角田光代「かなたの子」感想 | S blog  -えすぶろ-

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角田光代の小説は「八日目の蝉」に続きこれが2作目でしたが、「八日目の蝉」同様、非常に感動しました。

 

角田光代作品の書評記事↓

角田光代「なんでわざわざ中年体育」

小説「八日目の蝉」角田光代 奇跡のような救い、その秀逸なラストシーン

 

「かなたの子」は泉鏡花文学賞を受賞したというだけあり、主人公たちが陥る「世にも奇妙な物語」的短編8編からなる連作短編小説集です。

各2編ずつが同様な主題を持った4組の対になっていて、各組とも、時代設定は最初の話が昔で、次が現代(どちらも敢えて詳細な時代や地域を特定できないように書かれている)で、主人公は前半2組が男性、後半2組が女性という構成になっています。いずれも作者が日本各地を旅するようになり、各地の習俗、特に闇の部分を聞く機会が増えたことから産み出された小説のようです。

①「おみちゆき」②「同窓会」

即身仏の伝承に基づく話と、子供の頃に起こしたあることから逃れられず苦しみ続ける男の話。

共通項:過去の罪・閉じ込められること

③「闇の梯子」④「道理」

屋敷の霊にとり憑かれる憑依譚を基にした話と、昔振った女に久しぶりに会いに行った男に降りかかる出来事についての話

共通項:憑かれる・呪文

⑤「前世」⑥「わたしとわたしではない女」

前世・生まれ変わり伝承、口減らしの因習に基づく話と、双子が生まれると一人は殺すという因習に基づく現代の話

共通項:出産・子殺し・一人称文体

⑦「かなたの子」⑧「巡る」

死産した子に対する習俗と死んだ子供たちが行く場所「くけど」の伝承にまつわる話と、夫に捨てられ幼い娘と二人きりで生きてきた女が起こしたあることが徐々に分かっていく話。

共通項:母性・我が子を求めた聖地への旅

 

ネタバレするとまだ読んでいない方に悪いので、詳しく内容は書けませんが、上記のような内容の短編を読み進むうちに、心と習俗の闇の部分、自分という存在の脆さや不確かさ、男女間の深い溝、生きることと死ぬこと、個としての命と命の連鎖について等々、様々なことが頭を埋め尽くし、揺さぶられ、心のざわつきが次第に大きくなっていくような短編小説集でした。

そして、最初の「おみちゆき」から最後の「巡る」まで緩やかに設定・主題が繋がりつつ、「巡る」のラストシーンに辿り着くと、そこでまた、「おみちゆき」「同窓会」の主題へとループするという見事な構成になっています。

後、「八日目の蝉」同様、この短編集でも男たちのダメっぷり全開(笑)読み進めていく中で、男としてちょっといたたまれないような気分にもなってきました。。。(特に「道理」の啓吾って奴は・・・)

 

私はこの短編集の中で、特に「前世」に非常に心打たれました。とても悲しくむごい因習にまつわる話ですが、その因習で失われた命の意味・救いを必死に表現しようとした作者の思いが強く伝わってきました。主人公の心の中で過去と未来、夢と現実、母と子、主客が混然一体となっていくような心理描写の巧みさもあり、幻想小説という枠を超え、命の連鎖を見事に描いた傑作だと感じました。

この「前世」を読んで、柳田國男の「山の人生」に載っていたとても悲惨でありながら感動的な実話と、それについて小林秀雄が「信ずることと知ること」で論じた話とを思い出し、すぐに両方とも読み返してみて、感動を新たにしました。下に転載しておきますので是非、「前世」と併せてお読み下さい。

 

柳田國男「山の人生」より
「山に埋もれたる人生あること」
今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧を磨いでいた。「おとう、これでわしたちを殺してくれ」といったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢に入れられた。
この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕み朽ちつつあるであろう。

 

小林秀雄「考えるヒント3」収録「信ずることと知ること」より

さて、炭焼きの話だが、柳田さんが深く心を動かされたのは、子供等の行為に違いあるまいが、この行為は、一体何を語っているのだろう。こんなにひもじいなら、いっその事死んでしまえというような簡単な事ではあるまい。彼等は、父親の苦労を痛感していた筈である。自分達が死ねば、おとうもきっと楽になるだろう。それにしても、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、全く平静で慎重に、斧を磨ぐという行為となって現れたのか。
<中略>
夕日は、斧を磨ぐ子供等のうちに入り込み、確かに彼等の心と融け合っている。そういう心の持ち方しか出来なかった、遠い昔の人の心から、感動は伝わって来るようだ。それを私達が感受し、これに心を動かされているなら、私達は、それとは気付かないが、心の奥底に、古人の心を、現に持っているという事にならないか。そうとしか考えようがないのではなかろうか。
<中略>
炭焼きの子供等の行為は、確信に満ちた、断乎たるものであって、子供染みた気紛れなど何処にも現れてはいない。それでいて、緊張した風もなければ、気負った様子も見せてはいない。純真に、率直に、われ知らずおこなっているような、その趣が、私達を驚かす。
<中略>
みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろう。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したこのような智慧がなければ、人類はどうなったろう。そんなものまで感じられると言ったら、誇張になるだろうか。