノンの「汽車を見送る男」(L’homme qui regardait passer les trains)を読んだことのある人には単なる列車でないことがわかるだろう。以下はその冒頭部分を拙訳したものである。
「しかし正確に言えば、彼にしても、万一自分を振り返ってみて自分の気持ちの中にそのような物騒な未来を想定できないか探ったとすれば、いつも列車が通り過ぎるのを見るたびに、特に夜行列車が旅の神秘を押し包むようにブラインドをすべて深々と降ろして疾走するのを見るとき、彼に忍び寄ってくるあの奇妙な、半ば犯罪へと足を踏み入れるような感情を見出した可能性が,まったく無いわけではなかっただろう。」
こうして列車は走り出す。蒸気機関車の動輪が重々しく動き出したとき,逆らえない運命が始まったのだ(続く)。