渚にて | 映画探偵室

渚にて

On the beach(1966)

潜望鏡を通して見たゴールデン・ゲート・ブリッジには車が1台も走っておらず,その向こうに見えるあの有名な坂道にも人影はまったくない。

スタンリー・クレイマーが描き出した核戦争による終末の日の予想図。時はいつしか世紀をまたぎ,映画内で予想された日はもうとっくに過ぎ,そして本当に幸いにも彼の予想(もちろん,本当は警告だが)は外れたが,しかし,この映画は決して古びていない。
広島と長崎を体験した日本人には甘いと思われる方も多いだろうが,この映画の主眼はもう1つ別の所にある。皮肉なことだが,人類という命の炎が消える直前の一瞬の煌きである。

スレッシャー号(1963年ボストン沖で何らかの事故発生,浮上不能となり海底に沈んだ。後に1300mほどの深海に横たわる船体が発見された)と同型の原子力潜水艦が浮上して航行するバックにオーストラリアのフォーク・ソングであるウォルツィング・マチルダが流れる。その能力を生かして長く深く潜行していた間に海上(陸上)では核戦争が勃発し,生き残っている人類はオーストラリアにしかいない状況となっていた。アメリカの良心グレゴリーペック演ずるドワイト艦長は,故郷のアメリカに帰るまえに,情報収集と補給修理を目的にシドニーに寄航することになる。しかしオーストラリアとて放射能の雲に汚染され,滅亡するのは時間の問題であった。協力者であるオーストラリア海軍の将校アンソニー・パーキンスの待つシドニーに到着して間もなく,無線に生き残りの人間からかも知れない信号が入る。確認のため臨時に出発した潜水艦が結局サンフランシスコで見たものは…
最後の希望も絶たれた。オーストラリアの協力者を送るため艦は再びシドニーに向かい,そして最後の時を迎えるため乗組員たちの故郷であるアメリカに戻ることとなる。

間もなく死ぬと分かったら人々はどうするか。残りの時間を精一杯に生きることしかないのである。それは誰にとっても,通常の人生においても,同じことなはずだが,今更初めてのように人々は生きる実感を味わうのだった。仕事などしても意味がないのに仕事をする者,日曜日だからといってわざわざ家族で渓流に出かけて楽しむ者,果たせなかった夢(F1レースに自慢のフェラーリを駆って出場)を果たす者(技術者役のフレッド・アステア)などなど。とかくの噂があり独身のままで終わろうとしていた女(エヴァ・ガードナー)はドワイト艦長に恋をし,ドワイト艦長もそれに対し愛で返す。艦長が女を艦に迎え入れたとき(「女乗せない潜水艦」というのはアメリカでも同様らしい),船員たちはいっせいに敬礼することで二人を祝福した。
その日が来て愛車に乗ったまま死を迎える技術者,苦痛を和らげるための薬を飲む決心をした若い海軍将校夫妻と幼いこども。しかし中でたった1人だけ,渚を見下ろす小高い丘から離れていく潜水艦に手を振って見送るエヴァ・ガードナーの顔だけは精一杯生きた幸福に満ちていた。
後には教会が主催した臨終の時を迎えるための横断幕が人影の無い町の通りにはためく。
「人々よ,今からでも遅くはない」
ワタシは1966年横須賀で同型の潜水艦を見た。ソード・フィッシュ号という。ひょっとしたらあの潜水艦はソード・フィッシュ号を使ったのではないかと疑っている。